23.迷い
「きゅー、きゅー」
今度こそポンポンが鳴いた。
じたじた手の中であばれている。「ごはんちょうだい」の抗議だ。
「昨日から思ってたけど、不思議な生き物だね。何なんだい、この子は」
「ハリネズミ……だと思ってたんですけど……」
答えながら声が小さくなる。
ハリネズミで通すのは、さすがにもう苦しいわよね。いよいよ正解がわからなくなってきた。
だけどデニス先生の反応は、意外とあっさりしたものだった。
「飛ぶハリネズミか。おもしろいね、新種かな? で、何を食べるの」
「なんでも。あ、でもリゾットは食べさせたことないですけど」
「だろうな。おまえはこっちのほうがいいんじゃないかな?」
厨房の隅の麻袋の中から出してくれたのは、ポンポンの大好物の林檎だった。
「きゅ!」
さっそく嬉しそうに食べ始めるポンポン。
「ありがとうございます。この子に優しくしてくださって」
「お礼を言うのはこっちだよ、アリッサ」
目線を合わせ、デニス先生が言った。
寝不足で充血した目。でも、そこには真摯な光が宿っている。
「僕ひとりじゃ、あれだけの数の患者を受け入れられなかったと思う。手遅れになってしまう人もいたはずだ。そうならなかったのは、きみのお陰だよ。本当にありがとう」
「……とにかく、夢中で。お役に立てていたのなら、よかったです」
なんだか急にどぎまぎしてしまって、どう答えたらいいかわからなかった。
ありがとうと言われることに、わたしは慣れてないのだ。
「あっ、あの、デニス先生。わたしはこれで」
「いた! アリッサー!」
甲高い声とともに、カティが厨房に駆け込んできた。そのままの勢いでわたしに抱き付く。
「カティ? どうして泣いてるの?」
「おきたらアリッサいないんだもん……どこかに行っちゃったかと思った……」
「大丈夫、ちゃんといるわよ」
涙ぐんでいるカティを抱き返す。
「すっかり懐かれたね、アリッサ」
デニス先生の言葉に、カティが大きく頷いた。
「カティ、アリッサだーいすき! あ、デニスせんせいもすきだよ」
「うん、ありがとう」
「せんせい、カティおなかすいたの」
「うん、言うと思った!」
あははと声をあげて、デニス先生が朗らかに笑う。
「じゃあ、さっそく朝食といきますか。カティ、他にも起きてる子がいたら声をかけてあげて。動けない子のところには僕が食事を運ぶからね」
「はーい! ごはん! ごはん!」
元気に声を張り上げて、カティは全速力で部屋をでていく。
「よっ、と……」
きいきい軋む食器棚を開けて、デニス先生が大量のお皿を取り出す。
手術のときと違って、その手元はおぼつかない。
「あ、お、お!?」
「せ、先生あぶない!」
ガシャ、ガシャン――!
大きな音をたてて、腕におさまりきらなかった木のお皿の山が床に散らばった。
病室のほうから子供たちの話し声が聞こえてくる。いまの音は格好の目覚ましになったはずだ。
「こりゃみんな起きちゃったな……」
「そうですね」
食器を拾い集めながら、デニス先生と顔を見合わせる。
……さっき。
「これで帰ります」と言うつもりだった。
魔獣襲来の混乱の中で、シルヴィオさんはわたしに屋敷まで逃げるようにと言った。
異国にまで名を知られる魔法騎士の彼。きっと無事に戦闘を終えているはず、そう信じたい。
あるいは――考えたくないけど——シルヴィオさんが怪我をしていたら。
屋敷に戻っていないわたしの身を案じていたら。
帰りたい。
彼の傍にいたい。何もできなくても。
だけど、その願いが心に湧きあがるたびに、もうひとりのわたしが囁くのだ。
……彼はそこまで、わたしのことを気にかけてはいない、と。
シルヴィオさんにとって、わたしは行き掛かり上、保護することになっただけの存在。
出会ったのは、ほんの二日前のことだもの。偽装婚約だって、ちょっとした思いつきに過ぎないのかも。
そう。彼にとってのわたしは、迷い猫のようなもの。
またいなくなったとして、すぐに忘れてしまう。
少しの間だけは案じても、どのみち最後まで面倒をみられるわけではなかったと心の隅で安堵したりして……。
わたしなんて、その程度の存在なんじゃない?
お屋敷に帰ろうとしていることじたい、自意識過剰だったりしない?
心の中に迷いが渦巻く。
食器を集め終えたところで、いくつもの足音が慌ただしく廊下を走って来た。
「せんせー、おはよー!」
「なに? いい匂いがする!」
子供たちが厨房の入り口に押しかけてきた。みんなお腹がすいているはずだ。
「おいおいみんな、ひと晩でずいぶん回復したんだな?」
デニス先生の顔には、喜びと同じくらい困惑の表情が浮かんでいる。
この子たちに加え、ベッドから動けない子や大人の患者さんたちにも朝食を配らなくてはいけない。
思う以上に大変な作業だ。後片付けだって必要だし。
(てんてこまいになる予感しかしない……)
先生だって昨日から何も食べてないのに、このままだと倒れちゃうかも。
……迷った末に、わたしは申し出を変えることにした。
ここは大人ひとりじゃ無理だ。
「デニス先生、お手伝いします!」
「わ、悪いねアリッサ、何から何まで……でも、すごく助かるよ」
申し訳なさそうに食器を手渡しながら、デニス先生が目を細めて笑う。
子供たちの声に誘われるように、窓の外では小鳥たちが朝の囀りを始めていた。