32.花園の幻
部屋を飛び出し、階段を駆け下りる。
「きゅ……」
腕に抱かれたポンポンが、ビックリしたように小さく鳴き声を上げた。
自分の心臓の音が、銅鑼のように頭に響き渡る。
(まさか……本当にリズラインが追ってきたの!?)
もしも、あの人影がリズラインなら。
見つかれば、わたしは殺される。
頭ではわかっているのはずなのに、体は別の衝動に突き動かされていた。
(確かめないと……!)
外にいるのは本当に妹?
どうしてこの場に現れたの?
「っ!!」
廊下の曲がり角から、人影が現れた。
避けきれずにぶつかり、わたしは廊下に尻餅をついた。相手はびくともしない。
(お屋敷の中に入って来てる!?)
助けを呼ばなきゃ。
そう思うのに、恐怖のあまり声もでない。
人影が、こちらへ手をのばしてくる。
振り払おうと腕を振り上げたとき、
「アリッサ?」
聞き慣れた声で名前を呼ばれた。
「し、シルヴィオ、さん……?」
目の前にいたのは、シルヴィオさんだった。
片膝をついて、わたしの顔を覗きこんでいる。
「どうした? 何があった」
心配そうに尋ねるシルヴィオさんにすがりつく。
「い……妹が! 外に、お庭に……さっき窓から見えたんです!」
シルヴィオさんは怪訝そうに顔を曇らせた。
「庭に? いや、誰もいなかったはずだ。表には警備もいる。そう簡単に敷地内に侵入はできない」
「でも……! わたし見たんです、白い服を着た人……あれはわたしの妹です。ここにいるはずないのに……行かないと。行って話をしないと!」
「白い服……そうか、きみが見たのは、きっと俺だ」
「え……?」
「落ち着いて、俺をよく見てくれ」
わたしの肩に手を置いて、シルヴィオさんが諭すように言った。
(白い……シャツ……?)
真正面から向き合う彼は、私服用のシャツ姿。色は白。
「ほ……ほんとうに、シルヴィオさんが……?」
「驚かせてしまったんだな。謝るよ。すまなかった」
安心させるように微笑んで、床に這ったままのわたしを助け起こしてくれる。
廊下にぺたんと座り込んだ格好で、わたしは彼と向き合った。
「花を見るために外に出て、戻ったところだ。まさかきみに見られていたとは」
「……お花?」
「ああ。これを」
気まずそうに頷くシルヴィオさんの左手には、小指の長さほどの小さな花の蕾が載っていた。
緑の蕾は可愛らしく膨らんでいたけれど、閉じたままだ。
「シルヴィオさん、どうしてこんな時間にお花を……?」
「これは月下雪という樹がつける花の蕾だ。面白い植物で、月夜にしか咲かない」
「月下雪……」
「そう。今夜は月が出ていたから、花が開いているかと思ったんだが。やはり駄目だったな」
初めて聞く花の名前。
悪夢のほとぼりが冷めて、少しずつ、言葉が頭に入って来る。
(あの人影は、シルヴィオさんだった……)
冷静に考えたら、当たりまえのことだった。
いくらリズラインが聖女といっても、空間移動ができるわけじゃない。
故郷から遠く離れたプレスターナ王国の、ここリーンフェルト邸の敷地内に、いきなり現れるなんてありえないのだ。
「きみには、妹がいるのか?」
今度はシルヴィオさんが尋ねる。
はい、とは、言えなかった。
「……夢を……みたんです」
溢れた声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。
不完全な答えを聞き返すことはせず、ただ待つように、シルヴィオさんはこちらを見つめている。
自分のしていることが急に恥ずかしく思えてきた。
馬鹿馬鹿しい。
情けない。
「……妹なんて……もう、いないのに……」
血を分けた妹に疎まれて、殺されかけて、わたしは「アリッサ」になった。
リズライン(あの子)は、もう、わたしを姉だなんて思ってないはずだ。
わたしのいない日常を当たり前のものとして、幸せに暮らしてる。
過去に囚われているのは、わたしだけ。
故郷の誰からも忘れられ、亡き者として扱われているに違いないのに。
いまだに夢に怯え、幻を見て取り乱している。
「ごめんなさい……。わたし、ばかみたい、です……」
言葉と一緒に涙が零れる。
語れば語るだけ惨めになる気がして、途中で唇を噛んだ。
ふと左肩に、あたたかい重みを感じた。
――シルヴィオさんの手だ。
「誰にだって、失くしたものを振り返る時がある」
静かな声が降って来る。
目を上げた先には、真剣な表情で見つめるシルヴィオさんがいた。
結んだ視線が逸れる。
眼差しを月下雪の蕾に移し、迷うような間をおいて、彼は言った。
「俺にも、妹がいたよ」
「シルヴィオさんに……妹さんが?」
「ソフィアという名前だ。月下雪の樹は彼女が植えた」
驚いた。
彼から家族の話を聞くのは初めてだ。
(妹さんがいたなんて……)
だけど、不思議だ。
お屋敷の誰からも、その人の話を聞いたことがない。
しかも彼は、妹が「いた」と言った――過去形だ。
「……ソフィアさんは、今どこに?」
思わず尋ねた。
詮索はしないと、決めていたはずなのに。
「もう、いない」
答えるシルヴィオさんの眉間に、深い皺がきざまれる。
右手に持った花の蕾を、ぐしゃりと握りつぶして、呻くように彼は続けた。
「妹は死んだ。……俺が殺した。俺は本当は君に触れる資格さえない、殺人者なんだ」