34.残されたもの
バサバサ――
棚の上に積まれた専門書の山が、音をたてて崩れた。
机に向かっていたデニス先生が驚いた顔で振り返る。
「アリッサ、大丈夫!?」
「す、すみません! 大切な資料を」
あわてて床にしゃがみ、書物を拾い集める。
乱雑に積み上げられたままの専門書を整理しようと思ったのに、手もとを誤って、かえって散らかしてしまった。
夕方の診療所。
患者さんのいなくなった建物には、デニス先生とわたしだけが残っている。
「疲れてるんじゃないのかい。僕が雑用を全部押し付けてるせいで」
「そんなことありません、ちょっと手がすべっただけです」
「そう? ちょっと元気がないように見えるよ」
片付けるのを手伝ってくれながら、デニス先生が言った。
見透かされてる。今だって、あの夜のことを思い出してしまっていた。
あれから数日が経つけれど、お仕事が忙しいのか、シルヴィオさんは殆どお屋敷にいない。
顔を合わせることがあっても、短い会話を交わすだけ。あの話の続きは聞けないままだ。
見えない。
シルヴィオさんの心の中が――。
「アリッサ?」
「あ、ごめんなさい。本当に大丈夫です」
「ならいいんだけど……もしも悩みがあるなら言って。僕にできることがあれば何でもするから」
「ありがとうございます、デニス先生」
ふと思いだした。
デニス先生とシルヴィオさんは、幼年学校の同期生だったはず。
「あの……先生は、シルヴィオさんに妹さんがいることをご存知でしたか?」
「ああ、うん。リーンフェルトの妹君といえば美人で有名だったからね。たしかソフィアさんといったか。お元気なのかい?」
「それが……」
ソフィアさんがもうこの世にいないことを告げると、デニス先生の顔が一気に曇った。
「そうだったのか、事故で……まだ若いのに、残念だ」
「ソフィアさんとお会いになったことは?」
「ないよ。正式には」
「正式には?」
鸚鵡返しに尋ねると、デニス先生は困ったように片手を額に当てる仕草をした。
「うーん……確信は持てなくてね。でも、いちど会っているような気がする。以前、若い女性が診療所に訪ねてきたことがあるんだ。ひと目で貴族の令嬢とわかったけど、彼女は頑なに名乗らなかった」
「いつのことですか? その女性は何をしに、ここへ?」
「もうかなり前だよ。四年前の……春ごろ、だったと思う」
四年前といえば、ソフィアさんが亡くなった年だ。
「寄付金を持ってきてくれたんだ。僕が近所の子供たちにご飯を食べさせてるって噂を聞いたらしい。小さな金額でごめんなさいって言われたけど、当時は助けられたよ。この診療所を開いたばかりの頃でね、ほんとにお金がなかったから」
「寄付金を……」
「得体の知れない町医者にお金を預けて心配じゃないですかと尋ねたら、彼女、『兄のお友達だった方なら安心でしょう』と笑ったんだよ。言ったあと、失敗したって感じで顔を真っ赤にしてたけどね。……綺麗な人だった。瞳や髪の色がリーンフェルトと同じだったし、年の頃も一致する」
ほとんど確信しているような口ぶりだった。
だけど、確信が持てないというのもわかる。
緑の瞳に金髪で、デニス先生と同級生の兄を持つ女性は、ソフィアさん以外にもいるだろう。
(でも、もしデニス先生の会った女性がソフィアさんだったとしたら……)
彼女の言葉には、自分の兄への尊敬と信頼が感じられる。
妹を「殺した」というシルヴィオさんの話とは、どうしてもつながらない。
「その女性とは他にどんなお話をされたんですか? 何でもいいです、覚えていることを教えていただけませんか」
「どうしたんだいアリッサ、そんなに必死に。きみのお義姉さんになるはずだった人だし、気になるのはわかるけど……」
わたしの剣幕に気圧されて、デニス先生が後退りする。
机に腰が当たったところで、ハッとしたように彼は振り向いた。
「そうか! アリッサなら、あれを見たら何かわかるかもしれない」
「あれ?」
「ちょっと待って、たしかこのあたりに……ん? おかしいな? どこへ仕舞ったんだっけ」
机の引き出しを上から下まで開け、中身をひっくり返すこと暫し。
大捜索の末に、
「あった!」
デニス先生は、「あるもの」をわたしに差し出した。
「アリッサに預けるよ。彼女も許してくれると思う」
「……これは?」
「彼女の身元を確かめる手掛かりになるかと思って残しておいたんだ。……いつか改めて、お礼を言いたかったんだけどな」
くしゃくしゃになった頭に手をやって、どうやら叶いそうにないねと、寂しそうにデニス先生は付け足した。
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その日も。
シルヴィオさんの帰りはとても遅かった。
普段からシルヴィオさんは、忙しいと騎士団本部に泊まりこむこともある。
「今夜もそうなるかもしれませんなあ。アリッサ様には、お帰りを待たずにお休みいただくようにと旦那様より仰せつかっております。どうぞ寝室へお上がりください」
「わかりました……」
ブルーノさんに促され、ポンポンを抱いて寝室に向かう。
ベッドには入らず椅子に腰掛け、ライティングデスクの上の本を開いた。
頁の間の押し花の栞を、改めて眺める。
美しい姿のまま時をとめた、五枚の花弁をもつ白い花だ。
考えを巡らせながら、夜が深まるのを待った。
お邸全体が寝静まった頃、窓辺に立ち、カーテンを開ける。
「きゅ?」
サイドテーブルに置いた籠の中で熟睡していたポンポンが、寝ぼけ眼で小さく鳴いた。
眼下には、月光を浴びたリーンフェルト邸の庭園が広がっている。
『――月下雪という花だ。月夜にしか咲かない』
シルヴィオさんの台詞を思い出す。
やはり駄目だったな、と続けた声も。
あの夜、花は開いていなかった。
見上げた夜空に高く浮かぶ月は、真円。
(もしかすると、今夜ならーー)
昼間、デニス先生がわたしに手渡してくれた「あるもの」を手に取る。
ガウンを羽織ると、出かける気配を察したポンポンが肩にしがみついてきた。
「きゅ!」
「お庭に行ってみよう、ポンポン」
燭台を持って階下に降りたところで、はたと思い当たった。
門には護衛がいる。夜中に外に出たいなんて言ったら変に思われるに違いない。
エイダさんに声をかけようかとも考えたけれど、思いとどまった。
今からやろうとしていることは、シルヴィオさんの心に踏み込む行為だ。
まずは、自分ひとりで確かめないと。そしてもし勘違いなら、胸にしまっておかなくてはいけない。
悩んだあげく、裏口からこっそり外に出た。
(我ながら立派な不審者ね……これは)
でも、どうしても。
わたしは月下雪の花が咲いているところを見たかった。
ソフィアさんが植えたという月下雪の樹。
その花が、きっと真実を教えてくれる。




