73.恋の病
「もしかして、イルレーネ様は……シルヴィオさんを……?」
イルレーネ様の口元が、泣き出す前の子供のように歪む。
でもそれは、ほんの刹那。
次の瞬間、輝く笑顔を浮かべ、彼女は言った。
「そうよ、好きだったの。初恋よ! 本当のことを言うとね、最初は彼に選ばれたアリッサが羨ましくて、それで意地悪してしまったの。だから、やっぱりきちんと謝りたかった。ごめんなさい、アリッサ」
「そんな……」
「あ、私に悪いなんて思わないでね。王女の初恋は実らないなんて当然でしょう? いずれ他国の王族と結婚して為政者の一人になる。それが宿命なんだから」
(――宿命)
背筋を伸ばし、彼女は続けた。
「どこに嫁ぐことになっても、私は幸せな国をつくる。そして自分も幸せになる。その前に、このプレスターナを守ってみせるわ。大人になる時が来たのよね。初恋は、今日でおしまい!」
……なんて、強いひと。
イルレーネ様は、ひとりの女性であると同時に、王女としてのさだめを受け入れて生きている。
大切なシルヴィオさんの幸せを、彼が選んだ相手に託そうとしている。
(わたしは、偽りの婚約者なのに……)
シルヴィオさんは、イルレーネ様の気持ちを知っているだろうか。
こんな素敵な女性が、自分に心を寄せていることを――。
そう考えたとき、シルヴィオさんの声が胸に甦った。
『周りは身を固めろとうるさいが、あいにく、まだそんな気にはなれないんだ』
出会ったばかりの頃の彼が、結婚について語った言葉だ。
そして。
『一年でいい。俺の婚約者になってくれないか』
……彼がわたしに持ちかけた、一年間の偽装婚約。
あのときは、わからなかった。
一年という期間に、どんな意味があるのか。
わたしがシルヴィオさんと出会って、来年の春で、ちょうど一年。
イルレーネ様が留学から戻るのは、本来なら来年の春のはずだった。
それがダルトアへの魔獣討伐の援軍に加わるため、急に帰国することになったのだ。
『胸が苦しいのです、シュターデン先生』
バウマン男爵令嬢として現れたイルレーネ様が語った言葉。
彼女は、ある「病」に冒されているとデニス先生は言った。
『旦那様も同じ病を患っていらっしゃるかもしれません』
次に、エイダさんの言葉を思い出す。
彼女もデニス先生も、その病の名前を教えてくれなかったけれど。
――ああ。
もしかしたら。
ううん、きっと。
やっと答えがわかった。
二人が患っているのは「恋の病」だ。
(シルヴィオさんは、イルレーネ様の帰りを待っていたの……?)
他国の王族と結婚するのが運命だと、イルレーネ様は言った。
いくら貴族としてのシルヴィオさんの身分が高くても、相手は王女様。
二人が想いあっていても、添い遂げることは難しいかもしれない。気持ちを伝え合うことさえも。
それでもシルヴィオさんは、イルレーネ様を想っていたかった。
好きな人が戻るまで、他の女性を妻に迎えることなく。
一年間の偽装婚約は、彼女の不在期間を埋めるため。
イルレーネ様が帰国する前に、シルヴィオさんはわたしとの婚約を解消するつもりだったのに。
ダルトアの異変が原因で、イルレーネ様は本来の予定よりも早くプレスターナに戻ってきてしまった……。
シルヴィオさんは、優しい人。
だから、王女であるイルレーネ様に想いをぶつけて悩ませたりしない。
予定より早く用済みになってしまったわたしを追い出すこともできない。
内心では困っていても、婚約者として、お屋敷に住まわせてくれている――。
勝手な想像にすぎない。……でも。
そう考えるとすべて納得がいく。不可思議な偽装婚約の申し入れ、その期間も。
「ねえ、アリッサ」
わたしの手を握るイルレーネ様の白い指に、力がこもった。
「本当に、お願いね。いつまでもシルヴィオと一緒にいて。もう二度と、ひとりぼっちにしないで」
「イルレーネ様……」
「あなたなら大丈夫。彼を幸せにしてあげて」
雲が切れ、太陽が顔をだした。
燃えるような夕陽が世界を眩しく染め上げていく。
光の中に凛と立つプレスターナの王女を、心から美しいと思った。
イルレーネ様が、急に照れたような表情を浮かべ、パッと体を離した。
「ああよかった、言えた! ほら私、これでも王女だし、いつ異国に嫁げと言われるかわからないじゃない? だから早めに話しておきたかったの。すっきりしたわ! さ、お茶の続きをいただこうかしら!」
はしゃぐような足どりで四阿へと戻っていく背中を目で追いながら、胸の奥がぎゅっと狭くなるのを感じていた。
(イルレーネ様……それだけが理由じゃないですよね)
戦を控えた身であることを、彼女自身もう知っているはず。
だから、どうしても。命のあるうちに、大好きな人の幸せを託しておきたかったのではないの?
……何も知らなかった。気づかなかった。
わたしが享受している偽りの婚約が、イルレーネ様を傷つけていること。
現在進行形で、シルヴィオさんも苦しめていること。
しかも二人は、それぞれの想いを抱えたまま、魔獣との戦に向かおうとしている。
その原因を作ったかもしれないのは、わたしの双子の妹・聖女リズライン。
それを知ってしまった、今。
わたしは、どうするべきだろう――?
♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦
その夜。
シルヴィオさんの帰りは、とても遅かった。
「お帰りなさいませ、旦那様。今からお食事になさいますか?」
「いや、今夜はもういい。ユストにはすまないが」
ブルーノさんに上着を手渡す横顔に、ほんの少し疲労が滲んでいる。
それでもわたしと目が合うと、いつも通りに微笑んでくれた。
「アリッサ、ただいま」
「お帰りなさい、シルヴィオさん」
「先に寝んでいてくれてよかったのに。明日も仕事だろう?」
「はい」
でも、シルヴィオさんのお顔が見たくて。
――とは、言えなかった。
「こっちは気持ちよさそうに眠っているな」
わたしの腕の中で熟睡しているポンポンを見やり、シルヴィオさんがクスッと笑う。
「イルレーネ様が訪ねていらっしゃったそうだね」
「は、はい! お庭でお茶をご一緒させていただきました」
「話してみてどうだった?」
「やっぱり、王女様は素敵な方です」
「そうか。イルレーネ様もアリッサを気に入ったようだ。俺が不在でも会いに来られるくらいだから相当だよ。これからも仲良くしてもらうといい」
「……はい」
「ではアリッサ、おやすみ」
「おやすみなさい」
思っていたことは、何ひとつ口にできなかった。
口にしてはいけないと、わかっていたけど。
(違うんです……シルヴィオさん)
確かにイルレーネ様は素敵な女性。
わたしも彼女に惹かれています。お友達になりたいと願ってしまうくらいに。
……でも。
わざわざイルレーネ様が訪ねてきたのは、あなたを想ってのこと。
シルヴィオさんの幸せを託すために、わたしに会いに来たんです。偽りの婚約者の、わたしに。
(シルヴィオさん)
広い背中に、心の中で語りかける。
(あなたも……イルレーネ様のことが好き、なんですよね?)
もし声にだして尋ねても、あなたは優しい嘘を返すにきまっているけれど。
・
・
・
部屋に戻り、ポンポンを寝床代わりのバスケットにそっと寝かせた。
窓の向こうの夜空を見上げる。
藍色の空に浮かぶ欠けた月が、今夜はやけに寂しそうに鈍く光っていた。
ライティングデスクの抽斗を開け、仕事用のノートの下に入れていた布袋を取り出す。
(けっこう重たくなった、かな)
中身は、今までに貰った診療所のお給料。
シルヴィオさんの厚意で、お給料の殆どは手元に残っていた。
麻袋の中のお金を改めて数えてみる。
もう少し貯まったら、一人暮らしを始める費用に届きそうだった。
(……リーンフェルト家を出よう。なるべく早く)
わたしが独り立ちできれば、シルヴィオさんは心置きなく婚約を解消できる。
イルレーネ様の誤解も解けて、ふたりの関係は良い方に進むかもしれない。
イルレーネ様は他国の王族と結婚する心構えのようだった。
でも、シルヴィオさんだって上位貴族。王女様と夫婦になれる可能性がまったく無いわけじゃない、と思う。
何よりわたしは、このプレスターナにも危機をもたらすかもしれない聖女リズラインの姉だ。
これ以上、シルヴィオさんの傍にいないほうがいい。いつか彼に迷惑をかけてしまうかもしれないから。
「きゅー?」
気づくと、寝ぼけまなこのポンポンがこちらを見ている。
「一緒に来てね、ポンポン。どこに行くことになっても」
わたしの言葉に、ポンポンは満足げな調子で「きゅ」と鳴いた。
バスケットに体を沈め、また目を閉じる。
幸せそうに上下する背中で、最近いちだんと存在感を増した翼が、蝋燭の光を柔らかに跳ね返していた。
小さな小さなハリネズミだったのに、本当に大きくなったと改めて思う。
このお屋敷で、シルヴィオさんのもとで、わたしもポンポンも穏やかで幸せな日々を送ることができた。
シルヴィオさんのおかげで、彼のもとから飛びたつ準備が整いつつあると思うべきなんだろう。
寂しいなんて思うのは、贅沢だ。もともと期間限定の関係なんだから。
だけど……
(出て行く前に、せめて何か恩返しがしたいな)
わたしから、シルヴィオさんにしてあげられること。
今は、まだ、なにも思いつかないけれど。




