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87.元婚約者ウィルヘルム王子

「これよりダルトア王国領に入ります」


 ブレストンを発って三日後の早朝、ミュラーさんがわたしに言った。


 正規の手段ではない越境であることは容易に想像がつく。

 道程はダルトア方面からの避難民で溢れていた。


「結界の効力が薄れていますから、魔獣に遭遇することもあるでしょう。ですが、アリアテッサ様の御身は我々が必ずお守りします。どうか逃げだすことなどお考えになりませんように」


 ミュラーさんの口調は、命令というより懇願に近い。


「わかっています。逃げたりしません」


 事実、わたしはここまで一度だって逃亡しようとしたことはない。 

 最初に馬車に押し込められたその日、さんざん泣いて、覚悟を決めた。


 この状況を最大限に活かすのだ。

 わたしを呼び戻そうとしているのはウィルヘルム殿下だというけれど、こちらは彼に用はない。


 会いたいのは、ただ一人。

 祈りを放棄した聖女——リズラインだ。

 あの子と会って、話をしたい。何が起きているのか確かめるために。


 ミュラーさんの言葉どおり、ダルトア王国領を深く進むほど、外の景色は戦場の様相を呈していった。 


「……ひどい……」


 馬車の窓から見える世界に、ほかの言葉が出てこない。


 いたるところで跋扈する魔獣と、逃げ惑う人々。

 脆くなった結界を修復しようと、傷つきながら祈りを捧げる神官たち。

 そして、彼らを守ろうと必死に戦う騎士団の姿。


 ダルトアの騎士団と共闘するプレスターナ騎士団の姿も目にした。ふたつの国の騎士団が、共闘して魔獣に立ち向かっているのだ。


(あの中に、シルヴィオさんもいる……)


 この戦場のどこかで、シルヴィオさんが命を賭して戦っている。

 イルレーネ様や、ハンスさんも。

 なにも出来ない自分が歯がゆかった。


 ――さらに三日をかけ、一団はダルトア王国の王都へ辿り着いた。


 不思議なことに、わたしを乗せた馬車が魔獣に襲われることはなかった。

 何度か有翼型の大型魔獣の姿も見たし、そのたび思わずポンポンを抱きしめて悲鳴をあげてしまったりもしたのに。まるで、魔獣のほうが避けてでもいるみたい。


 護衛のダルトア騎士団にも、一人の犠牲も出ていない。

 彼らは実に献身的に、わたしを守ってくれた。そのうえ最大限の敬意をもって接してくれる。罪人に対する態度とは思えなかった。


 ただ、あの言葉の意味を、ミュラーさんは説明してくれない。


『皆を救ってください、アリアテッサ様』


 わたしに、リズラインを説得しろということ?

 その妹は、今どこにいるんだろう。





  ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦





 馬車の窓から、外を見る。

 夜が明けた曇天の下に広がっていたのは、見覚えのある景色。ダルトア王宮の敷地内だった。


(大丈夫。リーズは生きて王宮ここにいるわ)


 少しだけ安堵する。

 付近に魔獣の影はない。ここだけは結界が保たれているのだ。それはリズラインが存命で、この王宮に身を潜めていることの証に思えた。


 ただし、美しかった王宮の印象は、すっかり変わっていた。

 手入れがされていないのか、花という花は枯れ果て、建物もどこか煤けている。

 わたしが離れている間に、ずいぶんと寂れてしまったように見えた。


「アリアテッサ様、どうぞ外へ」


 ミュラーさんの手助けで、馬車から降りる。


「きゅー」


 エプロンの中のポンポンが顔を出し、鼻先に皺を寄せた。

 人生の半分以上を過ごしたダルトアの王宮。

 だけど、懐かしいとは思えなかった。


(ここはもう、わたしの居場所じゃない)


 半ば強制的にドレスに着替えさせられ、ミュラーさんたちに周囲を固められながら謁見の間へ向かう。

 人払いがされているのか、それとも貴族たちも逃げ出してしまったのか、長い回廊には誰の姿もない。


 黄金に彩られた重厚な扉が開く。

 最後にここから出たのは、ウィルヘルム殿下から婚約破棄と、修道院への送致を言い渡されたときだ。


「ポンポン、おとなしくしててね」


 ちょこんと覗いているポンポンの顔をポシェットの中に押し戻す。

 きゅ、と鳴く小さな頭を撫でながら、自分の指が震えているのに気づいた。


「アリアテッサ!」


 扉が開ききるよりも早く、わたしの名前を叫ぶ声が耳をついた。


 亜麻色の髪を振り乱した男性が転げるように駆けてきて、足もとに跪く。

 わたしの手に狂ったように接吻を繰り返すその人が、はじめは誰だかわからなかった。


「よく……よく戻ってくれた、僕のアリアテッサ!」


「ウィルヘルム、さま!?」


 驚いた。

 膝を折り、媚びるような笑みを浮かべていたのは、かつての婚約者、ダルトアの第二王子ウィルヘルム殿下だった。


 ただ、わたしの知っている彼じゃなかった。

 頬はこけ、目の下には黒い隈が落ち、肌はひどく荒れている。

 なにより、内側から彼を輝かせていた王族としての自信が微塵も残さず消え失せていた。

 代わりに全身に貼りついているのは、怯えだ。それが彼を別人のように貧相に見せているのだ。


 わたしを見上げる濁った瞳が、じんわりと潤む。


「会いたかった……! アリアテッサ、聞いてくれ。お前を捨てたこと、後悔してるよ。やっぱり僕はお前がいい。生きた心地がしなかった。毎日眠れなくて、心細くて、僕は、僕が……」


 ああ、姿は変わっても中身はそのままだ。

 記憶の中の彼も、いつも自分の話ばかりしていた。


「お察しいたします、ウィルヘルム様」


 やつれた姿を見て率直に答えただけの言葉だったのに、ウィルヘルム殿下は涙を流して頷いた。


「やっぱりお前は優しいな。そして美しい。いや、前よりずっと美しくなった」


 前よりずっと、というけれど、彼がわたしを美しいと誉めたことなんて一度だってあっただろうか。

 空しい。彼の言葉は何もかも。


 体の震えがおさまりつつある。

 変わったのは彼じゃなく、わたしのほうだと改めて思う。


「ウィルヘルム様。わたしを連れ戻されたのは、改めて断罪なさるためですか。修道院行きの馬車を襲わせたのも、あなたが?」


「馬車を襲わせた? なんの話だ」 

 

 ウィルヘルム殿下が、目を丸くして尋ね返してきた。


「断罪など、する理由もないじゃないか。あのときは疑って悪かった。アリアテッサが実の妹を殺そうとするわけがなかったんだ。この世でいちばん慈悲深いお前が……」


 しらじらしいと決めつけるには、ウィルヘルム殿下の表情は子供じみている。


「ウィルヘルム様、リズラインはどこにいます?」


 リズライン、という名前を口にしたとたん、ウィルヘルム殿下の顔つきが険しくなった。


「そんな者は知らん」


「お戯れはおやめください。わたしの妹、そしてあなたの恋人の聖女リズラインです。会わせてください」


「だめだ。それに僕は、あんな女に情けをかけた覚えはないぞ。そもそもあれは聖女ですらないのだからな」


「何ですって?」


「僕には、お前だけだ」

 

 次の瞬間、彼は立ち上がり、いきなりわたしを抱きすくめようとした。


「やめて!」


 反射的に突き飛ばしてしまう。

 よろけながらも、相手は私の手首を掴んで離さなかった。


 乱れた前髪の下で、ウィルヘルム様の目がギラリと光る。


「アリアテッサ、愛してる。結婚しよう。お前をこの国の王妃にしてやる」


 甘く整っていたはずの顔に歪んだ笑みを浮かべ、かつて婚約者だった人は高らかに言った。



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