72.イルレーネ王女の来訪
「お仕事お疲れさま! ブルーノに無理を言って、お庭で寛せてもらったわ」
イルレーネ様が、にっこりと笑った。
白を基調としたドレスを纏った姿は、王女様自身が推す(そして定着しないと嘆いていた)『王都の白薔薇』という呼称に相応しい美しさだ。
「エイダも久しぶりね、元気にしていた?」
膝を折るエイダさんに、イルレーネ様が声をかける。
「はい、イルレーネ様。覚えていてくださってありがとうございます」
「忘れるわけがないわ。あなたにもずいぶんお世話になったもの」
「とんでもごさいません」
リールフェルト邸に何度か遊びにきていたというイルレーネ様は、ブルーノさんエイダさん親子とも以前から面識があるようだ。
王女様の大きな瞳が次に捉えたのは、わたしの腕に抱かれているポンポンだった。
「あら、この子は?」
「わたしが飼っているハリネズミ……みたいな。あの、名前はポンポンです。申し訳ありません、王女様の前にまで連れてきてしまって」
「なんて可愛いハリネズミ! 赤毛なんて珍しいわね。よろしくね、ポンポン」
「きゅ」
「まあ、言葉がわかるみたい」
両頬に手を当てて大喜びするイルレーネ様の姿に、とりあえず胸をなでおろす。
(よかった、動物嫌いな人じゃなさそう)
テーブルの上のティーカップのお茶は、半分ほどに減っていた。
待たせてしまったことを重ねて謝ると、彼女は笑顔で首を横に振った。
「いいの、いいの。待っている間に、とっても美味しいお菓子と新鮮なハーブティーを堪能させていただいたし」
「お褒めのお言葉ありがとうございます、イルレーネ王女様」
ティーセットのワゴンを手に、ちょうどユストさんが現れた。
「アリッサ様の分のお茶とお菓子もお持ちいたしました。イルレーネ様の茶葉は、お取り替えを」
「ありがとう。ユストといったかしら? あなたの作るお菓子、最高だわ」
「もったいないお言葉、身に余る光栄です」
一見いつもの無表情だけど、ユストさんの頬は真っ赤に紅潮している。
「ユスト、さっさとお下がりなさいな、お邪魔でしょ!? あっ、ポンポンちゃんはお預かりしますわね! それではイルレーネ様、アリッサ様、ごゆっくりお寛ぎくださいませー!」
エイダさんが片手でポンポンを抱っこし、もう片方の手でユストさんの襟首を掴んで引きずっていった。
笑顔全開だったけど、内心めちゃくちゃ怒ってる、絶対。
「相変わらず楽しい家ね。さあ、一緒にお茶をいただきましょう」
「は、はい、では、いただきます」
促されるままお茶に口をつけたけど、緊張のあまり味がよくわからない。
イルレーネ様に会うのは今日で三回目。
次はお友達として会いましょうねって、言われてはいたけれど……
(まさか、彼女のほうから訪ねてくるなんてー!?)
固くなるわたしと対照的に、イルレーネ様はリラックスした様子で周囲の緑を見まわす。
「リーンフェルト家のお庭も久々。相変わらず良く手入れされているわね。ここでアリッサと話ができたらと思って、来てしまったの。急に押しかけてごめんなさいね」
「お気になさらないでください。イルレーネ様とは昔からのご縁だとシルヴィオさんから伺っています」
「ええ、お互い子供の頃からのお付き合い。でも四年ぶりよ、このお屋敷へ来るのは。ソフィアがいなくなって以来、今日がはじめて」
イルレーネ様が、シルヴィオさんの亡き妹の名前を口にした。
「ソフィアのこと、シルヴィオから聞いているのでしょう?」
「はい」
「……少し、いいかしら?」
柔らかく微笑んで、イルレーネ王女が歩きだす。
(細い背中……)
半歩後ろを歩きながら、思った。
「跳ねっ返り姫」なんて呼ばれているけれど、こんな華奢な人が、本当に魔獣と闘うんだろうか。
ティーモさんが言っていたように、ダルトア王国での異変を鎮めるため、過酷な戦場に身を投じなくてはいけないの?
四阿から少し離れたところにある月下雪の木の前で、彼女は足を止めた。
護衛騎士たちから見えていても、話し声までは聞こえない距離だ。
「今年は月下雪が咲いたそうね。あなたも見ることができたの?」
「はい。とても綺麗でした」
「ソフィアも、あのお花が大好きだったわ」
イルレーネ様が寂しそうに微笑む。
そして自分も、このお庭で月下雪の花を見たことがあると教えてくれた。ソフィアさんとシルヴィオさんと一緒に。
「お庭に絨毯を敷いて、真夜中だっていうのに食べ物を用意して、三人でいろいろな話をしながら花が咲くのを待ったの。ピクニックみたいで楽しくて、いい思い出よ」
「シルヴィオさんがおっしゃっていました。イルレーネ様はソフィアさんに、とても良くしてくださったと」
「そう……。良くしてもらったのは私の方なのに。ソフィアは憧れで、親友だった。王女って、お友達は意外と少ないものなのよ。だからとても大切な存在だったの」
「お気持ち、お察しします」
イルレーネ様との初対面のとき手引きをしたディンケル伯爵夫人は、実は王女様の従姉妹にあたる人だと聞いていた。
仲が良いのは事実だと思うけれど、自分で選び、友情を築いたソフィアさんは別格の存在だったのかもしれない。
イルレーネ様が長い睫毛を伏せる。
「彼女があんなことになって、本当に辛かった。心に穴が空いたみたいに寂しくて。……でも、シルヴィオの方が辛かったに決まってる。ソフィアを失ったあと、彼は別人になってしまったから」
「別人?」
「そう。別人」
ふたたび上げた視線は木々を通り越し、遠い過去に向けられているようだった。
「強い人だから涙は見せなかったわ。私にも、誰にも。仕事にも支障をきたすことはない、すべてが今まで通りに完璧。でも、笑わなくなったの」
「笑わなく、なった……」
「ええ。貴女には想像がつかないかもしれないけれど、ね」
美しい横顔に、苦笑いに似た表情が浮かんだ。
「彼、頭がいいでしょう? 必要なときに笑ってみせることは出来てしまう。でも違うの、心からの笑顔じゃないの。ソフィアがいた頃の彼じゃなかった。自分を責めて、一人の世界に閉じこもって、誰のことも見ていなかった。それがわかってしまうことが……耐えられなかった」
「イルレーネ様……」
「シルヴィオが苦しんでいるのに、何もできない。自分の無力が嫌になって、遠くに逃げたのかもしれないわ、私。国政を学ぶとか魔術の習得とか、もっともらしい理由をつけてね」
「それで異国へ?」
「もちろん留学自体は意味のあることだったわ。でも逃げでもあったと、今では思ってる。帰国するのも怖かった。もう二度と目が合うことがないのに、どんな顔で彼と会えばいいのかしら、って」
――彼女も、シルヴィオさんと同じ。
大切な人を突然なくして、傷ついて。それでも歩き続けた人、なんだ。
イルレーネ様が、かるく唇を噛む。
体ごとこちらに向き直った彼女の顔には、何かを決意したような笑顔が浮かんでいた。
「でもね、帰国したあとに会ったシルヴィオは、また目を合わせて笑ってくれたの。そして、あなたと婚約したって教えてくれた。驚いたわ」
「……」
返す言葉に窮していると、イルレーネ様が、ふふっと悪戯っぽく笑った。
「私ね、シルヴィオに聞いてみたのよ。なぜアリッサなの? 彼女のどこを好きになったのって」
「えっ!?」
「彼、こう答えた。『彼女に会えば、イルレーネ様にもおわかりになると思います』って」
「シルヴィオさんが、そんなことを」
「ええ。なのにシルヴィオったら、なかなかアリッサに会わせてくれないんだもの、ひどいわよね。私のほうから訪ねてきてしまう気持ち、理解してくれるでしょう?」
冗談めかして頬を膨らませたあと、イルレーネ様は再び微笑んだ。
「……彼の言う通りだった。よく、わかる」
イルレーネ様が腕を伸ばし、わたしの両手を握った。
驚いて、彼女の顔を見上げる。
長い睫毛の先に、光る粒が揺れていた。
「あなたが、シルヴィオの心の氷を溶かしてくれたのね。……ありがとう。私には、出来なかった」
その声に、眼差しに、隠しきれない感情が満ちている。
ありがとう、って。
私には出来なかった、って。
そんな言葉が出るっていうことは、もしかして――。
「……イルレーネ様。もしかして、あなたは」
訊かずには、いられなかった。
訊いてはいけない、と、心のどこかでわかっていたのに。




