19.魔獣の襲来
突風が吹き、思わずテラスの床に突っ伏した。
テーブルや椅子が音を立ててひっくり返り、体の横を勢いよく転がっていく。
吹き荒れる風の中、ついさっきまでの平和な景色は一変していた。
あんなに晴れていた空が、インクを捲いたような黒雲に覆われている。
強風に翻弄される人々の上を、大きな影が翻った。
(あれは……ゆうべ見たのと同じ魔獣!?)
信じたくなかったけど、見間違いじゃない。
夜の森でわたしたちを襲った有翼虫型の魔獣だ。
こんな街なかに現れるなんて……!
ムカデのように長い躰が上空で蜷局をまいている。
しかも四体も。昨日の個体より、ずっと大きい。
「こっちに来るぞ!」
「逃げろ、逃げろ!!」
怒号が響き、カフェのお客さんたちが我に返って動きだした。
「ポンポン、つかまってて!」
小さな体をギュッと抱きしめ、わたしも立ち上がった。
「あっ」
ほんの二、三歩で、突風に背中を突き飛ばされる。
床に倒れたところへ、一体の魔獣がテラスめがけて滑降してくるのが見えた。
怖いのに。
恐怖で目を閉じることもできない。
(もうだめ……!)
目の前で、唐突に白い閃光が爆ぜた。
生木を裂くような鳴き声とともに、魔獣の片翼がはじけ飛ぶ。
「アリッサ!」
シルヴィオさんがテラスの階段を一足跳びに駆け上がってきた。手には鞘から抜かれた長剣が握られている。
「アリッサ、大丈夫か? 怪我は!?」
「だ、だいじょうぶです……シルヴィオさん、後ろ!」
半身を失くした魔物が背後から襲いかかってくる。
振り向きざまにシルヴィオさんが長剣を一閃した。
ふたたび周囲が鋭く光り、魔獣の躰は今度こそ、どうと音をたてて地面に落ちた。
「隊長、さすが!」
叫びながら走り寄ってきたのはハンスさんだ。彼の手にも剣がある。
強風の中、シルヴィオさんがわたしを庇うように膝をついた。
「ひとりにして悪かった。俺としたことが油断した」
「僕も謝ります、アリッサさん! くそっ……これから警備を強化しようってときに!」
ハンスさんの言葉に悔しさが滲んでいる。
上空を飛んでいた残りの魔獣たちが、地上すれすれを飛び始めた。
巨大な尻尾が建物の屋根にぶつかり、路上に破片が降り注ぐ。
近づいてきた魔獣へ向けて、シルヴィオさんが一撃を浴びせた。
頭を砕かれた黒い巨体が、通りの向こう側へと落下していく。
「ハンス、防御の陣を!」
「わかりました! でも僕ひとりで作れる防御じゃたかが知れて……」
「いいからやれ!」
「ハイやりますっ!」
シルヴィオさんの言葉を受けて、ハンスさんがテラスから飛び降りた。片手を地面につく。
短い詠唱が聞こえたあと、ハンスさんの体の左右の地面に一瞬にして光の線が走った。
線に沿って、氷の壁が空へと立ち上がる。
魔獣が空中で壁にぶつかり、耳障りな咆哮を発した。
「できるじゃないか、ハンス」
「これでもプレスターナ一の魔法騎士長の副官なんで! けど、今日はめちゃめちゃ調子がいいみたいです!」
さっきまでとは打って変わって、ハンスさんの言葉には自信が漲っている。
「みんな、こっちへ!」
シルヴィオさんの呼びかけで、あてどなく逃げ惑っていた人々が次々と氷壁の内側に走りこんできた。
氷のように見える透明の壁は、魔獣だけを跳ね返す防御魔法の盾なのだ。
「シルヴィオ隊長、攻撃のほうはお願いします!」
「任せろ、残らず仕留めてやる」
シルヴィオさんが頷く。
そして、ぐい、とわたしの体を助け起こした。
「逃げろ、アリッサ」
「え!?」
「俺はここでハンスと一緒に魔獣を駆除する。きみは屋敷まで走るんだ。方向はわかるな?」
「は、はい。でも」
シルヴィオさんは……?
わたしの気持ちを読んだのか、シルヴィオさんは不敵な微笑みをこちらに向けた。
「大丈夫、すぐに騎士団の応援が来る。俺は誰も死なせない。きみのことも、自分のこともだ」
「シルヴィオさん……」
「隊長! 援護してください!」
苦しそうなハンスさんの声。
振り向くと、残った魔獣が二匹、防御壁に体当たりを繰り返している。
「一緒にいられなくてすまない、アリッサ。戦うことできみを守らせてほしい」
シルヴィオさんがわたしの手を握る。
離れたくない、と思った。
この危険な場所に彼を残していきたくない、と。
でもそれは、シルヴィオさんを困らせることになってしまう。
無力な自分が悔しい。悔しくて仕方ない。
もしわたしが聖女なら――妹のリズラインみたいに聖なる力をもっていたなら。
彼を護り、助けることができるかもしれないのに。
ただ無力に、祈ることしかできないなんて――。
シルヴィオさんの大きな手を、思わず両手で握り返していた。
「シルヴィオさん。どうか、ご無事で」
「ああ。きみに言われると、力が湧いてくるよ」
シルヴィオさんが微笑み、わたしの背中を押す。
こみ上げる熱い塊を無理やり飲み込み、せめて大きく首を縦に振って見せた。
泣いている場合じゃない。
今できる最善の行動は、無事にこの場を離れることだ。
「行くわよ、ポンポン」
ポシェットに入たポンポンを、落とさないようにしっかりと胸に抱きしめる。
震える心を奮い立たせて、わたしは全力で走り出した。