62.ボールルームで緊急事態発生
「お初にお目にかかります。アリッサ・エルツェです」
緊張しながら王太子殿下へ礼を返す。
イルレーネ王女様と旧知の仲だというシルヴィオさん。王女様の兄君のアレクサンダー様とも親しくて不思議はない。
「イルレーネが強引に呼びつけたようだね。我儘ながら普段は人に迷惑をかけるような妹ではないのだがな。大目にみてやってくれたら嬉しいよ」
「とんでもございません。光栄です」
「まあ、私もきみに会いたかったからね。妹のことばかりも言えない」
そう言って、アレクサンダー様は人好きのする笑顔を浮かべた。
「ときに殿下、さきほどの音楽は貴方の仕業ですか?」
シルヴィオさんが尋ねる。
「ああ、そのとおり。シルヴィオ・リーンフェルトの婚約披露のダンスのギフトさ。気に入ってもらえたかい」
「貴方らしくない冗談ですね、アレクサンダー殿下」
「今回ばかりは赦してくれよ。こうでもしないと諦めがつかない女性がたくさんいるだろう? ……私の大事な妹とか」
「何とおっしゃいました?」
「いや、何でもない。勝手なことをして悪かった。二度とこんな真似はしないと誓う」
小さく頭を振って、アレクサンダー様は真摯な眼差しをこちらへ向けた。
「アリッサ、きみのダンスは素晴らしかった。シルヴィオを夢中にさせているというのも納得だ。なるほど花のように可憐な女性じゃないか」
「殿下の仰るとおりです。こんなに心惹かれる女性に出会えるとは思わなかった。妻に迎えるつもりです」
「シルヴィオさん!?」
「これはこれは。見せつけてくれるね。いや、幸せなら何よりだ」
(シルヴィオさんたら、そんなにはっきり宣言しちゃって……偽装婚約なのに)
事情を知る由もない王太子殿下は、眩しいものでも見るような視線をこちらに向けた。
「嬉しいよ、アリッサ。きみのおかげでシルヴィオの笑顔をまた見ることができた。これからも彼をよろしく頼む」
「――はい」
何気ないようで、深い言葉だった。
親友だという王太子殿下も、久しくシルヴィオさんの笑顔を見ていなかったという意味にとれるような。
「ところで、シルヴィオ。急ぎで耳に入れたいことがある。少しいいか?」
心なしか声をひそめて、アレクサンダー殿下がシルヴィオさんとの距離を詰める。
シルヴィオさんの表情が瞬時に引き締まった。
「何事です?」
「大したことではないのだが。アリッサ、すまない。ほんの数分、シルヴィオを貸してくれないだろうか。麗しい女性に聞かせるにはやや無粋な内容でね」
「畏まりました。どうぞお気になさらずに」
「ありがとう。長話はしないから安心して、なにせ妹が待ちかねているからね。今夜の主役はきみだよ」
洒落っ気たっぷりに言う殿下に頷いて見せて、一歩下がる。
躊躇いを滲ませながら、シルヴィオさんも繋いでいた手を離した。
「アリッサ、そこにいてくれ」
「はい」
壁際に移動した二人は、顔を近づけて会話を始めた。
ほんの数歩しか離れていない距離。
だけど、彼らが何を話しているか、音楽と人々の声に満ちたホールでは全く聞き取れない。
(何かあったのかしら……)
アレクサンダー殿下が何事かを囁き、シルヴィオさんの目元に、かすかな驚きの色が浮かぶのが見えた。
大したことではない、という前置きのときに限って、事実は違っているもの。
(もしかしたら、ダルトア王国との間に何かが起きた――?)
シルヴィオさんの表情を、もっとよく見ようと目を凝らしたとき。
視界を遮るように、紫色のドレス姿の女性が間に立った。
「ごきげんよう、アリッサさん」
扇を片手に艶っぽく微笑む貴婦人。その顔に見覚えがある。
「ディンケル伯爵夫人さま……こんばんは」
デニス先生に往診を依頼した患者さんの一人、ディンケル伯爵夫人だった。
過去に二度、会っている。
彼女自身の診察のときと、あのバウマン男爵令嬢の往診のときだ。
感じがよくて美人、という印象が残っていたけれど、夜会用のドレスで装った彼女は更に華やかだった。
「覚えていてくださって嬉しいわ。ね、わたくしと一緒にいらして。イルレーネ王女様がサロンでお待ちよ」
「王女様が!?」
「そう。こちらへ、急いで」
言いながら、わたしの手を引いて既に歩き出している。
「ま、待ってください。わたし、今夜はシルヴィ……リーンフェルト侯爵様と一緒で」
「わかっているわ、だから今のうちに」
「え?」
「王女様はアリッサさんと二人きりでお話がしたいのですって」
「わたしと二人で?」
「ええ。女性どうしの内緒話ね。お分かりでしょ?」
ディンケル伯爵夫人は意味深な笑みを浮かべた。
(な、内緒話って、なに!?)
今までに聞いた情報が頭の中をかけめぐる。
イルレーネ王女様とシルヴィオさん、そしてシルヴィオさんの妹ソフィアさんは子供の頃から親交があり、幼馴染みも同然だった。
王女様は以前から、婚約者を紹介するようにとシルヴィオさんに言っていた。
なのに彼は、頑なに断り続けていた……。
(心象、よくない……かも)
王女様にしてみれば、幼馴染みと婚約したのに挨拶のひとつもないわたしに言いたいことの一つや二つあるはず、よね?
それは呼びつけたくもなるわよね?
怖い。怖すぎる、でも。
ここでわたしが反抗したら、シルヴィオさんの印象が更に悪くなってしまうんじゃない!?
「イルレーネ様は隣のサロンでお待ちよ。リーンフェルト侯爵はわたくしが後からお連れするわ」
「……わかりました」
答える声がうわずった。
ディンケル夫人に手を引かれるまま歩を進めると、今までわたしが立っていた場所に自然と人波が流れ込む。
シルヴィオさんの姿は、あっというまに見えなくなった。
「ふふ、そんなに緊張しないで。大丈夫よ」
ディンケル夫人は微笑んだけれど、何がどう大丈夫なんでしょう!?
この先で待っているのはイルレーネ王女様。
跳ねっ返り姫の異名で呼ばれ、武芸では男性騎士をなぎ倒す。熊と戦っても勝ってしまう。
もう筋肉隆々の逞しいイメージしかないし、しかも怒ってるかもしれないし……やっぱり怖い!
(せめてポンポンと一緒だったら心強かったのにー!)
ホールの隅に設けられた小部屋の前で、ディンケル夫人は足を止めた。
入り口の脇には、ふたりの騎士が立っている。
ひとりは長身の青年。もうひとりは、まだ少年のような体つき。
年若いほうの騎士が、わたしを見てニコッと微笑んだ。
笑顔のまま首をまわし、部屋の中へと声をかける。
「イルレーネ様。アリッサ・エルツェ嬢がいらっしゃいました」
(?)
明らかにわたしの顔を知っている態度だ。
こちらも彼に見覚えがある気がする。実をいえば、もうひとりの背の高い騎士にも……
記憶を探っているあいだに、凛とした声が返る。
「お入りなさい」
「し、失礼いたします!」
勇気を振り絞って、小部屋の中へと足を踏み入れた。
明るい色の壁、きらめくシャンデリア。たくさんの花が飾られた部屋。
中央には豪奢なテーブルセットが設られ、色とりどりの美味しそうなお菓子が美しく盛りつけられている。
中にいたのは、ただ一人。
豪奢なソファに腰掛けていたその女性は、わたしが部屋に入ると立ち上がり、言った。
「ようこそ、アリッサ」
「……え!?」
白地に鮮やかな青のレースをあしらった贅沢なドレスが映える長身。すっきりと背筋の伸びた立ち姿。
長く艶やかなブルネット、大きな瞳、意志の強そうな眉、薔薇色の唇。
美しい女性だった。
そしてその美貌は、記憶の中の「ある人物」と、完全に重なっていた。
「あなたは……あのときの!?」
そう。
目の前に立っていたのは、以前デニス先生の往診で出会ったバウマン男爵令嬢その人だった。




