43.戦闘態勢、謎の美女(1)
「お越しいただきありがとうございます、シュターデン先生。このようなかたちでの往診になりましたこと、どうぞお赦しください」
そう言って、バウマン男爵令嬢が軽く会釈した。
ほぼ黒に近い髪がナイトドレスの胸もとへ流れ、白い肌との鮮やかな対比を描く。
「お気になさらず。診察にうつりましょう」
デニス先生が聴診器を首にかけるのを見て、わたしも慌てて新規のカルテを取り出した。
鮮烈な美貌に目を奪われているわたしとは反対に、デニス先生の態度は淡々としている。
どんな美人を前にしたって顔色ひとつ変えないのは、いつものことだけど。
(今日ばかりは尊敬しちゃうなあ、先生)
そう思ってしまうくらい、バウマン男爵令嬢は美人だった。
「体調が優れないとお手紙にありましたね。具体的な症状を教えていただけますか?」
「胸が苦しいのです。ときには痛みも感じます」
先生の質問に、バウマン男爵令嬢はハッキリと答えた。芯を感じさせる落ち着いた声だ。
「それは、いつ頃から?」
「しばらく前からです。もう何か月にもなるでしょうか」
「発熱は?」
「ございません」
「喉の痛みや腹痛はありますか」
「ございません」
先生と患者さんとのやりとりをカルテに書き記していくのも、わたしの役目。
「失礼」
デニス先生が男爵令嬢の脈を測り、うなじに手を当て、目の下の粘膜の状態を見る。
聴診器で胸の音を聴きながら、
「これまでに似たような症状で別の医者にかかったことは」
「ございません」
「夜はよく眠れますか?」
「いいえ、残念ながら」
その後もデニス先生は、いくつか質問を重ねた。
すべての問いに対して、バウマン男爵令嬢は「いいえ」と「ございません」だけで答えていく。
「最近なにか変わったことをなさいましたか。遠出をなさったり、ご旅行に行かれたりなどは」
「その質問にはお答えいたしません。今回の症状には関係ないと思いますから」
先生の質問が止まる。
さすがにわたしも気づいていた。
(何か、変じゃない?)
質問に答えるバウマン男爵令嬢の姿勢はすっきりと伸び、口調は明快そのもの。
肌には艶と血色があり、大きな目には輝きが宿っている。
(病人には、見えない……かも)
これまでだって「噂のデニス先生に会いたーい」という不純な動機で往診を申し込んでくるマダムたちは、その実とても健康です、という人も多かった。
中には体調不良を装うこともせず、「お洒落ばっちり元気そのもの」「お友達も一緒に美男子見物」みたいな人まで。
でも、バウマン男爵令嬢は、どうやらその線ではない、みたい。
何故って?
……彼女、デニス先生とわたしのことを、ずーーーっと睨んでいるから!
(もしかして、怒ってます? どうして!??)
「何かおわかりになりまして? 先生」
挑むように問いかける男爵令嬢。
デニス先生は神妙な顔で頷いた。
「ええ、わかりました。……あなたはご病気ではない、ということが」
びっくりして、思わず顔を上げる。
今までデニス先生が患者さんに対して、こんな言い方をしたことはなかったから。たとえ相手が物見気分丸出しの健康体の人だったとしても、だ。
「私が嘘をついているとでも?」
男爵令嬢の声が棘を帯びた。
「これは失礼、言い方を間違えました。ご申告通り、あなたは病を患っておられるのでしょう。それは私には治せない病です」
「まあ、ひどい。名医と聞いていたのに、がっかりだわ」
「申し訳ございません」
聴診器を仕舞い、デニス先生が深々と頭を下げる。
バウマン男爵令嬢が不満そうに唇を噛んだ。
そして唐突に、ふっと微笑む。
「いいわ、もう結構。診療報酬を持ってお帰りください」
ベッドの脇にいたメイドが二人、無言で進み出た。
一人が手にした黄金のトレーには、ぱんぱんに膨らんだ布袋が載っている。
もう一人が布袋の口紐をほどいてみせると、じゃらじゃらと音を立てて、トレーの上に沢山の金貨がこぼれ出た。
目を疑う量の金貨を前に、けれど、デニス先生は首を横に振った。
「報酬は不要です。私ではお力になれません」
「遠慮なさらないで。シュターデン先生は宮廷医でもないのに貴族の往診をなさって、高額の診療報酬を受け取られると聞いておりますわ。そちらにいる助手の女性、アリッサ嬢といいましたね。彼女だってそのお金で雇っているのでしょう?」
(え、わたし!?)
急に矛先を向けられてギクッとする。
デニス先生が飄々と言い返した。
「確かに私は宮廷医ではありません。が、診療の依頼には可能なかぎり応じたいと考えている次第です。報酬についてのご指摘は甘んじてお受けします。請求以上の金額を上乗せしてくださる方のご厚意は基本的にお断りしませんので」
「ご自覚の上でなさっているのね。品のないこと」
「ええ、恥ずかしながら。ただし診療には誠心誠意取り組んでいるつもりですし、いただいた報酬の殆どは診療所に集まる貧しい子供たちの薬や食事代に消えてしまいます。アリッサの月給も、ごくわずかなものですよ。私の経営下手のせいで心苦しく思うほどなのに、よくやってくれています」
「……そう。この程度では不足とおっしゃりたいわけ」
苦々しげにバウマン男爵令嬢が言う。
目配せを受け、メイドが無言で別のトレーを持ってきた。
その上には、さらに二つの布袋。
……まさか。
メイドが袋の口を開けて逆さにする。
さっきより大きな音とともに、トレーに溢れんばかりの金貨が黄金色の山をつくった。
(すごい……!)
いかが? と言うように、バウマン男爵令嬢が小首を傾げる。
いくら貴族、富裕層といっても、ここまで高額の診療報酬を提示した人は過去に一人もいない。
この女性、いったい何者なの!?




