88.真の聖女
「ウィル、ヘルム様……?」
恐怖を感じて後じさった。
反対に、ウィルヘルム殿下はわたしの手首を掴む腕に力を入れ、引き寄せる。
「僕には最初からアリアテッサしかいなかったんだ。手放したのは間違いだった。やり直しだ、今すぐ妃にする」
「今さら、何を……あなたはリズラインと結婚すると言ったじゃありませんか」
うつろな瞳をこちらに据えたまま、ウィルヘルム殿下は首を横に振った。
「僕はリズラインに騙されていた。アリアテッサ、お前もだ」
「どういう意味です?」
「もともと聖女なんかじゃなかったんだよ、あの女は。僕たちはずっと欺かれていたんだ。リズラインと、あの老いぼれに!」
口調を荒げる殿下の背後で、謁見室の扉が開いた。
両手を後ろに戒められた年配の男性が、ミュラーさんたちに引き立てられて入って来る。
力なく床にくずおれたその老人は、神官長だった。
十年前、リズラインを聖女と認定し、王都に迎えた人だ。しばらく会わない間に、いっそう年老いてしまったように見える。
わたしを見上げ、神官長は涙を流してかきくどいた。
「ア……アリアテッサ様! お許しください。あのとき私が聖女の認定を誤ったばかりに、貴方様にお辛い思いを……!」
「聖女の認定を、誤った?」
神官長が顔を伏せる。
代わりに、ウィルヘルム殿下が吐き捨てるように言った。
「真の聖女は、アリアテッサ、お前だったんだ」
「……え……?」
「この節穴神官長め、今になって聖女はアリアテッサの方だと言い出しやがった。お前が去ったおかげでダルトアは災厄に見舞われていると。常にリズラインと一緒にいた姉のお前にこそ、神の加護があったのだとな!」
何を言われているのか、わからなかった。
わたしが、真の聖女――?
「笑えるよ、まったく。俺も兄上も、アリアテッサ、お前も! 国じゅうがリズラインと、このじじいに騙されていたんだ!」
「あ、欺くつもりなどございませんでした! 私とて聖女が双子で生まれるなど聞いたこともなかったのです。おふたりのどちらが加護の持ち主なのか、見誤ってしまった……決して故意ではなかったのです。むしろ私は、リズライン様に思いとどまるようにと……」
「思いとどまる? 何をです?」
「お、恐ろしい方です、リズライン様は。あの方はアリアテッサ様を」
「誰が勝手に喋っていいと言った!」
やっと手を離したウィルヘルム殿下が、神官長の脇腹を蹴り上げる。
「やめてください!」
神官長に覆いかぶさったわたしを、殿下はふたたび力づくで抱き起した。
「お前もこいつが憎いだろう。好きなだけ殴るといい、俺が許す」
「そんなこと、したくありません」
「ああそうか、お前は本当に優しいな、アリアテッサ。僕のことも許してくれるよな? 僕たちはもう一度愛し合うんだ。お前も嬉しいだろう?」
「い……いや!」
顔を近づけてくるウィルヘルム殿下から逃れるため、全力で身を捩る。
彼の瞳に、たちまち剣呑な光が宿った。
「こいつ、前は僕の顔色ばかり窺っていたくせに! プレスターナの男に骨抜きにされたか!」
「きゃあっ」
今度は思い切り突き飛ばされる。
ポンポンをかばったせいで顔から床に倒れ込んだわたしを、ミュラーさんが慌てて助け起こしてくれた。
「殿下、聖女様に乱暴はなりません」
「うるさい! お前まで僕に逆らうか、ミュラー!」
地団駄を踏んで怒鳴り散らすかつての婚約者の声を聞きながら、呆然とポンポンを抱きしめた。
これは、現実?
聖女の選定を誤った、って。
リズラインは聖女じゃなかった、って。
妹は、知っていたの?
それとも、ずっと自分が聖女だと信じていた?
もしもそうなら、あの子だって……
「さあ来い。結婚式の準備だ」
伸びてきたウィルヘルム殿下の手を思いきり払う。
「リズラインに会わせて!」
「まだ逆らうか、この……!」
振り上げられた手をミュラーさんが止める。
力ではかなわない第二王子は大きく舌を打ち、またこちらを睨んだ。
「おまえはリズラインに陥れられた。ありもしない暗殺計画の犯人に仕立て上げられたんだからな。憎んでいるはずだ。あんな女、死ねばいいと思っているんじゃないのか」
「妹の嘘には、たしかに苦しみました。でも……あの子の死を願ったことはありません」
怒りの感情が一切ないわけじゃない。
でも憎む前に、どうしても確かめたいことがある。
ウィルヘルム殿下が弾かれたように笑い出した。
「ああ、僕のアリアテッサは世界いち優しい。そして愚かだ。自分が何をされたのかもわかっていないとは!」
目の前で嘲笑する元婚約者の姿が、ひどく醜く見える。
わたしに婚約破棄を言い渡したあのとき、はっきりと彼は「リズラインを愛している」と言ったのに。
「ウィルヘルム様……リズラインを好きだったのでしょう? 兄君の王太子殿下から奪ってまで結婚したかったのでしょう? お怒りはわかります。でも、どうして今になってわたしと……」
「おまえが『聖女』だからだよ、アリアテッサ」
悪びれもせず、ウィルヘルム様は答えた。
「この僕にとって価値のある女だからだ。一生、僕の役に立て。その代わりどんな贅沢も許してやる。隣国の男との不貞もなかったことにしてやるぞ」
――『価値のある女』。
その言葉は、乾いた響きをともなって胸の底に落ちた。
価値のある女。
わたしはずっと、そうなりたかった。
誰かにとって役に立つ人になりたかった。何もない自分が嫌だった。
だけど。
シルヴィオさんは、わたしに「役に立つこと」なんて求めなかった。
偽りの婚約が必要なくなっても、守ろうとしてくれた。
そう。
彼は何も、わたしに求めなかったのに――。
あの人から離れて、いま、わたしは何をしてるんだろう。
このままリズラインと顔を合わせることもなく、彼女を闇に葬って、ウィルヘルム様と結婚する?
そんなこと、わたしは望んでない。
リズラインに会いたい。話がしたい。
そして何が起きているのかを、ちゃんと知りたい。
「妹に会わせてください。すべてはその後です」
絞り出した言葉に、ウィルヘルム殿下がニヤリと笑った。
わたしの腕を掴み、強引に立ち上がらせる。
「まあいい。その善人面を妹の前でも保っていられるか、見物といこう」
彼に引きずられるようにして、わたしは謁見の間から連れ出された。




