52.ダルトア王国の異変
子供たちを集めた昼食会から、半月ほどが過ぎた。
夏の暑さが少しずつ和らぎ、街はあいかわらず賑やか。
プレスターナは平和の中で、豊穣の秋を迎えられそうだった。
「どうぞ、お大事に」
「ありがとうね、アリッサちゃん。デニス先生に診てもらえて安心したよ」
その日の最後の患者さんを見送って、診療所のドアに「受付終了」の札を下げる。
このあと、デニス先生には往診の予定が入っていた。
本来なら往診を受け付けていない曜日なのだけど、依頼者からの「一刻も早く診てほしい」という強い希望を汲んで、出向くことにしたのだ。
窓越しに外を見ていたデニス先生が、帽子を手に立ち上がる。
「迎えの馬車が来た。アリッサ、出よう」
「はい、先生」
診療所の前に、立派な馬車が停まっていた。
今日の往診は貴族からではなく、プレスターナでも一、二を争う豪商、ビアンキ商会の会長さんからの依頼だ。
怪我をした息子さんの経過が、よくないという。
「ポンポン、入って」
「きゅっ」
蓋付きの小さなバスケットを開いてみせると、ポンポンは飛びまわるのをやめ、ご機嫌で中に入る。
往診に行くときは、このバスケットがポンポンの定位置になっていた。
わたしが診察のお手伝いをしている間、中でおとなしくしていてくれるのだ。
「ねえポンポン、あなた、また少し大きくなったんじゃない?」
籠の中におさまったポンポンに話しかける。
「太った……っていうわけじゃないわよね。翼の部分が大きくなったみたい」
当のポンポンは可愛らしく首をかしげ、こちらを見上げるばかり。
この国に来てから、ずっとポンポンは幸せそう。わたしとずっと一緒にいる上に、みんなにも優しくしてもらえるものね。
少しのあいだ馬車に揺られ、患者さんの待つお屋敷に着いた。
「これはこれはシュターデン先生、お待ちしておりました!」
門の外で待ち構えていた五十がらみの男性が、デニス先生が馬車から降りるなり、すがるように握手を求めてきた。
お屋敷の主、患者さんの父親だ。
泣きはらしたような目と浮腫んだ顔に、悲壮感が漂っている。
(よっぽど息子さんの病状がお悪いのかしら)
背筋にぴりっと緊張が走る。
ぎらぎらした飾り付けの多い、いかにも「お金があります!」風の豪邸。
その最奥の寝室で、ひとりの若い男性が、うつ伏せに横たわっていた。
こちらに向けられた顔は、血の気がひいて真っ白。栗色の髪が汗で額に貼りついている。
ときおり苦しそうに息をもらす以外、目を閉じたまま動かない。
二十歳と聞いていたけれど、頬はげっそりとくぼみ、実際の年齢よりずっと歳をとって見えた。
ベッドの脇には、豪奢なドレス姿の中年女性が寄り添っている。
患者さんと同じ色の髪のその人は、憔悴した様子でビアンキさんの妻だと名乗った。
「シュターデン先生……どうか我が息子ティーモを診てやってください」
泣きそうな声で父親が言った。
母親が、患者さんの寝間着を捲り上げる。
患部を見たとたん、思わず息をのんだ。
男性の背中を横切る、三本の大きな裂傷。
引き裂かれた皮膚のまわりは紫色に変色していた。
内側から暗い光を放つ、不自然な色。
痛々しく膿んだ傷は、まるでそこだけ別の生き物のようにドクドクと脈を打っている。
デニス先生の目つきが変わった。
「これは……魔獣創では?」
魔獣創。
読んで字のごとく、魔獣によってつけられた傷のことだ。
「その通りです」
悲痛な面持ちで父親が頷く。
「傷を負ってから日数が経過しているようですね。しかも、かなり大型の爪をもつ魔獣によるものでしょう。一体どこで襲われたんです? 魔獣が発生したという話は聞きませんが」
「息子が襲われたのはプレスターナでのことではありません。先月、ダルトア王国へ商談に出かけたときに魔獣に遭遇してしまったのです」
「ダルトア王国で!?」
デニス先生と一緒に、わたしも聞き返してしまった。
「す、すみません」
すぐに謝ったけれど、隣でデニス先生も驚愕の表情を浮かべている。
父親は続けた。
「私どもも驚きました。ダルトアといえば聖女様のご加護をもつ国。国境の山道でのことならともかく、王都で魔獣に襲撃されるとは……! 息子自身も思いもよらない出来事だったと申しておりました。ほかにも多数の死傷者が出たそうです」
(王都に魔獣が……!?)
わたしがダルトアの宮廷で暮らすようになってから追放されるまで、王都に魔獣が出現したことなんて一度もなかった。
理由は言うまでもない。
リズラインがいたから。
聖女の加護があったからだ。
そもそも、ダルトアの国防魔力による結界は決して脆くない。そこに聖女のサポートが加わって、王都の守りは鉄壁のはずだった。
王都から遠く離れた地方では、ごく稀に魔獣の侵入を許してしまったこともあったけれど、それはあくまで突発的な事故のようなもの。
リズラインが行って祈りを捧げれば、ふたたび結界は安定し、平穏が戻った。
だから、にわかには信じられない。
ダルトアの王都に魔獣が出現したなんて。
「それは……しかし、ダルトア王都の出来事であれば、かの国におわす聖女様に癒しの祈りをいただくことが出来たのでは? 御子息は正式な入国許可を得て商談に行かれたのですよね」
「もちろんです。しかし……聖女様は息子にお会いになってはくださいませんでした」
「なぜです? これほどの怪我人、しかも外国からの来訪客を聖女様が見過ごすとは思えません。たまたま王都を離れていらしたとか?」
「いいえ」
首を横に振る父親。
その顔に、明らかな怒りの色が浮かんだ。
「息子が言うには、聖女リズライン様は王都にいらっしゃるにも関わらず、一度たりとも負傷者を見舞われることはなかったと。癒しの祈りをいただくことができれば助かる命もあったでしょうに、なす術なく死んでいった人が大勢いたそうです」
「聖女様が意図的に人々を見捨てた?」
「その通りです、シュターデン先生。そもそも王都に魔獣が現れたのも、聖女様が祈るのをやめたせいだと」
「そんな……そんなこと、ありえません!」
思わず声を上げていた。
ありえない。リズラインが魔獣の犠牲者を見捨てるなんて。
あの子が……わたしの妹が、聖女の役割を放棄するなんて。
ダルトア王国で、いったい何が起こっているの――!?




