55.幸せなはずなのに
「アリッサ!」
わたしを呼ぶ声がする。
顔をあげて、一瞬、幻を見ているかと思った。
「……シルヴィオさん?」
道の前方から、愛馬に跨った軍服姿のシルヴィオさんがやってくる。
「きゅー! きゅー!」
ポンポンが羽ばたき、シルヴィオさんの方へと飛んでいく。
小さな体を迎えるように軽く右手をあげ、彼は馬上で微笑んだ。
「シルヴィオさん……!」
名前を呼ぶ自分の声は、びっくりするほど掠れていた。
目の前まで来て馬から降りたシルヴィオさんが、にこりと笑う。
「めずらしく早く軍議が終わったんだ。明日は雪でも降るかもな。きみの方は帰りが遅くなっているようだったから、迎えに……おっ、と、アリッサ!?」
シルヴィオさんの慌てた声。
(あ……あれ?)
気づいたら、わたしは彼の腕のなかへ倒れこんでいた。
「大丈夫か!? 気分でも悪いのか?」
「ちょっと……力が抜けて……」
力強いぬくもりに支えられながら、そっと後ろを振り返る。
(……いない)
帽子の男性は、姿を消していた。
「顔色が悪い。何かあったのか」
「きゅ! きゅー!」
心配そうに覗き込むシルヴィオさん。彼の肩の上でポンポンも騒いでる。
(よかった……シルヴィオさんが来てくれて)
念のため、もういちど背後に目を走らせた。
怪しい人影が消えたあとは、いつもの町の夕景がひろがっているばかりだ。
やっぱり、気のせいだったんだろうか。
不安な気持ちが、たまたま後ろを歩いていた人を不審者に見せただけ?
「……大丈夫です」
「本当に?」
一瞬、話してしまおうかと思った。
ダルトア王国で魔獣に襲われた人に会ったこと。
騎士団に所属し、王族にも近いシルヴィオさん、
彼なら、わたしの故郷で何が起きているか知っているかも――。
だけど、その気持ちは飲みこむことにした。
いくら相手がシルヴィオさんでも、仕事上で知り得た患者さん個人の情報を勝手に喋るわけにはいかない。それはシルヴィオさんだって同じはず。
「急な手術が入って……そのお手伝いをしたので、少し疲れたみたいです」
「あまり頑張りすぎるなよ。食事は取れそうか?」
わたしが頷くと、シルヴィオさんはホッとしたように顔をほころばせた。
「そうか、よかった。ユストが今夜は腕を振るうと言ってる。さあ、帰ろう」
そう言って、軽々とわたしを抱き上げる。
「し、シルヴィオさん! 平気です、抱えていただかなくても!」
「あ、ああ、すまない」
赤面するわたしを見て、シルヴィオさんも気まずそうな笑みを浮かべた。
鞍に横座りしたわたしの体を後ろから支えるように、シルヴィオさんも再び馬に跨る。
「きゅー」
肩に乗ったポンポンが、鼻先をわたしの頬に寄せてきた。
「心配してるみたいだぞ。いい相棒だな」
手綱を繰りながら、シルヴィオさんが明るく笑う。
彼の体の温もりが、冷たい不安を溶かしてくれる気がした。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦
「旦那様、アリッサ様、おかえりなさいませ!」
屋敷の前ではいつものように、エイダさんブルーノさん親子をはじめ使用人の皆さんが待っていた。
「ただいま戻りました」
「アリッサ様、今日もお仕事お疲れさまでございました。お着替えの準備ができておりますよ。お夕食はユストが特上のお肉が手に入ったって張り切っちゃって……あ、あら? アリッサ様、もしかして体調がお悪いんですの!?」
エイダさんが慌てだした。
わたしはまだ青い顔をしているらしい。
「いえ、平気で……」
「大変ですわ! 栄養のあるものを召し上がっていただかないと!」
がばっとわたしを抱きしめるエイダさんを、横からブルーノさんが諫める。
「エイダ、横になっていただくのが先だろう。体調のすぐれないときにユストのフルコースはきついかもしれん」
「聞き捨てならないですよブルーノさん! アリッサ様、俺の料理が嫌とかないですよね!? お疲れなら消化のいいものにします? すぐ用意しますよ」
「あらユスト、いつからいたの?」
「ずっといたよ! アリッサ様、少しだけでも食事はなさった方がいいです。俺、アリッサ様が元気になるものつくりますから」
エイダさんに抱きしめられながら聞くリーンフェルト家の皆さんの声は、騒々しくて、どこまでも優しい。
「ごめんなさい……本当に大丈夫なんです。ユストさんのお料理、ぜひ食べさせてください」
そう返しながら、心の中は複雑な感情でぐちゃぐちゃだった。
泣きそうになるのを、懸命にこらえる。
ここは——わたしが今いる場所は、こんなにも平和であたたかい。
倒れそうになったら、抱きとめてくれる人がいて。
心配してくれる人たちがいる。
妹に裏切られ、ダルトア王国を追放されて、わたしはすべてを失った。
いちど空っぽになって、それからたくさんの人に出会えて、辛い日々は過去になっていこうとしていた。
だけど……忘れたはずの故郷で、今、良くないことが起きているかもしれない。
良い思い出のない場所だけど、国民の多くは罪のない善良な人々だってこと、わたしは知ってる。
だから、こんなにも胸がざわつく。
見えない影が心を覆っていくように。
――リズライン。
ダルトアの宮殿の奥で、あの子はどうしているんだろう。
わたしがいなくなって、すべての望みは叶ったはず。
未来の王妃の座を手に入れて、ウィルヘルム殿下の隣で微笑んでいるはず。
……リーズ。
あなたは今、幸せな場所にいるんでしょう?
なのに、どうして―――。




