4.追放
「かわいそうなお姉さま。ウィルヘルム殿下もやりすぎね。仮にも元婚約者を、こんな暗くてじめじめした牢屋に閉じ込めるなんて」
元、という部分を強調しつつ、リズラインは芝居がかった仕草で眉を下げてみせる。
「安心して。明日には出られるわ。修道院に向けて出発よ」
「ねえ、これは一体どういうことなの!? どうしてこんな……!」
にじり寄ったわたしから逃げるように、リズラインは一歩後ろに下がった。
さっきまでそこに立っていたはずの牢番は、いつのまにか姿を消している。
「王太子殿下のお加減が良くないの」
「え……?」
「きっと長くはもたないわ。聖女のわたしが祈っても、もうだめみたい」
およそ温度の感じられない声で、リズラインは淡々と言った。
「そう……」
他に言葉が出てこなかった。
リズラインの婚約者でもある王太子ダリウス殿下。
快活な弟君ウィルヘルム殿下とは対照的な、落ち着いた雰囲気が魅力的な青年だ。
勉学に秀でているばかりでなく、民をいつくしむ優しい性格で、理想的な君主になるだろうといわれている。
一方で幼い頃から体が弱く、病に伏せることも度々あった。
それでも、ここ数年は体調がよかったのだ。
だからこそリズラインとも婚約したし、彼女を大切にしてくれていた。
なのにまた、病魔が彼を蝕んでいたなんて。
最近お顔を見ないのは気になっていたけれど、そこまでお悪いとは聞いていなかった。
深刻な体調不良なら、国家の一大事だ。ごく一部の人にしか知らされていない極秘情報だろう。
「なによ、その顔」
リズラインの声が低くなった。
「ごめんなさい。リーズのほうがつらいわよね」
王宮の奥深く、人知れず苦しんでいる王太子殿下を想うと胸が痛む。
冷静を装っていても、リズラインだって気が気ではないはずだ。
一瞬の沈黙のあと、妹は、ふふっと小さく笑い声を漏らした。
「リーズ……?」
「そうね、つらいわ。胸が張り裂けそう。考えてもみて? 王太子殿下にもしものことがあったら次期国王は誰か。王妃になるのは誰なのか」
「……え?」
思いもかけない返しに驚いて、顔を上げる。
リズラインが、ぴしゃりと言った。
「お姉さまには荷が重すぎるわ。だからわたしが代わってあげる」
背中に冷や水を浴びせられた気がした。
リズラインの言うとおり、王太子殿下に万が一のことがあれば、弟のウィルヘルム殿下の王位継承順位が繰り上がる。
そして、昨日までウィルヘルム殿下と婚約していたのは、このわたし――。
「リーズ……まさかあなた、ウィルヘルム様と結婚するために、あんな嘘を!?」
「ウィルヘルム様がどうという話じゃないの。王妃に相応しいのはわたし、それだけのことよ」
「そんな……そんな理由で? ここまでする必要ないでしょう!? あんな嘘をついてまで……!」
「理由なんて簡単。わたし、お姉さまにいなくなってほしいの」
傲然とわたしを見下ろし、リズラインは言い放った。
「……リー……ズ……」
「それにね、きっとウィルヘルム様も、お姉さまが遠くにいってくれたほうがお気持ちが楽だと思う。婚約者であるお姉さまに騙されていたことで、とっても傷ついていらっしゃるのよ。でも心配しないで、わたしがちゃんとお慰めするから」
ウィルヘルム殿下の姿が脳裏に甦る。
最後に見た彼は、愛おしげにリズラインの肩を抱いていた。
もう、彼の心は妹のものなのだ。
リズラインは、いつのまにウィルヘルム殿下に近づいたんだろう。
ウィルヘルム殿下がそれに応えてしまったことも辛かった。
彼は婚約者のわたしだけでなく、兄君である王太子殿下の心も踏みにじったことになる……。
「ねえ、お姉さま。修道院はここよりずっと快適よ。一生外には出られないけれど、処刑されるよりいいでしょう?」
嘲笑の表情を浮かべてリズラインが言う。
肩の上にいたポンポンが、ぴょんと跳んで鉄格子にしがみついた。威嚇するように、いっそう毛を逆立てる。
リズラインが美しい顔をしかめた。
「お姉さまったら、この汚いハリネズミを牢屋にまで連れてきたの? 信じられない、牢番に言って処分させるわ」
「やめて! この子だけは取り上げないで。他のものは何もいらないから……!」
抱き寄せた手の中でポンポンは逆毛を立てるのをやめ、ふわふわの生き物に戻った。
懇願するわたしの姿に満足したのか、リズラインは肩を揺らして笑い、立ち上がった。
「まあいいわ、その程度の我儘は許してあげる。出発は明日の早朝。聖女の姉が晒し者にならないように、わたしがウィルヘルム殿下に頼んであげたのよ。感謝してね」
「リーズ!」
背を向けたリズラインが、何かを思い出したように足をとめた。
「ああ。感謝するのはわたしのほうかしら。ウィルヘルム様を譲ってもらったんだから。――ありがとう。大好きよ、お姉さま」
細身の体が、くるりと振り向く。
美しい顔には、人形のような無表情が貼り付いていた。
『だいすきよ、おねえさま』。
子供の頃から、何度この言葉を聞いただろう。
妹が何かを奪っていくときの言葉。
とうとうわたしは、婚約者までも奪われてしまった――。
リズラインが再び唇の両端を上げた。
「道中の無事を願っているわ。物騒な目に遭わないといいわね」
「待って、リーズ……リズライン!」
妹は答えず、ふたたびフードを被りなおす。
そして聖女らしい毅然とした足取りで、今度こそ牢を出ていった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦
翌朝。
リズラインの言葉どおり、わたしは外へ連れ出され、待機していた馬車へと追い立てられた。
見送る人など、もちろん誰もいない。
行き先は、隣国であるプレスターナ王国との国境付近に建つ修道院。
修道院といっても、罪人扱いの女性だけが送りこまれる監獄同然の場所だ。
持っていくことを許された荷物は、ごくわずかだった。
小さな鞄ひとつぶんの衣類に、お情け程度の現金。
それから、大切なポンポン。
当のポンポンは状況がわかっているのかいないのか、わたしのポシェットから顔だけを出し、鼻をひくひくさせている。
「一緒にいられてよかったわ」
鼻先をそっと撫でる。
リズラインにとってはポンポンの存在なんて、どうでもいいのだ。だからこそ取り上げられずに済んだ。
「さっさと乗れ」
屈強な騎士に馬車へと押し込まれる寸前、振り向いてみた。
まだ明けきらない空気のなかに、王都の景色が広がっている。
今日で見納めなのに。
どうしてだろう、涙も出ない。
(……さようなら)
心の中で呟く。
馬車の扉が音を立てて閉じた。
車窓には、幽霊のようにやつれた自分の顔が映っていた。