35.咲かない花、悲しい過去
幸い、誰にも見つからずに外へ出ることができたみたいだった。
ポンポンを抱いて庭園に入る。
(綺麗な満月だわ)
灯りが必要ないくらい、今夜の月は眩しかった。
藍色の空には雲ひとつなく、たくさんの星々も明るく瞬いて地上を照らす。
月下雪の樹の位置は、昼間の間に既に確認していた。
月明かりの下、目指す場所に辿り着く。
思わず落胆の溜め息が漏れた。
「咲いてない……」
「きゅぅ……」
ポンポンもがっかりした声を出す。
大きく広がった枝の先に、たくさんの蕾が見える。でも、どれも固く閉じていた。
書斎の本で調べたけれど、月下雪というのは、とても珍しい植物らしい。
研究材料もさほどないらしく、図鑑も文章説明だけで絵は載っていなかった。
わたしにとっても初めて知った植物だから、花が咲いているところを実際に見たことなんてない。
「どうして咲かないのかしら。お世話は行き届いてるはずなのに」
リーンフェルト邸の庭師さんたちは真面目な人ばかり。特に筆頭庭師のおじさんは熱心に庭木のお手入れをする人だ。
月の光が必要だとして、今夜なら申し分ないはず。
それなのに……。
ふいに、背後で土を踏む音がした。
「誰かいるのか!?」
「ひゃっ!」
「きゅっ?」
誰何の声に思わず飛び上がる(肩の上のポンポンもいっしょに)。
「アリッサ……か?」
月光を浴びて立っていたのは、シルヴィオさんだった。
帰って来たばかりなのか、まだ軍服姿だ。
「こんな時間に何をしてる」
問いかける口調は、めずらしく尖っている。
月明かりの下、彼の顔はよく見えた。
美貌は冷たく澄んで、背筋が寒く感じられるくらいだ。
「あっ、あの、ごめんなさい! ……わたしも月下雪のお花が、見たくて……」
「月下雪の花を? だからといって一人で外に出るなんて不用心にも程があるぞ。なぜ誰にも声をかけなかった」
「ええと……あの……ご迷惑かと……」
答える声が、どんどん小さくなる。
シルヴィオさんの表情が少しだけ緩んだ。なかば呆れているようだ。
「きみって人は……次から次へと驚かせてくれるよ」
「すみません、勝手なことを」
「花を見たいと思っても無駄だ。この月下雪は、もう咲くことはないだろうから」
「え……?」
「四年前から一度も花が開かない。蕾のまま枯れてしまう。その樹は生きているように見えるだろう? でも、死んでいるんだ」
(生きているのに、死んでいる?)
しかも、四年前――ソフィアさんが亡くなった年から。
開かないとわかっている花のもとへ、なぜシルヴィオさんは足を運ぶの?
「とりあえず戻ろう」
「待って! ……ください」
わたしの手を取ろうと伸びてきた腕から逃げる。
シルヴィオさんが振り向いた。
「……教えてください。このまえ言ってらしたことの意味。シルヴィオさんがソフィアさんを、こ……殺したなんて。信じられない、あなたがそんなことするはずない」
「きみは俺を買い被ってる。残念ながら事実だよ」
シルヴィオさんは首を横に振った。
そして、ふっと小さく笑う。
「俺が怖い?」
「いいえ。ただ……知りたいんです。どうしてシルヴィオさんは、そんなにもご自分を責めているんですか? ソフィアさんは事故で亡くなったんですよね?」
「話したのはエイダか」
「エイダさんは悪くありません」
言ってしまった後で後悔する。これじゃエイダさんに聞いたと答えたのと同じだ。
「わ、わたしがしつこく尋ねて答えてもらったんです。エイダさんを叱らないでください」
「もとよりそんな気はない。きみは知らなくていいことだと言っているんだ」
「それは……そうですけど。わたしはあなたの婚約者、いえ、婚約者っていう設定なんですよ。誰かに尋ねられたとき、妹さんのことを何も知らないなんて不自然ですよね?」
矛盾したことを言ってるって分かってる。
わたしだって、彼に自分の過去を話していない。お前はどうなんだと逆に問い詰められたら、何も返せないくせに。
デニス先生から預かった「あるもの」を手にした指が震える。
でも、止められない。
――目の前のシルヴィオさんが、あまりにも辛そうだから。
知りたい。彼が抱えている重荷が何なのか。
できることなら、その辛さを分けてほしい。楽にしてあげたい。愚かな思い上がりだとしても。
シルヴィオさんの美しい顔からは、表情というものが消えていた。
光を失った瞳が虚空を見る。
やがて彼は、静かにつぶやいた。
「そうだな。きみには知る権利がある。仮初とはいえ自分が婚約している男が、どれほど酷い人間かを」
「酷い人間だなんて……エイダさんも言ってました。あれは事故だったって、シルヴィオさんのせいじゃないって。なのに、どうして」
視線を地上へと戻し、シルヴィオさんは苦い表情で言った。
「確かに、ソフィアは事故で死んだ」
「……! やっぱり、事故なんですね。殺してなんか」
「いいや。妹を死に追いやったのは俺だ。事故の原因をつくったのは、この俺なんだ」
夜の庭園に風が吹く。
月光の下で、白い蕾が震えるように揺れた。




