53.祈り
「アリッサ?」
デニス先生が狼狽えた様子でこちらを見る。
わたしが診察中に勝手に発言したのは初めてだから驚いているんだろう。
反対に、ビアンキさんの顔にはカッと血がのぼった。
「ええ、ありえない、あってはならないことです。聖女様は息子を見殺しにしようとしたのです、大勢の自国民とともに」
(リーズ……嘘でしょう!?)
リズライン。
ダルトア王国の聖女。わたしの妹。
我がままで遊び好きで、そして嘘つきな彼女に、たくさんのものを奪われてきた。
信頼、婚約者、生まれ持った名前で生きる未来さえ。
だけど……リズラインは、自分が聖女であることは、ちゃんと自覚している子だったはず。
傷ついた人がいれば行って祈りを捧げ、結界に綻びが生じたら、どんな辺境でも足を運んで修復に努めた。
わたしが一番よく知っている。常に一緒にいたんだから。
あの子は、聖女の責任を放り出すようなことだけはしない。――しない、はずだ。
なのに、どうして……!?
「大丈夫かい?」
デニス先生が小声で囁いた。
平気です、と小さく頷きを返したけれど、その声が震える。
「きゅー……」
抱えたバスケットの中から、不安そうなポンポンの声が聞こえた。
手も震えていることに気付いて、しっかりバスケットを抱えなおす。
ビアンキさんが悔しそうに続けた。
「息子はろくな手当ても受けられず、傷ついた体で国境を越えて帰ってきました。最初は退院すら許されなかったそうです」
「それは、なぜ?」
デニス先生が顔をしかめる。
「ダルトアとしては、そのまま死んでほしかったのでしょう。現状を異国に知られたくないのではないですか。息子は必死の思いで病院を抜けだし、違法な運び屋に金を積んで、命懸けでダルトア王国を出たのですよ」
「酷い……」
「その通りです。聖女様のおわすダルトア王国で、息子は殺されかけました。そのうえ無理をして長距離を移動し、怪我がますます悪化してしまった。何人ものお医者様に診ていただきましたが、みな手の施しようがないとおっしゃられて」
ベッドの上の患者さんが、うう、と微かに唸った。
眉間に皺が刻まれ、額に汗の粒が膨れあがる。
「ああ、ティーモ! かわいそうなティーモ……!」
ベッドの横にいた母親が、顔を手で覆って泣きはじめた。
その肩を、ビアンキさんがそっと抱く。
「シュターデン先生。息子を治してくださいとは、もう言いません。ただ……命ある間、なるべく苦しまないようにしてやってほしいのです。痛みを和らげ、少しでも眠れるようにしてやってくださいませんか。せめて……せめて安らかな気持ちで天へ向かうことができるように……」
母親の嗚咽がいっそう大きくなる。
今度はデニス先生が、首を強く横に振った。
「お気持ちはわかります、ビアンキさん。ですが、私は医者です。御子息の命を救うための治療をさせてほしい」
「先生……」
ビアンキさん夫妻が顔を見合わせる。
そして苦しむ息子さんに目をやり、二人は泣きながら頷いた。
「アリッサ、手術の準備を」
「はい!」
毅然とした声に我に返る。
傷口の消毒を始めたデニス先生に、涙声で父親が訴えた。
「手術は無駄です、シュターデン先生。何度縫合しても息子の傷口は開いてしまう。魔獣の毒が強すぎるのです。聖女様でもないかぎり、もう息子を助けることはできない。やはりこれ以上、痛みを与えることは……」
「苦しむご家族を見るのはお辛いでしょう。私も無理強いする気はありません。ですが、息子さんは生きようとしている。私にはそう見える。……違いますか? ティーモさん」
患者さんのまぶたが、うっすら開いた。
唇が動く。声はない。
デニス先生がベッドの横に膝をつき、更に語りかけた。
「ティーモさん。あなたが帰ってきたのは死ぬためじゃない。生きるためだ。ここで、あなたの故郷で、愛するご家族と一緒に。そうですね?」
シーツの上に力なく投げ出されていた左手が、ゆっくりと動いた。
次に、ぐっ、と握り拳をつくる。
話すこともできないほど衰弱した患者さんの、それは精一杯の意思表示だった。
「ティーモ……」
父親の目から涙がこぼれる。
「シュターデン先生、どうか、どうかよろしくお願いいたします」
ビアンキさん夫妻の懇願に力づよく頷くデニス先生。
ベッドの上のティーモさんの目尻が光っている。
それを見て、胸が刺されるように苦しくなった。
聖女だって、すべての怪我人を助けられるわけじゃない。
奇蹟は無限でも、万能でもない。リズラインの側で、祈り虚しく見送ったことも何度もある。
だけど。
生きたいと願い、救いを求める人を、何もせずに見捨てるなんて、そんなことできない。
たとえ聖女でなくたって、わたしの祈りに何の力もないことがわかっていたって。
「頑張ってください、ティーモさん。かならず、かならず、元気になりましょう」
かけた言葉に、ティーモさんの唇の端が上がる。
……微笑んでる。苦しそうに、でも、確かに。
(デニス先生の言う通りだわ。この人は、生きようとしてる)
その姿が少しだけ、自分に重なった。
シルヴィオさんと出会った、暗い森の中。
すべてを失い、死の恐怖と絶望に打ちのめされ、それでも生きたいと願った、あの夜のわたしと。
(神様。どうかティーモさんを助けてください。そして、彼を助けようとしているデニス先生に、お力をお貸しください――!)
デニス先生が麻酔薬の瓶を手に取る。
「よし、始めよう」
「はい!」
わたしの返事に重なって、籠の中のポンポンが「きゅっ」と小さく鳴いた。
他の人には、きっと聞こえていなかっただろうけれど。
妙にきりっとした声色が、わたしやデニス先生、それにティーモさんを励ましているみたいに聞こえた。
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