番外編2.雨上がり、虹のほとり
夏ですね。ということで、今回は少し不思議なお話を。
第二章が始まって間もないくらいの頃の出来事。
主人公アリッサの一人称です。
走るわたしの靴の下で、ひと足ごとにバシャバシャと水が撥ねあがる。
診療所からの帰り道に降り出した雨は、ますます強くなってきた。
いつも賑やかな聖堂前広場も、いまは殆ど人影がない。
「ポンポン、大丈夫?」
「きゅ!」
腕に抱いたポンポンに声をかければ、意外と元気な返事が返ってくる。
体はポシェットに入って顔だけ出した状態とはいえ、そもそも傘がないから、わたしと一緒に雨に打たれているのだ。
乗合馬車の停留所まで走り抜けるつもりだったけれど、とっても無理。このままじゃ、ポンポンが風邪をひいちゃう。
「大聖堂で雨宿りさせてもらいましょう」
石畳の広場を突っ切って、大聖堂の石屋根の下に走りこむ。
ほっと息をつくと、ポシェットの中から出たポンポンが肩に登ってきて、うーんと伸びをした。
「ごめんね、ポンポン。あなたまで濡れ鼠にしちゃって」
「きゅきゅぅ」
いいよ、いいよ!
そんなふうに言われたと感じるのは、気のせいかしら。
「とりあえず、ここにいれば雨を凌げるわね」
雨音に包まれた石造りの大聖堂。
外壁には聖獣や聖女の姿、それに、たくさんの天使の彫刻が施されている。どの顔も穏やかで、とても美しい。
アーチ型の屋根の端から見上げる空は、灰色の厚い雲に埋め尽くされていた。
しばらく雨は止みそうにない。朝は晴れていたのに、嘘みたいだ。
「……神様、雨を降らせてくださって、ありがとうございます」
手を組んで言葉に出せば、ポンポンも「きゅう」と声を合わせる。
そう。今朝、わたしは朝のお祈りで「雨が降りますように」とお願いしたのだ。
最近やや雨不足だと、市場の人たちが困り顔で話しているのをよく聞いた。
菜園の野菜に元気がないと嘆いていたリーンフェルト家の料理人ユストさんは、今ごろ雨に打たれながら歓喜のダンスを踊っているかも。
「すごいわ。こんなに早く祈りが届くなんて奇跡みたい」
「きゅう」
「今日はシルヴィオさんがお邸にいらっしゃる日だから、早く帰れたら、もっと良かったけれど……そこまで望むのは贅沢というものよね。小降りになるのを待つわ」
「きゅっ!」
ポンポンが鳴いて、わたしの頭に飛び乗った。
見てて、と言わんばかりに胸を張り、小さな翼を一生懸命に広げる。
「……ポンポン、まさか傘の代わりになろうとしてくれてるの?」
「きゅ!」
「気持ちは嬉しいけど、さすがに無理よ!」
思わず吹き出した自分の声に、別の笑い声が重なった。
同じ軒下の少し離れた場所に、身なりの良い女性がひとり立っていた。
貴婦人が外出に使う長い外套を羽織っている。
抑えた色味の装い。でも、フードの縁にあしらわれたレースやリボンのついた靴が、彼女の若さを物語っていた。
服が濡れていないところをみると、雨がひどくなる前からこの場所にいたのかもしれない。
「騒がしくして、申し訳ありません」
わたしが謝ると、細い体が僅かにこちらを向いた。
「気にしないで。かわいいわね、あなたのお友達」
フードを目深に被っているせいで、彼女の目元は見えない。
それでも、形の良い唇に微笑みが浮かんでいるのはわかった。
「きゅー」
女性に向かって、甘えるようにポンポンが鳴いた。
初対面の人に対しては警戒心が強いのに、めずらしい。可愛いって言われて嬉しくなっちゃったんだろうか?
くすくすと女性が笑い声をたてると、肩が揺れ、胸へと流れる長い髪の毛も揺れた。
……艶やかな金色。
シルヴィオさんの髪の色に似ている、と思った。
「わたし、傘を持たずに出掛けてしまったの。あなたも?」
女性が問いかけてきた。優しい声。
肩へと降りてきたポンポンを腕に抱き抱えながら、わたしは首を横に振った。
「わたしは傘を持っていたんですけど……人にあげてしまったんです」
「あげてしまった?」
首を傾げる彼女に、わたしは、ついさっきの出来事を素直に話した。
朝、わたしは願掛けの意味も込めて、傘を手にリーンフェルト邸を出た。
だから家路の途中で大粒の雨が降り出しても、動揺することなく傘を広げて、乗合馬車の停留所をめざしていたのだ。
その途中で、傘を持たずに歩く幼い兄妹と行き合った。
半分べそをかいている小さな女の子と、びしょ濡れになりながら自分の上着を脱いで妹を庇う男の子。
そんな二人の姿をみて、わたしは思わず、手に持っていた傘を差し出してしまった――
「まあ。それで、あなた自身は濡れてしまって、ここで足止めというわけなのね。いくらなんでも人が良すぎるのではなくて?」
驚きを含んだ声で、金色の髪の女性が言う。
「いいんです。わたしは大人ですし、こうして雨宿りの場所も見つけられましたし。でも……」
言いながら、下を向く。
「でも、なあに?」
「子供たちに渡した傘は、わたしのものではないんです。ある方が、ご厚意で持たせてくださった傘でした。それを勝手に他人に譲ってしまって……謝らないと」
見知らぬ兄妹に手渡した傘は、シルヴィオさんから与えられたものだった。
この国にやってきて間もない頃、何も持っていないわたしのために、服や靴といっしょに新調してくれたのだ。
シルヴィオさんとの偽装婚約の期間が終われば、わたしはリーンフェルト家を去る。
そのときは身ひとつで出ていくと決めているのだから、あの傘だって、わたしが好きに扱ってはいけなかったはずだ。
金色の髪の女性が、口もとに片手を当てる。笑ったようだった。
「大丈夫。そのひとは、あなたの行いを誇りに思うわ。良いことをした、って言ってくれるはずよ」
「そうでしょうか」
「ええ。わたしが保証する」
言い切ったあと、彼女は、また前方へと顔を向けた。
薔薇色の唇から微笑みが消える。
「……ずっと、思っていたの。あのとき、雨さえ降らなければ、って」
短い沈黙のあと、ぽつりと彼女が呟いた。
「雨が降って、わたしは大切な人を悲しませることになった。彼の時間まで止めてしまったの」
雨音に掻き消されそうな声で、続ける。
「時間を、止めた……」
「ええ。止まない雨の中に置き去りにして、差し出す傘もなくて。また笑ってほしいのに、遠くから願うことしかできなかった。長いあいだ」
懺悔にも似た言葉が湿った空気に溶けていく。
彼女の表情は見えない。なにを、どんな過去を思い出しているのか、わたしにはわからない。「彼」が誰を指すのかも。
深い悲しみと悔恨だけが伝わってきた。わたしのほうが泣きたくなるような。
どうしたら、彼女の心の雨は止むのだろう。
彼女の「大切な人」に降る雨も……。
「わたしに、できることはありませんか?」
わたしの言葉に、彼女は少し驚いたようだった。
白い顎が僅かに上向いたのを見て、重ねて尋ねる。
「不躾にごめんなさい。事情も存じ上げませんし、わたし、本当に無力で……そう、今は傘も持っていないですけど、少しでもお力になれたらって。何かありませんか?」
彼女の横顔に、ふたたび微笑みが浮かんだ。
「ありがとう。もう充分よ。あなたのおかげで、わたしの想いは伝わったの」
……どういう意味だろう?
伝わった、って、誰に?
雨の音が変わった。
地面にまで響くような轟音から、さらさらと流れるような優しい響きへ。
「明るくなってきたわ」
金髪の女性が、空を見上げて嬉しそうに言う。
不思議なことに、あんなに激しかった雨が急に止みつつあった。
雲が切れ、太陽が顔を出す。
まだ少し残る雨の中、放射線状に降り注ぐ何本もの光が、空と大地を繋いで輝きはじめた。
彼女の細い右手が前方を指し示す。
「見て。天使の階よ」
大聖堂広場の石畳の上に、金色の光の柱が現れていた。
雲の切れ間から地上へ太陽光が一直線に射す現象を「天使の階」と呼ぶ。
天地に架かる階段のように見えることから、幸せが訪れる前触れという人もいる光景だ。
「本当に空と繋がっているみたい……」
思わず漏らした呟きに、彼女は大きく頷いた。
「時間だわ。わたし、もう行くわね」
横顔の口もとに笑みを浮かべて言い、光のほうへと彼女が踏み出す。
金色の髪に、雨の雫が宝石のように跳ねた。
「でも、まだ雨が」
「大丈夫。もうじき止むから」
答える彼女の視線の先で、天使の階が、よりいっそう強く眩しくきらめいた。
光の輪の真ん中で振り向き、歌うように彼女が言う。
「ねえ、楽しみにしていて。雨上がりには空から贈り物が届くの。悲しみに俯いた人が、もういちど顔を上げられるように」
目深に被っていたフードが、はらり、と少女の肩に落ちた。
逆光の中、その顔立ちは、はっきりとはわからない。
それでも、はじめて視線が合った。
澄んだ緑色の瞳。まっすぐで優しい眼差し。
「ごきげんよう、アリッサ」
「えっ? どうして、わたしの名前……」
彼女を追おうとしたとき、背後から別の声が聞こえた。
「アリッサ!」
振り向くと、長身の人影が足早に近づいてくるところだった。
雨除けの外套を着て右手で傘を差し、左手にはもう一本、別の傘を持っている。
「シルヴィオさん!?」
「会えてよかった。迎えに来たんだ、帰りが遅いから心配で」
傘を閉じながら、シルヴィオさんがアーチの下に入ってくる。
外套の裾が濡れている。わざわざ歩いて、わたしを探してくれたんだ。
「そんな……雨が降っていたのに」
「雨が降っていたからさ。ひとりで心細かっただろう?」
「いいえ、ひとりじゃ」
ありませんでしたから、と続けようとして振り向いたわたしは、思わず口をつぐんだ。
(……いない)
ついさっきまで確かに一緒だったのに。
天使の階とともに、雨宿りの女性の姿は幻のように消えていたのだ。
雨は止んでいた。
大聖堂の上には青空が広がり、石畳に残った無数の水溜りが空の青さを映してきらめいている。
「アリッサ? どうかしたのか」
怪訝そうなシルヴィオさんの声。
「……なんでもありません」
「さあ、帰ろう。もう傘は必要ないな」
傘、という言葉に、ハッと思い出す。
「あの……わたし、シルヴィオさんにいただいた傘をなくしてしまいました。さっき会った幼い子供たちに譲ってしまったんです。ごめんなさい」
「謝らなくていい。あれはきみの傘だ。良いことをしたね」
あの女性が言ったとおりの言葉でわたしを誉めたあと、シルヴィオさんは「きみらしいよ」と微笑んだ。
ふたたび広場を振り返ってみる。
やっぱり、あの女性の姿はない。
「きゅー、きゅー!」
ポンポンがシルヴィオさんの肩に乗り、上を見ながら何事か訴えるように鼻を鳴らした。
「ん? どうした、ポンポン」
シルヴィオさんが頭上を振り仰ぐ。
はっとしたような表情のあと、彼は笑顔になって空を指さした。
「アリッサ、見てごらん。虹だよ」
雨雲の消えた空に、いつのまにか七色の光の橋が架かっていた。まるで大聖堂を起点に立ち上がっているみたいに。
「大きな虹……」
「ああ、すごいな。こんなに近くで虹を見たのは初めてかもしれない」
シルヴィオさんが目を細める。
彼の横顔を見ながら、あのひとの言葉を思い出していた。
『雨上がりには空から贈り物が届く。
悲しみに俯いた人が、もういちど顔を上げられるように』
虹のほとりで出会った不思議な少女。
金色の髪、澄んだ緑色の瞳。
きっと、彼女は……
「……ね、シルヴィオさん。わたし、大聖堂で天使に会ったんです。シルヴィオさんに似ていました」
「面白いことを言うね、きみは。俺に似た彫刻でもあった?」
楽しそうにシルヴィオさんが笑う。
そして再び虹を見上げ、「綺麗だな」と呟いた。
若葉のような緑の瞳が、陽光を映して明るく輝いている。
(……贈り物、届きましたよ。ソフィアさん)
雨上がりの道を歩きだしながら、心の中で空に向かって語りかけた。
見守るように空を彩る虹の下、隣には笑顔のシルヴィオさんがいる。
お読みいただき、ありがとうございました。
「元・付き人令嬢の偽装婚約」は、ただいま書籍化に向けて準備が進んでおります。
詳細が決まり次第またお知らせしますので、お心の片隅に留めておいていただけましたら嬉しいです。
ときどき番外編も投稿していく予定です。
どうぞよろしくお願いいたします。




