89.入れ替わりましょう、お姉さま
ウィルヘルム殿下に連れていかれたのは、古い石塔の中。
かつて、わたしが投獄されていた地下牢だった。
「きゅぅ……」
ポシェットの中のポンポンが心細そうに小さく鳴く。
「隠れてて」
ほとんど声を出さずに言って、片手でこっそり頭を撫でた。
明かりといえば、通路にぽつりぽつりと置かれた松明の頼りない火だけ。
地下へと続く螺旋階段を降りる自分たちの足音が冷たく響き、湿気がじめじめと肌を刺す。二度と戻ってきたくなかった場所。
「ウィルヘルム様……まさか、こんなところにリズラインを?」
「罪人には相応しい場所だろう」
素っ気ない声が返ってくる。
彼にとってリズラインは今や「価値のない女」でしかないのだ。
やがて、いちばん奥の牢の前でウィルヘルム殿下が足を止めた。
「大嘘つきの妹はここだ。思い出話でもするといい」
鉄格子の向こうで、白い塊が微かに動いた。
「リーズ……なの?」
錆びついた柵の向こう、壁際に身を預ける恰好で、女性が一人、座りこんでいた。
牢獄には場違いとしか言えない淡色のドレス姿。
薄汚れたブランケットを体に巻きつけて、震えている。
「アリア……テッサ……?」
掠れた声が、わたしの名を呼ぶ。
抱えた膝から顔を上げたのは、変わり果てた姿の妹だった。
陽の射さない地下牢で、ろくに食べ物も与えられていなかったのだろう。やせ細った顔の中で、目だけが白く大きく見える。
「リズライン!」
わたしの声は、石の壁に反響して異様に大きく響いた。
双子だと、今ほど実感したことはない。
牢の中のリズラインの姿は、ここに幽閉されていたときのわたしにそっくりだった。
どれくらいの期間、ここに閉じ込められていたのか。
『白銀の聖女』と謳われた美貌は、いまや手折られ、打ち捨てられた花弁のように萎れていた。
「おねえ、さま……」
弱々しい仕草で、リズラインが這い寄ってくる。
「ウィルヘルム様! 鍵を開けてください、早く!」
牢番に向けて、ウィルヘルム殿下が面倒くさそうに顎を上げた。
鍵がはずされるのを待つのももどかしく、鉄格子の中へと転がりこむ。
「リーズ! しっかりして」
以前よりさらに華奢になってしまった体を抱きしめる。
腕の中から、リズラインが力なくわたしを見上げた。
「やっぱり、生きていたのね……アリアテッサ。来てくれるって、思ってた。ずっと呼んでいたのよ」
「ええ。聞こえていたわ」
遠いプレスターナの地で、何度もリズラインの夢を見た。
月夜に現れた幻を追いかけたこともあった。
あれは、助けを求める妹の想いが届いていたんだ。
わたしのことなど忘れ、ウィルヘルム様と幸せに暮らしているとばかり思っていたのに。
こんなことになっていたなんて……!
「きれいな髪……」
妹が手をのばし、わたしの髪にふれた。
「きれいね、アリアテッサ。肌も、髪も……以前と全然、ちがう。とても変わったわ」
細い指が、なぞるように髪から頬へと降りた。
それから首筋へと伝い、ペンダントの鎖を力なく引く。
シャラ……と小さな音をたて、鎖に通したエメラルドの指輪がドレスの胸もとからこぼれ落ちた。
胸の前で揺れる指輪を見て、リズラインが眩しそうに目を細める。
「しあわせ、だったの?」
「……ええ。優しい人に会えたの」
――そのひとには、もう会えないけれど。
彼の近くで生きることができて、わたしは確かに幸せだった。
「そう。よかった」
リズラインの目に涙がうかんだ。
「ウィルヘルム様が怒るの……ダルトアがこんなことになったのは、リーズのせいだって。助けて、アリアテッサ。ここから出して。お願い……」
妹に対する怒り、疑念、憎しみ。
そんな負の感情が、あっけなく溶けていく。
「わかったわ、リーズ」
リズラインが、安堵したように息を吐いた。
「ありがとう……大好きよ、お姉さま」
ぞくりと鳥肌が立った。
『大好きよ、お姉さま』。
それは妹が、わたしから何かを奪っていくときのお決まりの台詞だったから。
(どうして今、それを言うの?)
リズラインの手が、エメラルドの指輪を鎖ごと掴んだ。
そのまま、ぐい、と強い力で引き寄せられる。
「痛たっ」
思わず小さく悲鳴を上げたわたしの耳元で、リズラインが囁いた。
「これ、ちょうだい?」
「え?」
「いい考えがあるの。わたしたち、入れ替わりましょうよ」
「……何を言ってるの、リーズ!?」
にやり。
薄闇のなかで妹が笑う。
「アリアテッサは元どおりウィルヘルム殿下と結婚して、ダルトアの王妃になればいい。代わりに、わたしがプレスターナに行くわ。何も問題ない。だって、わたしたちは同じ顔の双子だもの」
「そんなこと、できるわけないじゃない」
ぞっとした。
こんなことを言い出すなんて、正気じゃない。
「……うそつき」
リズラインが悲しげに呟いた。やつれた顔に、みるみる憤怒の色が染み出していく。
「嫌なのね。助けてくれるって、言ったのに。……アリアテッサの嘘つき。リーズのお願い、きいてくれないんだ。嘘つき。嘘つき。嘘つき嘘つき嘘つき……!」
「リーズ、聞いて」
壊れたように同じ言葉ばかりを繰り返していたリズラインが、急に黙る。
その瞳が、刃のように光った。
色のない唇から、乾いた声が漏れる。
「じゃあ、いなくなってよ」
「……え?」
リズラインが跳ね起きた。
次の瞬間、獣のように獰猛な力で、わたしは冷たい床に組み敷かれていた。




