67.エルガド長官の研究室
夜会から数日が経った。
診療所の休診日であり、仕事もお休みの今日。
ポンポンを膝にのせて、わたしは馬車に揺られている。
行き先は、王立の研究機関「星見台」。
エルガド長官の研究室だ。
お屋敷を出てしばらく、窓の外には荘厳な石造りの建物群が現れた。
門をくぐった敷地の奥深く、蔦の絡まる一棟の前で馬車が止まる。
見慣れない光景に、ポンポンが首を傾げた。
「きゅぅ?」
「ここがエルガド長官の研究棟みたいね」
ポンポンに話しかけていると、馬車の扉が外側から開く。
「着いたぞ、アリッサ、ポンポン」
馬車の外から手を伸ばし、微笑んだのはシルヴィオさんだ。
「はっ、はい」
彼の手を借りて、馬車から降りる。
――研究室に遊びにおいで。
そう言っていたエルガド長官は、夜会の翌日には招待状を送ってくれた。
予想外だったのは、シルヴィオさんがとても喜んだこと。
招待状の宛名には、彼とわたしの名前が並んでいたからだ。
「生物学と魔獣学の権威、あのエルガド長官の研究室に入れるんだ。こんな機会は逃せない、早速うかがおう!」
ですって。
リーンフェルト邸の書庫には、シルヴィオさんが集めた学術書の類がたくさん並んでいる。
彼自身も学術には興味があるのは事実だし、はじめての場所に一緒に来てもらえるのは心強かった。
でも……、
(な、なにか緊張するんですけど……!)
握られている自分の手に汗が浮きそうで、心臓がドキドキする。
夜会の日以来、シルヴィオさんの顔を見ると、「あの瞬間」が脳裏に甦ってしまうのだ。
『きみを信じてる。だから……』
そう言って、わたしの頬に手を触れたシルヴィオさん。
(……だめだめ、忘れるの!)
思い出しては打ち消す。これ、何回繰り返したかわからない。
(もう考えちゃいけないってば。あれは気まぐれだったのよ、たぶん)
シルヴィオさんのほうは、まったく以前と変わりない。
今日だって騎士服に身をつつみ、毅然として横を歩いている。
わたしはお休みだけど、彼は研究室を訪問したあとお仕事へ向かうのだ。
星見台長官への訪問は、ちゃんと公務として認められたらしい。
逆に言うと、お仕事にしないと時間が作れないくらい、最近のシルヴィオさんは忙しそうだった。
そんなこんなで彼からは、あの話の続きを聞ける気配は感じない。二人きりになる機会だって、ほとんどないんだもの。
馬車を降りたあとは、黒いチュニックみたいな制服を着た若い研究員さんが案内してくれた。
大きな扉の前に立ち、ノックをする。
「わが研究室へようこそ、お二人さん」
気さくに迎えてくれたエルガド長官の研究室は、想像の何倍も広い空間だった。
壁一面の書棚に詰め込まれた、膨大な数の本。
五台ならんだテーブルには、何かの実験中なのか、様々な色の液体が入ったビーカーがずらりと並ぶ。
珍しい生き物の絵、書類の上に文鎮代わりに鎮座した化石、大きな地図に天球儀。
きらきら輝く鉱石の数々、めずらしい魚が泳ぐ大水槽。
部屋の一角には背の高い植物の鉢植えがいくつも置かれ、もはや森みたい。緑の葉の間には、見たこともないほど綺麗な蝶が舞っていた。
「これはすごい……! さすがエルガド長官の研究室だ」
少年のように目を輝かせるシルヴィオさん。
あたりを見まわしていたポンポンが、「きゅッ」と鳴いてしがみついてきた。
視線の先には、仔猫くらいの大きさの骨格標本がある。
三人分のお茶をだしてくれながら、エルガド長官が宥めるように言った。
「おお、おお、びっくりさせてしまってすまんの。何もそなたを標本にしようとは思っておらんから安心しておくれ。これでも食べるかね?」
鉢植えのひとつから野苺の実をもぎ取り、ポンポンの鼻先へ差しだす。
ポンポンは嬉しそうに「きゅ」と鳴いて、赤い果実にかぶりついた。
「不思議な骨格標本ですね。なんの動物です?」
シルヴィオさんが尋ねる。
たしかに、その骨格標本は見たこともないかたちをしていた。
胴体部分は四つ足の哺乳類のそれだ。
でも、足の先には鳥のような爪があり、背中にはコウモリに似た翼の形跡が見える。
「それが、わからんのじゃよ。星見台に残されている古い古い骨格標本のひとつでな。儂は竜ではないかと思っておるがね」
「竜!?」
思わずシルヴィオさんと顔を見合わせた。
「こんなに小さいのに……?」
「竜とは、もっと巨大な軀をもつ聖獣なのでは? この姿で魔獣と闘っていたとは到底思えません」
「さよう。しかし古い文献には、ごく稀に、変化をする聖獣も存在したらしいことが記録されておる」
「変化?」
「姿を変えることじゃ。たとえば頼りない仔猫のような姿から、空を覆うほどの巨大な竜へ。しかも瞬時に」
喋りながらエルガド長官は帳面を手に取り、ポンポンのスケッチを始めている。
いくぶん戸惑った様子でシルヴィオさんが尋ねた。
「姿を変えられる聖獣が存在したとして、その変化は何のために? わざわざ非力な形態を選択する理由がわかりかねます」
「うむ。これは儂の勝手な想像じゃが、人に寄り添うためではないかな。特定の人間を主と決め、一緒に過ごす聖獣もおったそうじゃよ」
エルガド長官が傍に置いた書物を開いた。かなり古いらしく、表紙は変色してボロボロだ。
栞が挟まれたページを開き、描かれた図を指さす。
茶色に変色した紙面に、人間の掌と、その上にちょこんと乗る蜥蜴のような生物が描かれていた。
「これは今から二百年以上前、エミオ地方の領主が残した日記じゃ。とある少女が可愛がっていた蜥蜴が、彼女が魔獣に襲われたとき竜に姿を変え、窮地を救ったと記されておる」
「蜥蜴が竜に!?」
「さよう。魔獣を駆逐したあとは小さな蜥蜴にもどり、生涯を少女と過ごしたと。主とともに在るために、敢えて小型の動物に擬態しておったんじゃなかろうか。この蜥蜴、いや竜は、何事も起こらなければ小さな姿のままで生を全うしておったかもな」
図をよく見れば、蜥蜴の背中には小さな翼のようなものが描きこまれていた。
翼の生えた蜥蜴なんて見たことがない。
それをいったら「翼の生えたハリネズミ」だって、ポンポンの他には見たことないけど……。
果実を完食したポンポンは、お腹を抱えて寝ころがり、「はふぅ」と満足げに息を吐いている。
(まさか、ね?)




