31.わるいゆめ
うす暗い森のなかを、わたしは一人で歩いている。
一歩すすむ間にも、周囲はどんどん闇に飲まれていく。夜が近いのだ。
「リーズ! どこにいるの?」
自分が発した声の幼さに驚く。
慌てて見下ろせば、手も足も全てが小さく頼りない。
(時間が戻ってる?)
まだ故郷にいた、子供の頃。
リズラインが聖女として王都に迎えられる前に。
……ああ、まただ。
子供に戻ったわたしは、また「あの遊び」に付き合わされているのだ。
かくれんぼをしようと言って、妹はわたしを森へと誘う。
鬼は、いつもわたし。
リズラインはどこかに隠れて、わたしが必死に彼女を探す姿を覗き見ては笑っている。
見つけるのが早すぎればつまらないと怒られ、遅ければのろまと罵られる。楽しいのは妹だけ。
「リーズ」
呼んだって返事がないのも、いつも通り。
けれど、今日は様子が違った。
こんなに暗くなるまで、リズラインが隠れたままでいるなんて変だ。
あの子だって暗い森は怖いはず。
もしかしたらリズライン、ほんとうに迷子になってしまったの?
帰り道がわからなくなって、どこかで泣いているんじゃ……。
「リーズ、どこ?」
もういちど大きな声で呼んだとき、強い風が吹いた。
藪が割れ、その向こうの人影が露わになる。
「……リーズ!」
可愛らしいドレスに身を包み、外出用のマントのフードを頭に被ったリズラインが、涙にぬれた顔を上げた。
「よかった、ここにいたの……」
「ばか!」
駆け寄ったとたん、リズラインの小さな手が足もとの小石を掴み、わたしの顔めがけて投げつけた。
「痛っ……」
思わずしゃがみこんだわたしを、リズラインは恐ろしい剣幕で怒鳴りつけた。
「こんなに暗くなるまでどこにいたの!? ちゃんとリーズのお世話をしなきゃだめじゃない! ばか、アリアテッサのばか!」
「……ごめんなさい、わたしが悪かったわ」
額に触れてみる。
ぬるりとした感触とともに指先に液体が触れた。血が出ている。
「うそ、アリアテッサの嘘つき! ほんとうはリーズのこと見捨てて、ひとりでおうちに帰るつもりだったんでしょう!? ぜったいにそうよ! リーズと離れて嬉しかったのよ……わかってるんだから!」
「そんなはずないじゃない。ずっと探してたのよ。いっしょに帰ろう、ね?」
取り乱す姿が可哀想に思えて、わたしは血で汚れていない方の手を差し出した。
妹は顔を伏せたまま動かない。
いつの間にか、周囲から音という音が消えていた。
風景さえも消え、闇の中でわたしたちだけが向かい合っている。
「アリアテッサ」
リズラインが呟いた。
低い声。大人の女の声。
全身の毛が逆立つ。
後じさりしようとしたとき、強い力で手首を掴まれた。
「……リー、ズ?」
闇の中で、真っ白に浮かび上がる妹の手。
幼児ではなく、大人の女性の細長い指。
――おそるおそる目を上げる。
フードの中からわたしを睨み付けていたのは、牢獄で別れたあの日の、残酷なまでに美しいリズラインだった。
青白い唇の端がゆがみ、言葉を刻む。
ゆっくりと、呪文でも唱えるかのように。
「逃がさないわよ」
♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢
「……っ!!」
ベッドの上で目を開けたときは、ぐっしょりと汗をかいていた。
(夢……?)
自分のあげた言葉にならない悲鳴の残響が、暗い天井を漂っている。
今いる場所がリーンフェルト邸の、わたしに与えられた部屋だとわかったとき、深い安堵の溜息を吐かずにはいられなかった。
「キュ?」
サイドテーブルに置いた籠の中で眠っていたポンポンが、ベッドの上に飛び乗って来る。
心配そうに見上げる小さな体を抱き上げて、頬を寄せた。
「大丈夫。夢を見ただけ」
半分は自分に言い聞かせるように呟く。
そうだ。
ただの夢。しかも、遠い昔の。
プレスターナでの暮らしも、もう三か月になる。
新しい生活に慣れるにつれ、昔を思い出すことも減っていた。
不思議なもので、夢だとわかったとたん、映像は記憶の彼方へゆっくりと消えてゆく。
さっきまで、現実と同じ輪郭をもって迫って来たのに。
……あんなに怖かったのに。
でも、夢の最後にリズラインが言った言葉は、はっきり覚えてる。
『逃がさないわよ』
睨みつけていた二つの目。
まるで、あの子のいない日々を生きていることを責めるみたいに。
ぶるっと体が震えた。
「……ただの夢だわ」
声に出して呟いてみた。悪夢の余韻を掻き消したい。
――修道院へ移送される途中、わたしを襲った男たちは「身分の高い人物に頼まれた」と言っていた。
わたしが修道院に着いていないことを、依頼者は、とうに知っているはずだ。
その人物はきっと、標的の死を確かめたかったと思う。
遺体の確認のために森に入ったかもしれない。そして、それは徒労に終わっているはずだ。
わたしだけでなく、暗殺者も含めて全員が姿を消している。魔物に襲われたという痕跡だけを残して。
ばらばらになった馬車。
おびただしい血痕。
放置されたままになっていたであろう荷物や衣服の一部……。
遺体はなくとも、アリアテッサは死んだと判断するには充分な状況だ。
(わたしの死を願った人はきっと、望みは叶えられたと思ってるはずよ)
もともとわたしは聖女でも、王族でもない。
ほんの一瞬、第二王子の婚約者に指名されたことがあるというだけだもの。
探し続ける価値がある人間だとは、到底思えない。わたしの死を願ったのが誰であったとしても。
(ウィルヘルム殿下も、わたしのことは忘れているだろうし)
……そう考えて、自分で驚いた。
今のわたしは、そのことを悲しいと思っていない。
彼への恋心も死んでしまったんだ。古い名前と一緒に。
ガウンを羽織り、ポンポンを抱いてバルコニーに出てみた。
気持ちのいい夜風が汗を冷まし、悪夢の熱を攫ってくれる。
眼下には、リーンフェルト邸の花園が月の光を浴びて静かに眠っていた。
当然ながら人影は見当たらない。
夢の中から抜け出したリズラインが佇んでいたら、なんて考えは、子供っぽい被害妄想だ。
「アリアテッサは、もうこの世にはいない」
もう一度、声に出す。
アリアテッサは死んだ。
ここにいるわたしは、アリッサ・エルツェ。
過去を持たない、ただの少女。追って来る人は誰もいない。
部屋へ戻ろうとしたときだった。
視界の隅で、なにかが動いた。
「……?」
花園の緑の一部が不自然に揺れている。
手入れされたアーチの向こうを、白い影が横切った。
(誰かいる!?)
誰かが庭園を歩いている。
こんな深夜に、いったい何故――。
ぞっ、と肌が粟立つ。
夢の中と同じように。
(まさか……リズラインなの?)
次の瞬間、わたしは裸足のまま階下へ向かって駆けだしていた。