2.ちいさな「ともだち」
『アリアテッサ。それ、ちょうだい?』
目の前で両手を差し出している、小さな女の子。
幼い日のリズラインが、目の前にいた。
透けるような銀髪は太陽の光を弾き、奪うべきものをみつけた瞳は、いつにもまして輝いている。
「え……」
口ごもるわたしも、幼い姿に戻っている。
見下ろす手の中には、白い花冠。
野の花を摘み、長い時間をかけてやっと編み上げたものだ。
つい今しがた完成したばかり。まだ一度も自分の髪に載せていない。
『まって、リーズ。少しでいいから……』
『アリアテッサのいじわる! いま、ほしいの!』
リズラインが大きな声を出す。
少し離れたテラスでお茶を飲んでいた母が、すごい形相でこちらを振り向いた。
『アリアテッサ! リーズに何をしたの!?』
『お、おかあさま……わたし、なにも……』
射るような眼差しで睨まれて身がすくむ。
その隙に、リズラインの手が、わたしの指先から花冠を素早く奪い取った。
『あ……!』
『ありがとう。だいすきよ、おねえさま』
にっこり微笑んで、リズラインが背中を向ける。
駆けていく後ろ姿を見ながら、心の中でため息をついた。
(ああ、また……)
いつものことだ。
妹は、わたしの持っているものを何でも欲しがる。
普段から、わたしよりずっとたくさんのものを与えられているのに。
両親の愛も。美しさも。それに、不思議な力だって……。
『みてみて、おかあさま! これリーズがつくったの!』
『まあ、きれいな花冠。上手に出来たわね。可愛いリーズによく似合うわ』
花冠を被ってクルクルまわってみせるリズラインに、母はとろけるような笑顔を向ける。
もともと感情の起伏の激しい性格の母。
常に何かに怒っているのに、自分の思い入れのあるものに関してはとことん甘い。
その傾向は、彼女にとっての双子の娘・わたしとリズラインの姿が乖離しはじめてから更に顕著になった。
わたしにとっては厳しく恐ろしい人だけど、妹には優しい聖母だ。
『うふふ、すごいでしょ! アリアテッサにも貸してあげていたの』
『偉いわね、リズライン』
誉められることが大好きな妹。彼女はいつだって簡単に、綺麗な嘘をつく。
その嘘を見破る人はいない。疑う人さえも。
だって、リズラインは「特別な子」だから。
そしてわたしは、彼女と違って、なにも持っていないから――。
「……きゅ?」
手に持ったバスケットの中から、かすかに鳴き声が聞こえた。
残っていた花の下で、大人の拳くらいのサイズの物体がもぞもぞ動く。
やがて小さな動物が顔を出した。
ネズミを思わせる尖った鼻先。赤色の毛に覆われた丸っこい体。
ガラス玉のようにつやつや光る黒い目がふたつ、じっとこちらを見上げている。
「……だいじょうぶよ、ポンポン。こんなこと慣れているもの」
声をひそめて、わたしは話しかけた。掌に乗るほど小さな「ともだち」に。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦
頬に触れる、ふわふわの感触。
「ん……ん」
少し体を動かすと、頬のふわふわとは対照的な、堅い石の感覚が背中に甦る。
(……いまのは、夢?)
現実のわたしは、地下牢にいた。
聖女の殺害を企てた罪で投獄されてから、何日が経っただろう。
尋問も、裁判もない。
時間の感覚さえも溶けかかる中、冷たい壁に寄りかかって、いつのまにか眠ってしまっていたらしい。
(ずいぶん昔の夢を見たのね)
あれはたぶん、六歳の夏の記憶。
今になって、あんなにも前のことを思い出すなんて。
重たい瞼を上げると、くりくりした黒い瞳と至近距離で目が合った。
「……ああ、ごめんね、ポンポン。心配してくれたの?」
わたしの肩によじのぼって、もふもふの毛に埋まった鼻先を押し当ててくる小さな生き物。
子供のころから一緒にいる、赤いハリネズミみたいな姿の「ポンポン」だ。
ポンポン、って変な名前?
でも、初めてこの子を見たときに浮かんだ言葉なの。
毛糸でつくった飾りみたいに、小さくて丸い。だから、ポンポン。
赤いハリネズミなんて見たことない?
うん、わたしもポンポンの他に見たことがない。
正直にいうと、わからない。ポンポンがなんの動物なのか。
ポンポンを見た人は例外なく「変な生きもの」だって言うし。
顔や体はハリネズミそっくり。だけど尻尾が妙に長い。
はじめて庭でポンポンをみつけたとき――たしか、わたしたちが五歳になるかならないかの頃だった――リズラインは悲鳴を上げたっけ。
「なにこれ、気持ちわるい! アリアテッサ、はやく捨ててきて! やだ、お部屋に入れないでってば!」
思ったことはなんでも口にするリズラインに、当時からあまり逆らえなかったわたしだけど、その言葉にだけは従うことはできなかった。
「でも、この子……怪我してるよ」
お腹に傷を負い、体を丸めて苦しそうに息をしていたポンポン。
手当をしたら、みるみる元気になった。
怪我が治ったあと、自然に還そうと何度も森へつれていったのに、ポンポンはわたしにくっついて離れない。
そうこうするうちに離れがたくなって、一緒に暮らすことにしたのだ。
「そんなきたないハリネズミを飼うなんてバカみたい。正気とはおもえないわ」
リズラインは動物が嫌いだ。
ましてや見慣れない外見のポンポンには嫌悪感さえ抱いていたようで、一度たりとも触ろうとしなかった。
思えばポンポンを家に入れたことも、わたしたちの隔たりを加速させる一因になったかもしれない。
だけど、心から思う。
あのとき、ポンポンを捨ててしまわなくて本当によかった。
すっかり変わってしまったわたしのそばに、ポンポンだけは変わらず寄り添ってくれているんだから。
罪人となって投獄された、今日このときも――。