84.絶望と再生
それからの数日間、診療所に助けを求めてやってくる負傷者は増え続けた。
ダルトア方面から侵入した魔獣に襲われた人々や、彼らを守るために戦っているプレスターナの騎士たち。
それに、命からがら国境を越えて逃げてきたダルトア王国の住人達も。
プレスターナの国王陛下は一時的に国境を開放し、臨時の救護所を開設して避難民の受け入れを図っている。
だけど怪我人が多すぎて、王立病院だけでは、とても受け入れが間に合わないのだ。
デニス先生以外の町のお医者さんたちも、総出で救護活動にあたっているという。
ダルトアへの更なる援軍も次々に出発していく。
王都への魔獣の襲撃こそ、まだないものの、ブレストンは異様な空気に包まれていた。
「アリッサ様、少しお休みくださいな。お疲れでしょう?」
包帯の替えを持ってきてくれたエイダさんが心配そうに言う。
デニス先生もわたしも、ほとんど眠らない日々が続いていた。
ベッドは足りず、床や廊下にまで毛布を敷いて患者さんを寝かせている有様だ。
「わたしは大丈夫です。エイダさんこそ、今夜はちゃんと眠ってください」
睡眠時間が足りないのはつらいけれど、戦場にいるシルヴィオさんのほうが、もっと大変なはず。そう思うと、体が動いてしまう。
シルヴィオさんから預かったエメラルドの指輪は、鎖に通し、ペンダントとして身に着けていた。
疲れたとき、苦しいときはいつも、服の上から指輪に手を当てて祈る。
シルヴィオさん、それに、いま苦しんでいる人たちが、また笑顔になれる日を信じて。
「うぅ……」
廊下に横になっていた患者さんが、苦しそうに呻いた。
頭に怪我を負った若い男性。体は大きいけれど、顔にはまだ幼さが残っている。
「痛い……」
「大丈夫ですか? いま先生が来てくださいますよ」
患者さんに声をかけながら、エイダさんを見上げる。
彼女は無言で頷き、診療所の奥へと駆けて行った。
デニス先生を呼びにいってくれたのだけど、ひっきりなしに患者さんたちの治療をしてる状況だ。しばらく戻って来られないかもしれない。
「包帯、替えましょうね」
なるべく穏やかに話しかけながら、彼の頭に巻かれた包帯を外す。
額の傷は縫合されているものの、紫色に膿んで、どくどくと脈打っていた。
(魔獣につけられた傷だわ)
しかも、かなりの重傷。
わたしが触れても、彼は目を閉じたまま。意識がはっきりしないらしい。
よく見ると、破れて汚れた上着にダルトア騎士団の紋章が縫い付けられていた。
国境付近で戦って負傷し、ここまで運ばれてきたんだろうか?
「ダルトアの騎士さんですね。頑張ってください、いまお薬を……、え!?」
言葉が途切れたのは、急に彼に手首を掴まれたからだ。
「……僕なんか、放っておいていいよ」
仰向けに横たわったまま、若い騎士が呟いた。
「騎士さん? 何を言ってるんです」
「僕は……僕は臆病者だ。魔獣を見て、まっさきに逃げた。……戦えなかったんだ。怖くて……」
うすく開いた瞼のあいだから、涙の雫がこぼれ落ちる。
「聖女リズライン様は、僕らを見捨てたんだから。いずれ、ここにも魔獣がやってくる。……このまま死なせてよ。僕みたいなやつ、生きてる価値もないんだよ……!」
彼の言葉から垣間見える、ダルトア王国の惨状。
改めて思い知る、聖女という存在の大きさ。
王国の花ともてはやされたリズラインは、その美しさと加護で人々を癒すだけでなく、人々が勇敢でいられるための精神的支柱でもあったのだ。
子供のように泣きじゃくりはじめた彼の手を、強く握り返す。
(この人は、過去のわたしだ)
わたしにも覚えがある。すべての希望を失って、生きることを放棄しようとした瞬間。
だからこそ。
彼の気持ちがわかるからこそ、聖女のような特別な力がなくたって、放ってなんかおけない。
「聞いてください、騎士さん。生きる価値のない人なんていません。あなたにできることが、たくさんあるんです。せっかく守った自分の命でしょう? 諦めないで生きるの。わたしは、あなたを見捨てない」
「……生きて……いいの……?」
「当然です。お薬を塗りますよ。染みても我慢して、生きている証拠だから」
軟膏を傷口にのせると、騎士は痛みに呻いた。
(生きて……どうか)
歯を食いしばって耐えていた彼の表情が、ふっと緩む。
「あ、れ……?」
「……?」
傷口が、脈打つのを止める。
毒々しい紫色がみるみる消え、元の肌の色を取り戻していく。
少年騎士が、おもむろに目を開く。
あらためて見下ろすその顔立ちには、本当に、まだ子供といってもいいあどけなさが残っていた。
「……ああ、聖女様。ここに、いたんだね」
わたしの顔をみて、彼は小さく呟いた。
そして再び目を閉じる。こてん、と首が横を向いた。
「き、騎士さんっ!?」
慌てて覗き込むと、彼は気持ちよさそうに寝息をたてて眠っていた。
痛みが消えて気を失ったようだ。
『聖女様』
――それはきっと、熱と痛みが彼に見せた幻。
(でも……今のは、なに……?)
鎮まった傷口を、呆然と見下ろす。
これじゃあ、まるで……
本当に、奇蹟みたいじゃない……!?
「助手のお嬢さん! 助けてくれ!」
大声で呼ばれて我に返った。
男の人がひとり、慌てた様子で駆け寄ってくる。
声は上ずり、帽子の下の表情は今にも泣きだしそうに歪んでいる。
「妹が怪我してるんだ。なんとか近くまで連れてきたんだが、出血がひどくて気を失っちまって……運ぶのに手を貸してくれよ。シュターデン先生に診てもらいたいんだ」
「わかりました! 案内してください」
「助かるよ。悪いね、あんたみたいな細っこいお嬢さんにこんなこと頼んじまって」
「ご心配なく、こう見えてけっこう力はあるんですよ」
強がりじゃなく、デニス先生の助手として働くようになってから体力は上がっていると思う。もちろんエイダさんの力には全然かなわないけれど。
「こっちだ、ついてきてくれ」
駆けだす男性に続いて診療所の外へと飛び出す。
「きゅ!」
窓枠のところにいたポンポンが慌てて飛んできた。
「大丈夫よポンポン、すぐに戻るから」
「きゅー」
ぜったい出ないと言いたげに鼻を鳴らして、ポンポンは仕事用のエプロンのポケットに潜りこむ。
「お嬢さん、早く!」
「あ、はい、すぐ行きます」
男性に急かされ、また走り出す。
斜め後ろから見る彼の輪郭に、ふと既視感を覚えた。
(この人、前にどこかで会った……?)
いつなのか、どこでなのか。すぐに思い出せないけれど、なんだか見覚えがあるような。
それとは別に、さっきから何とも言えない違和感も感じていた。
でも、理由がわからない。
(なんだろう……気のせいかな)
彼の後を追って、診療所の門を出る。
「妹はあそこにいる。あの茂みの向こうで倒れてるんだ」
近くの木立へ入ったところで、男の人が前を指さした。
木綿のシャツを着た背中に、大きな枝の影が黒く落ちる。
(あ、)
……やっとわかった。ずっと感じていた違和感の正体。
彼の着ているシャツだ。
出血した妹さんを連れて、やっとの思いで診療所の近くまでたどりついたと彼は言った。
そのわりには、服が汚れてない。
怪我人に肩を貸すなり背負うなりしたなら、腕や背中に血液の染みがついているのが普通なのに。
(何か、変じゃない?)
そのときだ。
男の人が振り返り、黒い布をわたしの顔めがけて強く押しつけてきた。
「!?」
酸っぱいような甘いような、強烈な香りが鼻をつく。
(息ができない!)
振りはらう間もなく、背後から別の誰かに羽交い絞めにされた。
(助けて、誰か――!)
口を塞がれているせいで声も出せない。
強烈な香りに頭の奥が痺れる。
急激に視界が暗くなる。足もとから力が抜けていく……。
「へっ、ちょろいな」
「あのメイドが近くにいなけりゃ、こっちのもんだ」
「喋ってねえでさっさと連れて行け! 大事な金蔓だろうが」
何人かが交わす低い声を遠くに聞きながら、わたしは無意識の暗闇へと落ちていった。




