18.偽装婚約、はじまる
シルヴィオさんの顔が安心したように綻んだ。
「承知してくれるか。ありがとう。誰かに身元を尋ねられたら俺の遠い親戚だと答えておいてくれ。苗字は……そうだな、エルツェ。アリッサ・エルツェと名乗るのはどうだ」
「あー! いたいた、シルヴィオ隊長!!」
急に大きな呼び声がして、シルヴィオさんの視線が逸れた。
通りの向こうで軍服姿の男性が手を振っている。
人混みの中でも目立つ、鮮やかな赤毛の若者だった。
「お知り合いですか?」
「部下だ」
シルヴィオさんが苦い顔で答える。
そのわずかの間に赤毛の若者は通りを横切り、カフェのテラス席へと軽やかに駆けあがって来た。
拳を胸にあてて綺麗な敬礼をする。
「やっと見つけましたよシルヴィオ隊長! 休日に申し訳ありません、お屋敷へお迎えに上がったら街へ出られたとお聞きしまして……あ、あれっ!?」
早口でまくしたてていた彼の瞳が、やっとわたしを認識する。
そばかすの残る顔に、明らかな動揺が走った。
「たた、隊長! たいへん失礼をいたしました! まさか、まさか隊長が女性とご一緒とは想像も及ばず……!」
「本当に失礼だな。だが、いい機会だから紹介する。彼女はアリッサ・エルツェ。俺の婚約者だ」
(もう始まった、偽装婚約!)
シルヴィオさん、本気なのね。本当に婚約者設定で行くのね!?
「婚約者!? 隊長、いつの間に!!」
若者の声が裏返る。
「つい最近だ。彼女が求婚を受け入れてくれたので我が家に迎えた」
「そ、それは、おめでとうございます! ちっとも知りませんでした、隊長にそんな方がいらしたなんて……いや、それにしてもビックリしたぁ……!」
「アリッサ、これはハンス・グラスール。俺の副官だ。こう見えて普段は優秀な男なんだが」
「こう見えては余計です!」
ハンスさんは不満げに異を唱えたけれど、シルヴィオさんの言いたいこともわからないではなかった。
ふわふわの赤毛に、肌にはそばかす、人懐こい雰囲気。
シルヴィオさんより明らかに年下だし、長身だけど軸の細い体は少年のようだ。軍服を着ていなければ、もっと若く見えると思う。
「よろしくお願いします、アリッサ・エルツェです」
なるべく言葉少なに礼をしてみせた。
襤褸を出さないためにも、シルヴィオさんのリードに任せよう。
「それで、何の用だ」
尋ねられたハンスさんの顔が引き締まる。
「はっ、そうでした! 隊長、急ぎの伝達がございます。本日夕刻より緊急の軍議が開かれることになりました」
「……そうか。早いな」
「はい。隊長のご報告を受けての軍議となります」
わずかに困惑のにじむ表情で、ハンスさんがわたしを見た。部外者に聞かせたくない話があるのだ。
「わたし、外しますね」
「いや、きみはここにいてくれ。俺は外でハンスと少し話してくる」
腰を浮かせたわたしを制して、シルヴィオさんが席を立った。
「申し訳ありません、アリッサさん。すぐに済みますので」
ハンスさんも小さく頭を下げる。
連れ立ってテラスの階段を降りていく二人。幾人もの女性客が彼らの背中を見送っているのがわかった。
ひとりになったテーブルで、ふっと息を吐く。
目の前のカップの中には、うすい琥珀色に透き通ったハーブティーが、まだほとんど減らずに残っていた。
二人が話しているのは、昨夜の魔物出現についてだろうか。
とても気になるけれど、わたしが聞いていい話じゃない。
それに。
「……アリッサ・エルツェ」
ちいさく呟いてみる。
さっき決まったばかりの、わたしの名前を。
通りの上にひろがる空では、虹の輪郭が背景の青に滲みかけていた。
消えていく虹のかわりに明るさを増す日差し。雨上がりの澄んだ香りが、空気を満たしはじめている。
(……消えたっていい。わたしの過去も)
双子の妹。
両親。
かつての婚約者。
濡れ衣を着せられて投獄されたこと。
命を奪われそうになったこと。
故郷で起こった出来事のすべて。
ぜんぶ、捨ててかまわない。
ここで生き直すことができるなら。
聖女の付き人アリアテッサでなく、ひとりの人間、アリッサとして――。
「キュ!」
膝の上にいたポンポンが、ひと声鳴いて、いきなりテーブルの上に飛び乗った。
「あ、だめよポンポン!」
急いでポシェットの中に戻そうとしたけれど、ポンポンはめずらしく言うことをきかなかった。それどころか、外の方向を向いて体じゅうの毛を逆立てている。
「どうしたの? いつもいい子なのに……」
ダルトアにいる時から、お店などではポンポンを外に出さないようにしていた。嫌がる人だっているし、第一、それがマナーだから。ポンポンだって、普段はちゃんと言うことを聞く。
ハーブティーのカップが、カタカタと小刻みに揺れだした。
「な……なに? 地震?」
揺れはどんどん大きくなり、テーブルや椅子までが音を立てて動き始める。
「ポンポン、来て!」
がたんとテーブルがはずみ、カフェのお客さんたちが悲鳴を上げた。ポンポンが胸にしがみついてくる
びりびりと空気が震えた。
胸騒ぎがする。ただの地震じゃない。
(この感覚……まさか)
日差しが急に陰った。
何か巨大なものが上空を横切ったのだ。
ふくらむ悲鳴の中から、誰かが叫ぶ声が聞こえた。
「逃げろ! 魔獣だ!!」