79.指輪の意味
「ねえアリッサ、このお肉とっても美味しい! お魚も、それからこのキッシュも」
子供たちが作った料理のお皿を手に、イルレーネ様が満面の笑顔で話しかけてくる。
「食事会に料理人を呼んで、子供たちに技術を教えるなんて素晴らしい試みだわ! あの子たちの将来のことまで考えてる。アリッサ、あなたってすごいのね」
「すごいのは、わたしじゃなくてユストさんです。それから……イルレーネ様のおかげです」
「私はこんなこと思いつきもしないもの。強請って連れてきてもらった甲斐があったわ。ね、シルヴィオ?」
「ええ、あとで各方面に謝罪しなくてはなりませんが」
「気に病む必要はないわよ。シルヴィオは私の護衛をしてくれたんだから」
イルレーネ様がシルヴィオさんの名を口にするたびに、胸がちくりと痛んだ。
「感謝いたします、イルレーネ様。子供たちは今夜のことを、ずっと覚えているでしょう。まちがいなく彼らの宝物になりますよ」
デニス先生が会話に入ってくる。
イルレーネ様が恥ずかしそうに肩をすくめた。
「いつかはごめんなさいね、シュターデン先生」
「いえいえ。正直に申し上げて、バウマン男爵令嬢の正体はすぐに見当がつきましたし」
「あら、そう。やっぱり宮廷に戻られたらいかが? 先生ならやっていけるわ。シルヴィオもそう思うでしょう?」
「こちらに振らないでください。デニス・シュターデンは一筋縄ではいかない男なんですよ」
「わかるわ。ねえ聞いてシルヴィオ、シュターデン先生ったら私の往診のとき……」
楽しげに言葉を交わす三人から、そっと離れた。
テーブルの上の空いたお皿を集め、診療所の台所に運ぶ。
ユストさんやエイダさんは庭で子供たちの相手をしているから、建物の中はわたしひとりだ。
パタパタと羽音がして、半分だけ開いた窓からポンポンが飛んで入ってきた。
すとん。
エプロンのポケットに勝手におさまって、つぶらな瞳でわたしを見上げる。
「きゅー?」
心配そうな表情だ。
「平気。お客様が増えて、ちょっと驚いただけよ」
窓の外に広がる夜空。
半分の月のまわりで、昼間は見えなかった星たちが、ちかちかと瞬きはじめていた。
流星群が現れるまで、もうそんなに時間はかからないだろう。
食器を洗いながら、大きく息を吐く。
まるで水の中にいたみたいに、うまく呼吸ができていなかったことに気づいた。
なんだか無性に情けなかった。
シルヴィオさんは、ちゃんと来てくれた。そのことだけを素直に喜ぶべきだ。
なのに……
シルヴィオさんとイルレーネ様が一緒にいるのを見ているのが、つらいなんて。
(なにを考えてるの、わたし)
シルヴィオさんとは、偽りの婚約関係。
わたしは彼に、本当の名前さえ話してない。
まともに向き合える間柄じゃない。傷つく権利もないことは誰より自分がわかってる。
「アリッサ」
重ねたお皿を持ち上げたところで、背後から声をかけられ、振り向く。
いつのまにか、台所の入り口にシルヴィオさんが立っていた。
「手伝うよ」
「あ、ありがとうございます。大丈夫です、わたしひとりで」
「きみは、いつも『大丈夫』って言うんだな」
返事を聞いたシルヴィオさんが微笑む。
少しだけ苦い表情に、含みがあった。
「じゃあ……食器を運ぶのを手伝ってください。ユストさんがデザートを準備してくれてるんです」
お皿を手に部屋を出ようとすると、出口を塞いで立ったシルヴィオさんに、やんわりと押しとどめられた。
「話があるんだ」
どきん。心臓が脈打った。
手に持ったお皿を、テーブルに戻す。
「なんでしょう」
――いっそ、出ていけと言って。
約束の一年には満たないけれど、偽りの婚約は終わりにしたいと。
大切なイルレーネ様を、悲しませないために。
けれど、シルヴィオさんが切り出したのは別の話だった。
「賢いきみのことだ。いま起きていることは把握していると思う。近いうちに俺はダルトア王国へ向かうだろう。このプレスターナを守るために」
「……!」
プレスターナに迫る危機について、彼が口にしたのは初めてだった。
今までは極力その話題を避けている節があった。機密事項でもあるし、無闇に心配させたくないのだろうと考えて、こちらからも触れられないでいた。
ここへきて明言するということは、出征は避けられないのだ。
「それは……ダルトアの聖女様の異変が関係していることですか?」
尋ねた言葉に、シルヴィオさんは頷いた。
「そうだ。聖女リズラインが能力を行使するのを止めた。ダルトアの保護結界は寸断され、かの国に魔獣の大群が侵入している」
「なぜ……!? なぜ、そんなことに」
「理由はわからない。ただ、ダルトアの結界が崩れたことでプレスターナにも危険が及ぶ可能性がある。聖女を擁するダルトアは、もともと大陸の防御結界の要だった。それが崩壊したとなると周辺国も無関係ではいられない」
ほんとうに、シルヴィオさんがダルトアへ行ってしまう。
加護のない、危険な戦場へ。
氷の手で撫でられたみたいに心臓が冷える。体が震えだすのがわかった。
シルヴィオさんが上着のポケットに手を入れた。
何かを取り出す。
彼の手に乗っていたのは、小さな箱だった。
とても小さいのに革張りで仕上げてあって、しかも蓋には緻密な模様とリーンフェルト家の頭文字があしらわれている美しいものだ。
「これは……?」
長い指が箱の蓋を開く。
入っていたのは、指輪。
きらきらと星のように輝く小粒のダイヤモンドに囲まれた中央の石は、見たこともないくらい大きなエメラルドだった。
「リーンフェルト家に代々伝わる品だ。アリッサに持っていてほしい」
わたしの目を見て、シルヴィオさんは言った。




