37.花が開くとき
「何だ、これは?」
「四年前、デニス先生の診療所に寄付をしてくれた若い女性がいました。その方は後日、この手紙だけを持ってもう一度デニス先生のもとを訪れて、すぐにお帰りになられたそうです」
シルヴィオさんが封筒を手に取る。
形の良い眉の端が、わずかに上がった。
「封蝋の文字、ソフィアさんの頭文字ですよね」
「ああ……」
つっかえながら、懸命に説明した。
診療所に現れた女性は名乗らなかったこと。
寄付金は子供たちのために使ってほしいと話していたこと。
彼女は、自分の兄とデニス先生が友人だと語っていたこと。
「封筒の中も見てください」
わたしの言葉に、シルヴィオさんは躊躇う仕草をみせた。
それでも意を決したように、封筒からカードを取り出す。
文字を追った彼の目もとが歪んだ。
――カードには、こんな文言が書かれている。
『デニス・シュターデン先生へ。
賢明な貴方のことですから、私の身元について既にご推察かもしれません。
お願いです。どうか私の行いは兄には内緒になさってください。
ご心配なく。私がこの世で最も愛し、信頼し、尊敬しているのは兄なのですから。
いつか、きっとわかりあえるでしょう。
その時は三人でお会いできますように。』
差出人の名前はない。
書き添えられている日付は、ダルトアで行われたリズラインの聖女お披露目式の数日前。
つまり、ソフィアさんの死の直前だ。
「その手紙、書いたのはソフィアさんじゃないでしょうか。文中にでてくる『兄』というのは、シルヴィオさんのことだと思います」
「寄付……たしかに妹のやりそうなことだし、文字も似ている……」
そこまで言って、シルヴィオさんは言葉を切る。
「いや。しかし名前すらない。誰が書いたかもわからない」
「カードの端を見てください」
シルヴィオさんが訝しそうに目を細めた。
「……押し花?」
長方形のカードの隅。
本来なら差出人のサインがあるはずの場所に、控えめに添えられていたのは、小さな白い花の押し花だった。
「このお屋敷の書庫にも、同じ押し花の栞が挟んである本がありました。それで思ったんです。両方ともソフィアさんが作ったんじゃないかって」
「それだけか。押し花なんて、女性の趣味としては珍しくもないだろう」
「でも、」
「やめてくれ!」
遮って、シルヴィオさんはカードを投げ捨てた。
「シルヴィオさん……」
「もういい。俺は妹を殺した。罪を犯しながら罰を下されていないだけの罪人だ。勝手に赦された気になってはいけないんだ。死者は話せない、俺への憎しみも恨み言も。だからこんな……こんな不確かなもので……!」
乱れた前髪が彼の目元を隠す。悲しみと混乱で渦を巻く感情を覆うように。
こんなふうに心を殺して、自分を罰して生きてきたんだ。この人は、ずっと。
『生きているように見えるけれど、死んでいる』。
花が咲かない月下雪を、シルヴィオさんはそう表した。
この樹は、彼自身だ。
「……不確かだって、わたしも思いました」
身を屈め、草の上に落ちたカードを拾った。
「だから、確かめたかったんです。今夜」
少し皺がついてしまった紙片を掌に載せ、シルヴィオさんに差し出す。
押し花の部分を指で示し、
「シルヴィオさんなら、わかりますか? この花の名前が」
渋々、カードに視線を落としたシルヴィオさんの瞳を大きく見開かれた。
唇から、掠れた声が漏れる。
「…………月下雪だ」
「やっぱり、これは月下雪の花なんですね」
わたしが今までみたことのない、白い花。
博識なデニス先生も何の花かわからないと言っていた。
このカードに使われている押し花は、月下雪だったのだ。
「とても珍しい花だと聞きました。月下雪の押し花を作ることができた若い女性って、限られてきませんか? 手紙を書いたのは、きっとソフィアさんです」
呆然とした表情で、シルヴィオさんがカードを手に取った。
「シルヴィオさんの辛さ、理解できるなんて言いません。でもソフィアさんの気持ちは、ここに書かれている通りだと思います。世界じゅうの誰よりも、シルヴィオさんの幸せを願っていたはずです」
「……妹が……俺に……」
「ソフィアさんの命を奪ってしまったとおっしゃいましたね。ご自分を赦せないなら、それでもいいです。ただ、忘れないでください。わたしは、シルヴィオさんに命を貰いました」
シルヴィオさんが、ハッとしたようにこちらを見た。
「……あの夜。あの森で死ぬはずだったわたしを、シルヴィオさんは救ってくれました。新しい人生をくれました。人を信じること、幸せっていう感情を教えてくれたのは、シルヴィオさんです」
「……」
「あなたが優しい人だってこと、わたしは知ってます。だから……もう終わりにしてください。ソフィアさんに憎まれていたなんて思うのは。彼女が遺した想いを、素直に受け止めてあげてください。愛されていたことを」
シルヴィオさんの長い指が、文字の並んだ紙面を撫でる。
それから、搔き抱くように掌で包み込み、胸に当てた。
「……ソフィア……っ!」
地面に両膝をついたシルヴィオさんが、振り絞るように妹の名前を呼ぶ。
「きゅ!」
ポシェットの中にいたポンポンが、急に鳴き声をあげた。
勢いよく月下雪の枝に飛び移る。
つられて視線を上げたわたしが見たものは、信じられない光景だった。
「シルヴィオさん! お花が……月下雪の花が!」
シルヴィオさんの横にしゃがんで、その肩に手を置く。
顔を上げた彼の表情が、驚きに塗り変えられた。
「花が……咲いている……!?」
満月の光を浴びて、白い蕾が次々と開いていく。
ソフィアさんの死後、一度も咲かなかったという月下雪の花が。
(なんて、綺麗なの……)
何百という白い花を咲かせた木は、まさに雪を飾ったように満月の下で輝いていた。
わたしが会うことができなかった人。
シルヴィオさんの、たった一人の妹。
――ソフィアさんが微笑んでいるみたいに。
隣で見上げるシルヴィオさんの頬を、光る雫が伝う。
「……アリッサ」
シルヴィオさんが呼んだ。
腕を伸ばし、わたしを抱きしめる。
「ありがとう」
返事のかわりに、シルヴィオさんの体をそっと抱き返した。
かける言葉は、みつからなくて。
甘く優しい花の香りの中、わたしたちは何も言わず、満開の白い花を見上げていた。
「きゅぅん……」
枝の上からこちらを見下ろし、ポンポンが小さく鳴いた。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦
月下雪の花が咲いた数日後。
リーンフェルト邸の壁に、四年ぶりにソフィアさんの肖像画が飾られた。
シルヴィオさんが自ら外し、また同じ場所へと戻した肖像画。
そこに描かれていたソフィアさんの姿は、聡明そうで、美しくて――デニス先生が話してくれたように、シルヴィオさんに面差しがよく似ていた。
絵を飾り終えたシルヴィオさんは、どことなく恥ずかしそうに「出かけてくる」と姿を消してしまう。
ソフィアさんの肖像画の前には、お邸の使用人が次々と集まってきた。
「ありがとうございます、アリッサ様。貴女のお陰で、私たちはまたソフィアお嬢様にお会いすることができました」
目を真っ赤にしてブルーノさんが言う。
「四年前、ソフィア様をお守りすることができなかった。皆、後悔の中にいたのです。時が止まったように……やっと今日から前に進むことができるような気がいたします」
「わたしは何もしてません、ブルーノさん。シルヴィオさんがソフィアさんを迎えにいってくれたんですよ」
いいえ、と首を横に振ったのは、同じく目に涙を溜めてハンカチを握りしめたエイダさんだった。
「旦那様のお心を動かしたのは、アリッサ様ですわ。この家の奥様になられる方がアリッサ様で、本当によかった……!」
その言葉には、答えられなかった。
曖昧に微笑むのが精いっぱい。
わたしとシルヴィオさんの婚約は偽りで、しかも一年間と決まっているんだから。
それでも、とても嬉しかった。
エイダさんやブルーノさんの言葉、みんなの涙。
何より、誤解と長い苦しみの時を経て、このリーンフェルト邸にソフィアさんが戻ってきたことが。
シルヴィオさんが教えてくれた。
月下雪の花言葉は「再生」。
肖像画を見上げて、そっと囁く。
「はじめまして、ソフィアさん。そして、おかえりなさい」
―――それからの日々は、穏やかに過ぎていった。
お屋敷の空気は以前にも増して明るくなり、シルヴィオさんも、たくさん笑うようになった。
そして、わたしも。
シルヴィオさんの笑顔を見ていると、心が温かくなる。
……だけど。
同時に、ちくりと胸が痛むのだ。
この笑顔のそばに、ずっといられるわけじゃない、と。
期限つきで始まった、シルヴィオさんとの偽装婚約。
約束の一年は、半分近くが過ぎようとしていた。




