30.二人でお茶を
「デニス先生、今日もお疲れ様でした。失礼します」
「あ。アリッサ、ちょっと待って」
夕方の診療所。
一日の仕事を終えて帰ろうとしたわたしを、デニス先生が呼び止める。
「はい、これ」
そんな言葉とともに、手のひらに小さな巾着袋が載せられた。
「キュ?」
なになに? と言いたげに、ポンポンが布袋に顔を寄せてくる。
口紐をほどいて中を覗いてみると、何枚かの硬貨が入っているのが見えた。
(これって……)
「一か月よくやってくれたね。少なくて悪いけど……」
(お給料!!!)
プレスターナに来て、はじめていただくお給料だ。
「ありがとうございます!!」
頭をさげるわたしを見て、そんなにかしこまらなくていいよ、とデニス先生が苦笑する。
「こちらこそありがとう。きみのおかげで本当に助かってる。来月からもよろしくね」
「はい!」
布袋が、ずっしりと重たく感じる。
妹リズラインの付き人をしていたときは、自由になるお金を与えられていなかった。
今は、違う。
(わたし、自分の力でお給料をいただけたんだ……!)
てのひらの上の重さ、そしてデニス先生の言葉が、いまの自分を肯定してくれているような気がした。
リーンフェルト邸へ帰る足取りがはずむ。
ポシェットの中のポンポンが鼻歌でも歌うみたいに囀りはじめた。
「楽しそうね、ポンポン。やっぱりわたしの気持ちがわかる?」
通り道にあるカフェでは、ウェイトレスの女の子がテラス席のテーブルにキャンドルを並べているところだった。夜の営業の準備をしているんだろう。
プレスターナに来て初めての日に、シルヴィオさんが連れてきてくれたカフェ。
魔獣の襲撃を受けて破壊されたテラス席は、すっかり元どおり修復されている。この国の人々の逞しさを表すように。
カフェの窓ガラスに反射する西陽が、今日はさらにキラキラと輝いて見えた。
♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢
「何だ? これは」
わたしが差し出した布袋を見て、シルヴィオさんが不思議そうに問いかける。
夕食前、晩餐のテーブルに着く直前のタイミング。
傍らで聞いていたエイダさんとブルーノさんも、怪訝な表情を浮かべてわたしを見た。
テーブルの横では、ユストさんが黙々と前菜の準備をすすめている。
「はじめてのお給料です。シルヴィオさんにお返ししたくて」
「返すとは?」
「今まで色々いただいたものの代金の返済です。ドレスや靴や、本当にいろいろ。ぜんぜん足りないのはわかってます。これから毎月、少しずつお返ししていきたいと思っています」
「待ってくれ、アリッサ」
シルヴィオさんの顔に困惑の表情が浮かんだ。
「恩を着せるつもりはない。俺がやりたくてやったことだ。返済なんて考えなくていい」
「お気持ちはうれしいです。でも今のままじゃ、あまりにも一方的にお世話になりっぱなしです。少しだけでも受け取ってください」
「アリッサ様……なんて健気なんでしょう! エイダは涙が出そうですっ」
「いいから、お前は少し黙っていなさい」
後ろからぎゅうっと抱きしめてくるエイダさん、そんな彼女を引き剥がすブルーノさん。ユストさんは相変わらず無反応。
シルヴィオさんは身を乗り出し、声をひそめてささやいた。
「忘れたのか? きみには俺の婚約者の役割を演じてもらっている。見返りというなら、それで充分だ」
「でも……」
「いいから」
わたしの手にお給料袋を握らせ、シルヴィオさんは続けた。
「これは、きみが自分の力で得たものだ。自分の意思で自由に使っていいんだよ。欲しいもの、してみたいこと、あるだろう? 何でもいい、ひとつ実現してみるんだ。アリッサ、何がしたい?」
彼がわたしに、この質問を投げかけるのは二度目だった。
一度目は、この国へ来てすぐ、ふたりでカフェに行ったとき。
すぐに答えが浮かばなくて、自分の気持ちに鈍感になっていると気づいたんだった。
あれから、このプレスターナで時間を重ねた。
いま、わたしが望むこと……。
物質なら足りている。すべてシルヴィオさんが用意してくれたから。
故郷で聖女の付き人をしていたときより、ずっと恵まれている。
だから「欲しいもの」は特にない。これは本当。
だけど。
黙りこんだわたしを、シルヴィオさんもまた黙って見つめている。答えを優しく促すように。
(……そうだわ。ずっとやりたかったことがあるじゃない)
口に出すには、勇気が必要だった。
まずは、すうっとひと息、呼吸を整える。
「わたし、カフェにお茶を飲みにいきたいです」
それを聞いたシルヴィオさんの目が、微笑みのかたちに細められた。
「カフェか、いいね。行っておいで」
「あの……できたら、シ、シルヴィオさんと一緒に!」
「俺と?」
シルヴィオさんが意外そうに眉を上げる。
言ってしまった。
わたしが、本当に実現したいこと。
(やっぱり言うんじゃなかった、かな……?)
後悔が襲ってくる。でも、もう後戻りできない。
「はっ、はい! ほら、あの、前に一度カフェに連れて行ってくださったことがあったでしょう? あのときのハーブティー、とっても美味しかったです」
「美味いハーブティー?」
今まで黙っていたユストさんが、急に話に割って入ってきた。
「それはどんなハーブを使ってるんです? 旦那様のお口にも合う味でしたか?」
「お前も黙っておきなさい」
ブルーノさんが、今度はユストさんの襟首を掴んで下がらせる。
勇気をだして、わたしは続けた。
「あのときは途中で魔獣が現れて、ほんとにひと口しか味わえなくて……シルヴィオさんもそうでしたよね? だからもう一度、同じお店に行きたいんです。それで、こっ、今度は、わたしがシルヴィオさんにご馳走させてください!」
一気に言い終えて見上げたシルヴィオさんの顔には、今まで見たことがない表情が浮かんでいた。
驚いているような。
呆気に取られているような。
それから、やっぱり驚いているような……。
なんとも言えないその表情が、徐々に変化する。
そして、彼は笑い出した。
「アリッサ、きみが俺をカフェに連れて行ってくれるのかい?」
「あの……あの……っ、失礼なのはわかってます。でも、わたしのやりたいこと、なんです……」
だんだん声が小さくなる。
(呆れられちゃった、かな……)
改めて後悔したとき。
シルヴィオさんが胸に手を当て、頷いた。
「喜んでお誘いをお受けします、お嬢さん」
「ほ……本当ですか!?」
驚いて見上げた視線の先で、シルヴィオさんが微笑む。
「もちろん。嬉しいよ、一緒に出掛けよう」
「は……はい!」
心臓がドキドキと早鐘を打っている。
思い切って口にだしてみて、よかった!
願いが叶うって、こんなにも嬉しいことなんだ。
「デートですわねっ、アリッサ様」
エイダさんに囁かれ、どきっとする。
「そ、そんな、ただシルヴィオさんにお礼がしたくて……あ、そうだ、よかったらエイダさんもご一緒にいかがですか? ブルーノさんやユストさんも! みなさんにお礼がしたいんです」
「お礼なんてお考えにならないでくださいな。それにわたくし、そこまで野暮ではございませんわ。ね、お父様?」
「ええ、このブルーノも、お気持ちだけありがたく承ります。アリッサ様、旦那様と楽しんでいらしてくださいませ」
「俺は行ってもいいですか? そんなに美味いハーブティーを出す店なら何か特別なレシピを使ってるのかも……」
「ユスト、空気読んで!」
「なんだよ、俺は料理人として! 旦那様のために!」
「はいはい、旦那様のためを思うならここは一旦はずしましょうねー」
エイダさんとブルーノさんに両脇をそれぞれ抱えられ、ユストさんは部屋の外へと引っ張り出されていく。
「……気を遣われたな」
「……はい」
シルヴィオさんと顔を見合わせる。
気づいたら、わたしも笑っていた。
「じゃあ、アリッサ。次の休日に、かな?」
「はい、シルヴィオさん」
――ああ、お休みが待ち遠しい!
ほんの、一月前。
妹に冤罪の濡れ衣を着せられ、婚約者に見捨てられ、ダルトア王国を追放されたあのとき。
こんな日が来るなんて、こんな気持ちになれるなんて想像さえしなかった。
椅子の背で毛繕いをしていたポンポンが、ぱたぱた飛んで肩に乗ってくる。
甘えるように鼻先を押し当ててくるポンポンに、心の中で話しかけた。
(ねえ。幸せって、こういう感情のことをいうのかしらね?)
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