21.青年医師デニス
たどりついたのは、一軒の古びた建物だった。
青年を追って、玄関ホールの奥の部屋へ駆け込む。
くすんだ壁の空間に簡素なベッドが並んでいた。
壁一面に作りつけられた棚には、たくさんのガラス瓶。薬草の匂いが鼻をくすぐる。
(ここは……病院?)
「ルティ、すぐに手当てするからな。頑張れよ」
ベッドに少女を寝かせて、青年は優しく語りかけた。
お姉ちゃんの方はルティという名前らしい。
青ざめた顔で、それでもルティは頷いてみせた。
「きみ、そこの青い瓶を取ってくれ」
わたしの顔も見ずに青年が言う。
言われるまま棚の扉を開け、青い薬瓶を手に取った。
背後でびりびりと布が裂ける音がする。
振り向くと、血まみれになったルティのシャツを青年が両手で力任せに破っているところだった。
「何してるんですか!?」
「傷口を縫合するんだよ! 早く消毒薬を!」
「は……はい!」
迫力に圧されて素直に薬瓶を差し出す。
受け取りながら、青年は早口で名乗った。
「僕は医者だ、名前はデニス。きみは?」
「あ、アリッサです」
「よしアリッサ、次はそこにある緑色の瓶を取って。あと机の上の木箱、それに鋏も!」
「はいっ」
矢継ぎ早にとんでくる指示に、夢中で体を動かす。
「きゅー」
ポシェットの中のポンポンが鳴いた。
かわいそうに、わたしがあんまりくるくる動くので酔ったらしい。
「ごめんねポンポン、ちょっとここにいて?」
診察台の隅にのせてあげると、お腹を見せてひっくり返る。
デニス先生は鮮やかな手つきでルティの肩の傷を縫い合わせていった。折れた脚には添木を当てる。無駄のない動き。
「おねえちゃん、よかったね。デニスせんせいがなおしてくれるよ」
ベッドの向こう側で、カティがルティに話しかけている。
「カティは大丈夫か? どこも痛くないか」
「うん! ルティおねえちゃんと、大きいおねえちゃん……えっと、アリッサがたすけてくれたの。カティはね、いっしょうけんめい走ったの!」
「そうかカティ、偉かったな。ルティもよく頑張った」
ベッドの上のルティが、うっすらと微笑んだ。
「……あたし、この子のお姉ちゃんだもん」
ずきん、と胸が痛んだ。
(……わたしも、そう思ってた)
わたしは、お姉さんだから。
リズラインは、たったひとりの妹だから。
どんなことがあっても守らなくちゃ。助けなくちゃ。
どんなに嫌なことをされても、我慢しなくちゃ――そう思ってた。
「きみもね、アリッサ」
「え?」
名前を呼ばれて我に返る。
デニス先生が、はじめて真正面からわたしを見ていた。
「とても勇敢だった。誰にでもできることじゃない」
わたしも改めて、目の前にいる彼を観察した。
黒い髪に、深い琥珀色の瞳。年齢はシルヴィオさんと同じくらいに見える。
髪はくしゃくしゃに乱れ、シャツも汚れているけれど、佇まいには清潔感が漂っていた。お医者さんという彼の職業柄だろうか。
「ほめてもらったね。うれしいね!」
カティがにっこり笑いかけてくる。
反対にデニス先生は気まずそうに唇を噛み、頭を下げた。
「さっきは乱暴な物言いをしてごめん。子供たちを助けてくれて、ありがとう」
「そんな、わたしは何もしてません」
「ねー、さっきね、ふしぎなことがあったんだよ」
カティが口をはさんだ。
「不思議なこと?」
「なんかおちてきたんだけど、ばーんって」
「バーン?」
デニス先生が首を傾げる。
「そう、アリッサといっしょにいるときね、屋根のかけらが、ばーん!って。カティびっくりしたの、この子も見てた」
カティに指をさされて、ポンポンが体を起こす。
(あら?)
見慣れたポンポンの姿に、なんだかちょっと違和感がある気がした。
よく見ようと目をこらしたとき、
「先生! 怪我人だ、診てくれ!」
大声とともに中年の男性が駆け込んできた。
彼の腕には、頭から血を流した少年が抱き抱えられている。
「おおぜい怪我してるんだ、頼むよ」
「先生助けて、うちの子も……!」
いつのまにか廊下には人々が列をなしていた。小さな子供の姿も目立つ。
「わかったよ、落ち着いて。みんな僕が診るからね」
デニス先生は迷わず怪我人を室内へ促す。
最初の患者をベッドに寝かせた彼が、申し訳なさそうにこちらを振り向き、囁いた。
「アリッサ、悪いけど手伝ってくれないかな? 簡単な補助作業でいいから。もともと僕ひとりでやっている診療所なんだ、手が足りない」
切羽詰まった表情のデニス先生。
助けを求める人々。
断るなんて選択肢は、なかった。
「お手伝いします。わたしでよければ」
「ありがとう。助かるよ」
デニス先生が嬉しそうに微笑んだ。
「さっそくだけど、さっきと同じ消毒薬を。それと棚のいちばん上の新しい包帯を取ってくれ」
「はい!」
薬品棚を開けると同時に、また轟音が建物を揺らした。
窓の外の空を、有翼虫型の魔獣が身をよじりながら落ちていくのが見える。
わっと人々が沸いた。
「やった、最後の一匹を退治した!」
「さすが王立騎士団だ!!」
「先頭で戦ってるのはリーンフェルト隊長だって! やっぱり凄いよ!」
シルヴィオさんのことだ。
名高い魔法騎士である彼。国民からの信頼も厚いらしい。
落ち着きを取り戻しつつある患者さんに、デニス先生が呼びかける。
「みんなお願いだ、重傷者に順番を譲ってあげて。全員必ず手当てするから」
「はいよ、次はこの子をお願い!」
列の中から、粗末な身なりの少年が運び出されてくる。
頭部に傷を負っているようだ。恐怖と混乱で泣きじゃくっているけれど、親の姿は見当たらない。
目線の高さを合わせて、語りかける。
「もう大丈夫よ。先生が診てくださるわ」
「……うん」
男の子はうなずき、わたしに抱きついてきた。小さな体が震えている。
「そうやって抱いてあげて。子供にとっては安心することが第一の治療だから」
デニス先生が言う。
「安心が、第一の治療……」
「その子をベッドへ。まずは止血だ」
「わかりました」
シルヴィオさんのことが、気がかりだった。
彼の身に、もしものことがあったら。考えただけで胸が潰れそうになる。
『戦うことで、きみを守らせてほしい』
そう言ってくれたひと。
わたしが無事に屋敷まで帰り着くことを、いまも案じてくれていると思う。
……でも。
目の前に、傷つき、助けを求める人がいる。
たったひとり、彼らを受け止めようとしているお医者さんがいる。
(今は、ここを離れられない)
男の子の手当てが終わると、すぐにまた別の小さい子が運ばれてきた。
次もまた子供。その次は大人の怪我人。
みんな不安そうな、すがるような瞳をしている。
次々にやってくる患者さんたち。
デニス先生の指示を夢中でこなしているうちに、窓の外はすっかり暗くなっていた。