83.加護なき世界
廊下のあちこちに毛布が敷かれ、たくさんの人々が力なく横たわっていた。
誰の服も沈んだ色合いに見える。土や埃、そして血液で汚れているせいで。
いっそう強く鼻をつく臭気。
これは、血の匂いだったんだ。
「先生……これは」
「プレスターナにも魔獣が侵入したんだ」
デニス先生が悔しそうに答える。
「魔獣が!?」
「うん。ダルトアとの国境付近に結界の裂け目ができて、プレスターナの防衛魔術だけでは修復が難しいそうだ。騎士団が応戦してくれてるけど、近郊の街では怪我人が大勢出てる。王都まで逃げて来られた人たちは、これでもまだ軽傷なほうだと思う」
「軽傷って……」
とてもそうは思えない。
王都以外の町では、どれほどひどいことになっているんだろう。
「怪我人が多すぎてベッドが足りない。このままじゃ薬や物資も不足してしまう」
「他所の病院も、どこも満床だそうですわ。人手も足りないので、わたくしも不慣れながらお手伝いさせていただいておりますの」
エイダさんが補足した。
毛布を広げた床に横たわる患者さんたち。
大人も子供もいる。高価そうな服を身につけた怪我人もいる。
故郷を捨て、命からがら逃げてきたダルトア王国の貴族も含まれているのかもしれない。
騎士団の制服を着た人もいた。魔獣との戦闘で傷ついた負傷者だ。
「!」
ひとりの患者さんの姿が目にとまり、思わず息をのんだ。
肩章つきの上着を羽織った、長身の男性。
頭に巻いた包帯の隙間から金色の髪がこぼれている。
肩の傷が床に触れないように体を傾けているせいで、顔がよく見えない。
「シルヴィ……!」
駆け寄ろうとして、またふらつく。
床に倒れる前に後ろから抱きとめてくれたのは、デニス先生だった。
「あの人はリーンフェルトじゃないよ。彼が率いる特別隊は、今ごろダルトア王国との国境付近で戦っているはずだ」
よく見ると、横になっている患者さんは、シルヴィオさんよりも体の細い、若い騎士だった。
「……わかってるよ、アリッサ」
デニス先生が囁いた。
腕に少しだけ力がこもり、そして離れる。
「僕はリーンフェルトの無事を信じてる。僕たちがここで、こうしていられることが、その証だ。彼は今も戦っている。きっと無事に帰ってくるよ」
「先生のおっしゃるとおりですわ。旦那様はプレスターナが誇る最高の魔法騎士ですもの。信じてお待ちしましょう」
エイダさんも言い添える。
空気を変えるように、ルティが明るい声を出した。
「あたし、厨房に戻るね! ユストさんにも知らせてあげなくちゃ、アリッサが目を覚ましたって」
「ユストさんも診療所に?」
「うん、患者さんのご飯をつくってくれてるの。あたしたち、ユストさんのお手伝いしてるんだ。アリッサにも美味しいご飯もってきてあげるからね! カティ、いくよ!」
「あ! おねえちゃん、まってー!」
ルティの後を追って、カティも廊下を駆けていく。
その背中を見ながらエイダさんがクスッと笑った。
「ルティちゃんたち、とっても一生懸命お手伝いするんですって。ユストが誉めてましたわ。あ、リーンフェルト邸のことはご心配なく。父が万事取り仕切っておりますので」
「ユストくんの協力には感謝しかないよ。おかげで僕は治療に集中できる。もちろんエイダさんにもね」
次々と患者さんが運びこまれる診療所、唯一の助手であるわたしは昏睡状態。
エイダさんとユストさんは、たったひとりで診療に当たるデニス先生を助けてくれていたのだ。
状況がわかってきたら、居てもたってもいられない。
「わたしもお手伝いしま……わっ!?」
「ああ、ほらアリッサ様、ご無理なさらないでくださいったら! 最初に水分補給、それからお食事ですわ」
また前のめりに転びそうになったわたしを受け止めて、エイダさんが叱るように言う。
デニス先生も頷いた。
「そうだよ。まずは体力を回復させることを考えて。そのあとで、うんと手伝ってもらうから!」
「はい……」
力の入らない体をベッドに戻し、頷く。
窓際で見守っていたポンポンが、パタパタと翼で飛んでやって来た。
わたしが眠りつづけていた三日三晩は、想像以上に過酷な時間だったようだ。
転機は星祭りの夜。
考えられる原因があるとすれば、あの流星群だ。
流星が流れるとき、天地の均衡は揺れる。
昔から、そういわれてきた。
空から地上へ落ちる流星は結界を貫くとされ、流星群が現れる夜には、結界強化の儀式を行うのがしきたりになっている。
「星祭り」や「降星節」の起源は、本来それなのだ。
それでも今まで――少なくともわたしが生まれてからは、プレスターナの結界が崩れたことなんて一度もなかった。
『たすけて』
夢で聞いたリズラインの言葉を思い出す。
もし、リズラインの聖なる加護が弱体化していたのだとしたら?
そこへ流星群が影響を及ぼし、ダルトア王国の結界を崩壊させてしまった……?
故郷の国は、いま、どうなっているのだろう。
魔物が跋扈する国から逃げ出すこともできずにいる人々は。
両親は。ウィルヘルム様や王太子殿下は。
妹は……リズラインは。
つらい記憶ばかりの故郷。
それでも、そこに生きている人たちの安否に思いを馳せずにはいられない。
いま目の前で苦しんでいる人たち同様に、ダルトアの民のほとんどは、日々を慎ましやかに生きている罪なき人々のはずだ。
「シュターデン先生! 怪我人だ、見ておくれよ」
廊下の向こうから悲鳴に似た女性の声がした。
デニス先生が立ち上がる。
「ごめん、いちど離れるよ。エイダさん、アリッサの体調に少しでも変化があったら呼んで。頼んだよ!」
「かしこまりました」
駆けだしていく先生を見送ったエイダさんが、エプロンのポケットから小さな布に包んだ何かを取り出した。
「アリッサ様、これを。お倒れになったとき、お手に握ってらしたものですわ」
渡された包みを開いてみる。
中から現れたのは、シルヴィオさんに渡されたエメラルドの指輪だった。
「旦那様から贈られたのですね。先代の奥様——旦那様の母君の肖像画に、この指輪が描かれております。対の指輪は先代様が、お亡くなりになるまで着けていらっしゃいました」
「そんな大切な指輪を、わたしに……」
胸の底が熱くなった。
リーンフェルト家に代々受け継がれ、亡きご両親の想いさえも詰まった指輪。それを、シルヴィオさんはわたしに預けてくれた。
しかも、いざというときには命を守る術に使っていいとさえ――。
押し殺していた感情が、涙になってこみ上げる。
やっぱり、自分の気持ちにだけは、嘘はつけない。
「きゅー……」
枕の横にちょこんと座ったポンポンが、慰めるように鼻先を寄せてきた。
エイダさんが腕をさすってくれる。
「泣かないでくださいませ、アリッサ様。これは旦那様からの最強のお守りですわよ。ご無事のお帰りを信じて待ちましょう。ね?」
「はい……」
頷くのが、精いっぱい。
(シルヴィオさん……どうか、無事でいて)
指輪を握った両手を固く合わせ、心の中で強く祈った。