80.流星群の下で(1)
リーンフェルト家に伝わる指輪。
宝石の輝きや大きさから推測するに、その資産価値は王室の所持品と比較しても遜色ないはずだった。
「そんな大切なもの……! どうして、わたしに?」
「そばにいられないときに身につけて、きみの不安が少しでも紛れるように。もちろん俺は生きて帰るつもりだ。でも、万が一のときは命を守る糧として使ってくれていい」
「……」
予想とは正反対の言葉だった。
偽装婚約の解消についての話し合いになるかと思ったのに。
彼の手の中で、エメラルドがきらめいている。
潤むように揺れる緑色の光。わたしを見つめる瞳と同じ色。
(……ああ、やっぱり)
この人は優しすぎる。
シルヴィオさんにとって、わたしは何の義理もない相手なのに。放り出すことができない。自由になれない。
この指輪だって、差し出すべき相手が違う。こんな大切なものまで与えて、わたしを守ろうとしてしまう。
自分の想いを優先することができない人。
彼を解放してあげられる手段は、たった一つ。
かたく両手を握り合わせ、下を向く。
意を決して、口を開いた。
「受け取れません」
シルヴィオさんが息を呑む気配がした。
「なぜ?」
「わたしがお預かりするべきじゃないと思うからです」
「俺たちは婚約中だ。きみがこの指輪をもつことに矛盾はない」
「偽装婚約、ですよね?」
偽装婚約、と言ったときの声音は、自分でも驚くほど無機質に響いた。
「……そうだ。でもアリッサ、俺は」
「わたしからも、シルヴィオさんにお話ししたいことがあります」
「言ってくれ」
言葉を遮ったことに怒りもせず、シルヴィオさんは静かに促す。
穏やかなその態度に、心が揺らいだ。
(だめ。伝えなくちゃ)
終わりにするの。
彼が本当に想っている人を、心置きなく愛せるように。
シルヴィオさんに、自由をあげたい。
「わたし、お屋敷を出ます。婚約も今日で解消させてください。今まで、ありがとうございました」
ひと息で言い切って、頭を下げた。
「待ってくれ、なぜ急にそんなことを」
動揺した様子でシルヴィオさんが尋ねた。
そんなに驚くなんて、偽装婚約の解消は微塵も考えていなかったんだろうか。だとしたら優しいにも程がある。
「前から考えていたことです。良くしていただいたおかげで、小さなお部屋を借りられるだけの貯えもできました」
「部屋を借りて、その後はどうする気だ」
「一人で暮らして、今までどおり診療所で働きます」
「それだけか? だったら出て行く必要なんてないだろう」
指摘に返す言葉がなくなる。
「……もう、決めたんです」
「約束の期間もまだ残ってる。一年間は婚約を続けると、きみも納得してくれたはずだ」
「勝手だって、わかってます。でも言ってくださいましたよね、わたしが望むなら一年以内でも婚約は解消するって」
「確かに言った。ただ、説明が欲しい」
長躯を屈めて、シルヴィオさんがわたしと視線の高さを合わせる。
「無理をさせていたのか。夜会に連れ出したことなら謝るよ。社交はしなくていいと言ったのに、負担をかけてすまなかった。今夜だって、こんなに待たせて」
「シルヴィオさんは悪くありません」
「家の者とも仲良くやってくれていると思っていた。俺が気づかなかっただけで、本当は辛いことが?」
「いいえ」
「ほかにどんな理由があるんだ、教えてくれ」
尋ねる声に力がこもる。
こちらを見つめるシルヴィオさんの目。
出会ったときからずっと、曇ることのない綺麗な緑。
「……」
ますます自分が嫌になる。
上手な言葉がみつからない。彼を傷つけずに離れる理由を語る言葉が。
「言えない、か」
シルヴィオさんの瞳が、悲しそうに揺れた。
「俺じゃ、残して来たものを忘れさせることはできない?」
「……え?」
「きみは異国から来たんだろう、アリッサ。たぶん、ダルトア王国から」
ごく短い問いかけだったのに、重たいもので殴られたような衝撃が走った。
「どう、して……それを」
反応してしまってから、失敗したと気づく。これじゃ認めたのと同じだ。
シルヴィオさんが、苦笑いに似た表情を浮かべた。
「わかるよ。近くで見ていたら」
窓の外から、わー、という子供たちの甲高い声が聞こえてくる。
「みんな見て! 流れ星!」
「流星群がきたよ!」
「すごい、すごい!」
――思い返せば。
数日前にもシルヴィオさんは、わたしに「星祭りは初めてだろう」と言った。
事故による記憶喪失という設定を提案してくれたのも彼だ。過去について話さなくて済むように。
(わたしがプレスターナの人間じゃないと見抜いていたから……!?)
シルヴィオさんが窓のほうへと顔を向ける。
いくぶん低い声で、彼は続けた。
「誰か、いるのか」
「……誰か、って?」
「想う相手が。元いた国に」
「ち……違います!」
わたしの声を掻き消すように、また外で歓声が上がった。
外が明るくなる。
窓のむこうには、子供たちが待ち焦がれていた流星群。無数の光の矢が、夜空を走っては消えて行く。
流星群の雨に照らされるシルヴィオさんの横顔。
自分の気持ちが、はっきりとわかった。
「わたし……わたし、シルヴィオさんのことが……!」
――好き。
シルヴィオさんが好き。
考えちゃいけないと思ってた。
でも、もう、こんなに囚われてる。どうしようもなく惹かれてしまってる。一緒にいたい。
だけど、それは叶わない願い。伝えるべきじゃない想い。
シルヴィオさんの心にはイルレーネ様がいるんだから。
しかも、冤罪とはいえ、わたしはダルトア王国の罪人。
過去を知られるようなことがあれば、シルヴィオさんに迷惑がかかるかもしれない。ううん、きっとそうなる。だから……
「アリッサ?」
言い淀んだわたしを、シルヴィオさんが怪訝そうに見る。
「……きゅ?」
エプロンのポケットの中で、ポンポンが小さく鳴いた。
ずっとおとなしくしていたのに、ポケットの縁に前足をかけ、空気の匂いを嗅ぐように身を乗り出す。そして、
「きゅっ!」
今度は鋭く声をあげ、わたしの肩へと駆け上がった。
「キュー、キュー! キュー!!」
今まで聞いたこともないほどの音量で鳴きながら、何かを訴えている。
「ど、どうしたの、ポンポン?」
「きゅ!」
毛を逆立てたポンポンが、ふたたびエプロンのポケットに頭から潜りこむ。
同時に、
「隊長! シルヴィオ隊長、こちらですか!」
廊下を走る足音と、大きな声が響いた。
「失礼します!!」
飛び込んできたのは、シルヴィオさんの副官・ハンスさんだった。
乱れた髪と青い顔色に、ただならぬ雰囲気が漲っている。
「ハンス? 何があった」
「きっ、緊急事態発生! 隊長、騎士団本部へ至急お戻りください!!」




