74.あの人のために
「旦那様よりアリッサ様にご伝言です。今夜はお帰りになれないかもしれないので、旦那様のお帰りを待たず、どうぞおやすみくださいと」
ブルーノさんが遠慮がちに告げる。
夕食のテーブル。シルヴィオさんの姿はない。
「今夜も、ですか?」
「ええ。軍議が長引いているそうです」
最近、シルヴィオさんはますます忙しくなったみたい。
国境方面では魔獣が出没することが増えたという。
連続する軍議。今夜のように騎士団本部に泊まり込みの日も増えた。
お屋敷に帰ってきたときは、いつもどおり穏やかで冷静な彼だ。
でも、「今夜は帰らない」と伝言を受け取るたび、ティーモさんの言葉が頭に甦る。
『ダルトアで魔獣の被害が出てる。騎士団は壊滅状態らしい』
『プレスターナは援軍を出すことになるんじゃないか』
王都ブレストンの日常は、表向き変わらない。
でも、王宮付近や街中に警備兵の姿が増えた。
隣国からの入国者――商人とか留学生、旅行者など――も、ほぼいなくなってしまった。出国禁止令が出されているというのは本当らしい。
異変を感じ取っている人は多いはずだ。
ダルトアの、そして聖女リズラインの異変は、知る人ぞ知る噂の域を超えはじめている。
「昨日もお泊まりでしたのに。心配ですわねぇ」
「旦那様、ちゃんと食べてんのかな」
呟くエイダさんの横で、ユストさんがため息をつきながら、わたしのお皿にスープを注いでくれる。
昨日も今日も、夕食のメニューはシルヴィオさんの好物ばかり。主人を労うユストさんの気持ちが表れているようだった。
「お帰りになれないものは仕方がない。明日は騎士団本部へお着替えを届けに行くとしよう」
「じゃあ俺、旦那様用の弁当作りますから一緒に届けてください」
ブルーノさんとユストさんの言葉に、体が動いた。
「それ、わたしに行かせてください!」
「アリッサ様が?」
「明日は休診日です、往診もありません。ですからぜひ!」
「アリッサ様のお気持ちは尊いですが、旦那様にお会いできるわけではありませんよ? 騎士団本部に荷物を預けてくるだけです」
「わかってます。それでも……あの、何かお役に立ちたくて」
ほんの些細なことでいい、彼のために何かしたい。
「お父様! アリッサ様がここまでおっしゃってるんです、行っていただきましょうよ。わたくしが、ちゃーんとお供いたしますから!」
瞳をうるうるさせてエイダさんが口を挟む。
「エイダさん……」
「健気じゃありませんか。お会いできなくたって少しでも旦那様のおそばに行きたいんですよね? ね? 婚約者なんですもの、当然ですわ!」
「……はい」
「ですが、そのような雑用でアリッサ様を煩わせるわけには」
「いいんじゃないですか、行ってもらえば」
助け舟を出してくれたのはユストさんだった。
「あらユスト、めずらしいわね、あなたがそんなこと言うの」
「エイダまで加勢したんじゃ止めても無駄だもん。おまえ頑固だし」
「何ですって? わたくしのどこが頑固なの!?」
「頑固だろ、自分で気づけよ」
「もう、その言い方!」
「え、エイダさんもユストさんも喧嘩しないでくださいー!」
睨みあう二人の間に割って入る。
ブルーノさんが根負けしたように天井を仰いだ。
「わかりました! では、アリッサ様のお言葉に甘えることといたしましょう。明日、騎士団本部の旦那様へのお届けをお願いいたします」
「はい、ブルーノさん! ありがとうございます!」
「よかったですわねっ、アリッサ様!」
ついさっきまでの膨れっ面はどこへやら、エイダさんが笑顔全開で抱きついてくる。
ユストさんが肩をすくめた。
「ほら、こうなる」
「何か言った、ユスト?」
「いーや、何も。ところでアリッサ様、折り入ってお願いがあるんですけど」
「ユストさんから、わたしに?」
「はい。アリッサ様にしか頼めないことです」
いつも無表情なユストさんが、悪戯を思いついたときの子供のように唇の端を上げた。
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翌朝、リーンフェルト邸の厨房。
「ほ、本当にいいんですか……?」
おそるおそる問いかけるわたし。
「はい、ぜひ」
若き料理人ユストさんは静かに頷いた。
調理台の上で、いま焼き上げたばかりのパンが香ばしい香りを放っている。
その横には貴重なお肉や果物、ユストさんと二人で菜園から調達してきた新鮮な野菜たちも。
「きゅー、きゅー!」
お裾分けが欲しいポンポンが部屋の隅に転がってじたばた暴れている。
「はいはい、これやるから、あっち行って良い子にしてな」
「きゅ!」
ユストさんが放ったミニサイズのトマトを嬉しそうに抱え、ポンポンはキッチンの外へと飛び去って行った。
「本当に、わたしが……シルヴィオさんのお弁当を作らせていただいていいんですか?」
もう一度、尋ねる。
そう、ユストさんの「折り入ってのお願い」とは。
「旦那様にお届けするお弁当は、アリッサ様が作ってほしい」というものだったのだ。
「診療所の食事会の手伝いに行ってわかりました。なんでか知らないけどアリッサ様は料理できるんですね。このパンの焼きあがりも悪くない」
なぜ料理の心得があるかというと、実家にいるときはほぼ下女のような暮らしをしていたからだ。記憶喪失設定なので言えないけれど。
「でも、ユストさんには遠く及びません……」
「当然でしょ、腕前なら俺が上です。上手下手とかじゃない要素もあるんで、料理は」
空のランチボックスを用意してくれながらユストさんが言う。横顔は、いつも通りの無表情。
「上手かどうか以外の要素って、何ですか?」
「エイダって、料理が下手なんですよ」
「そ、そうなんですか」
いきなり出てきたエイダさんの名前に、本人が聞いたら怒りそうだなーと思いつつ控えめな相槌をうつ。
「なのに休みの日は、しょっちゅう何か作って持ってくるんです。正直、すげえって思います。体にいいからとか俺に食べさせたいとか色々言うけど、これでも俺はプロで、あっちは素人なのに度胸あるなって。で、下手だし。しかも量、多いし。完食するの大変なんですよ」
「完食はするんですね?」
「はい」
迷惑そうな割には即答だった。
「つまり……俺が言いたいのは、下手な料理だから不味いわけじゃないってことです。誰かが誰かを想って作った料理は、相手を元気にするから。作り手の顔がわかっていれば、なおさら」
「え……?」
「今の旦那様には、好きな人の手料理が大きな力になると思う。だから、お願いします。アリッサ様にしかできない」
気づかれないように、息を呑んだ。
シルヴィオさんとわたしが『一年契約の偽装婚約』の間柄であることを、ユストさんは知らない。
今回の申し出は、主人を想う彼の気持ちの表れ。
ここで断るのは、不自然……だと思う。
「わかりました。がんばって作ります」
複雑な気持ちを隠して頷く。
ユストさんの目もとが、少しだけ緩んだ。
「じゃ、お願いします。このランチボックス使ってください、カトラリーはこれを」
「はい。ところで、やっぱりユストさんもエイダさんが好きなんですね」
ユストさんの白い顔に、みるみる血が上るのがわかった。
「は、はぁ!? なにを言い出すんですかアリッサ様」
「だって、好きな人の手料理は元気が出るって……」
「今は旦那様とアリッサ様の話ですよ! ちゃんと聞いてました? とにかく、あとはお任せします。俺は屋敷のみんなの食事つくるので忙しいんで!」
「あ、ユストさんどちらへ?」
「貯蔵庫です!」
顔を隠すように下を向き、ユストさんは走って出て行ってしまった。
(わかりやすい人……)
わたしの目には両想いにしか見えないんだけど。
ユストさんとエイダさん、二人が素直になれるのはいつだろう?
(何にせよ、今はお弁当作りね)
誰かを想って作った料理は相手を元気にするって、ユストさんは言った。
だったらわたしは一生懸命、シルヴィオさんを想って美味しいものを作ろう。
――シルヴィオさんの心に居るのは、別の女性だとしても。
少しでも、彼の力になるように。




