45.薬の効かない病とは
帰り着いた診療所で、去って行くバウマン家の馬車を見送った後。
わたしとデニス先生は、二人そろってヘナヘナと床に座りこんでしまった。
「はー、疲れたぁー!」
「つ、疲れましたね……」
「きゅー」
バスケットから出たポンポンが、翼で宙を舞いながら心配そうに見下ろす。
「先生……バウマン男爵令嬢とはお知り合いだったんですか?」
「ううん、初対面だよ」
「でも男爵令嬢に『あなたともあろう方が』っておっしゃってましたよね」
「そんなこと言ったかな、僕? 怖かったから覚えてないや」
首を傾げる先生は汗だくだ。
「報酬、いただきませんでしたね」
「あー、そういえばそうだね。すごい金額だったのに、もったいなかったなー!」
いま思い出したというように、デニス先生が天を仰ぐ。
「けど、あれは貰えないよね。男爵令嬢自身のためにも受け取れなかった。お金を見せびらかすような真似をしてるときの彼女、苦しそうだって思わなかった?」
「苦しそう?」
「そう。意地悪な態度が板についてないっていうか、ちぐはぐだったよ。嫌味な人を演じてたって感じ。たぶん本当は、そんなに悪い人でもないんじゃないかな」
「そうですね……わたしもそんな気がします」
デニス先生ほどの深い考察には至らないものの、彼の言っていることは何となくわかる。
バウマン男爵令嬢から感じたのは、悪意というより正義感みたいなものだった。
彼女に対して負の感情が湧かないのは、そのせいだ。
「バウマン男爵令嬢ってのは、ありゃ偽名かな。ま、正体について心当たりがないでもないけど」
「心当たり?」
「洒落にならない憶測だから口に出すのはやめとく。……そんなことより、彼女の前で僕を庇ってくれたね。嬉しかった。立派な医者だって言ってくれて」
「だって、本当に思ってますもの」
はは、と笑い、デニス先生は、かけっぱなしだった診察用の眼鏡を外した。
「バウマン男爵令嬢の話してたこと、あながち外れてもないんだよ。僕は自分自身で納得のいく生き方をしてるつもりだ。でも、ときどき……ふっと不安になる瞬間もある。昔を知る人には変わり者とか、頭のおかしいやつだとか言われてるのを知ってるから」
「そんなことないですよ! 大切なのは今です。先生に感謝してる人がたくさんいるじゃありませんか。わたしだってそうです。自信を持って診療所のお仕事続けてください!」
「うん……ありがとう。きみに会えて、よかったよ」
シャツの裾で眼鏡のレンズを拭きながら、デニス先生は小さな声で続けた。
「……アリッサ。きみにとって世界でいちばん大切な人は、リーンフェルトなんだよね」
「え!? せ、先生、いきなり何です!?」
「いや、さっきそう言ってたなって」
「あ……言いましたね、はい……」
今さらながら顔が赤くなる。
バウマン男爵令嬢に言った言葉だけど、当然ながらデニス先生にも聞かれてたわけで。
「そんなに恥ずかしがらなくていいよ。とっくに知ってたから。……婚約してる仲だし、当然だよな」
デニス先生が下を向く。
少しのあいだ、会話が途切れた。
「先生?」
「いや、なんでもない。とにかく、バウマン男爵令嬢も納得したと思うよ」
「そういえばデニス先生、バウマン男爵令嬢の病名って何なんですか? 先生に治せないって、よっぽど悪い病気ですよね……わたしで力になれることはないんでしょうか……」
この質問に、デニス先生はきょとんとした顔になった。
それから、声をあげて笑い出す。
「どうなさいました?」
「ああ、ごめんごめん! なんていうか、君のそういうところ……本当に」
「わたし、変なこと言いました?」
「何も変じゃないよ、アリッサは。質問の答えだけど、バウマン男爵令嬢が患っているのは、人によっては命にかかわることもある病だ。僕だけじゃなく、世界じゅうのどんな医者にも治療はできない」
「えええ!? じゃあどうすれば……!」
「時間だけが薬なのさ。彼女ならきっと大丈夫。強い人だと思うから。……僕も見習う」
最後のほうは独り言のように呟いて、デニス先生は立ち上がった。
「先生? それで、病名は?」
「秘密。君は知らなくていい病だよ」
おどけるようにごまかして、診察室へと戻っていく先生。
バウマン男爵令嬢の病名は、結局教えてもらえなかった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦
その夜。
お仕事から帰ったシルヴィオさんに、おそるおそる尋ねてみた。
「わたしが診療所で働いていることで、シルヴィオさんにご迷惑がかかっていませんか?」
「どうした、急に」
心底意外そうな声で、シルヴィオさんが尋ねかえしてくる。
「ええと……宮廷や職場で、その、気まずい思いをされたりとか……」
「誰かに何か言われたのか?」
「そういうわけでは、ないんですけど」
シルヴィオさんは、すぐに察したようだった。
「外で仕事を持つ貴族の女性はまだ少ないから、目立つのは確かだろう。だが、それだけだ。アリッサは間違ったことはしていない。言いたい者には言わせておこう」
「でも……」
「気にするな。振り回されるのは妹で慣れてるよ」
シルヴィオさんが、さらりとソフィアさんのことを口にした。
こうして話題に出すのは、シルヴィオさんの中に彼女が戻ってきた証のような気がする。
自立心に溢れ、孤児院の創設を夢見て奔走していたという妹のソフィアさん。
ふと思った。
シルヴィオさんがわたしに自由を許してくれるのは、亡き妹さんと重ねているのかもしれない。
「わたし……ソフィアさんに似ていたり、します?」
思い切って、訊いてみる。
すこし考える仕草をして、彼は頷いた。
「似ているといえば似ている、かな。外見に反してすごく意志が強いところとか、目を離すと何をしだすかわからないところとかね。きみにはいつも驚かされているし」
「わたし、そんなにシルヴィオさんを驚かせてますか!?」
「まいったな、自覚なしか。これだから放っておけないんだよ。とにかく、きみはやりたいことをやればいい。困ったことがあれば遠慮なく頼ってくれ」
シルヴィオさんが微笑む。
「……ありがとうございます」
感謝と同時に、胸が痛んだ。
バウマン男爵令嬢の言葉が耳の奥に甦る。
『利用されているリーンフェルト侯爵が哀れだわ』
彼女の言うとおり、わたしはシルヴィオさんを利用しているのかもしれない。甘えていると自覚しながら、離れないんだから。
自分が狡いこと、どこかでわかってる。……でも。
偽装婚約の期限まで、あと少し。
あと少しだけ……彼のそばにいたい。




