10.真夜中の優しいディナー
屋敷に入るとすぐ、エイダさんはわたしを別室へ促し、汚れた顔や体を拭いてくれた。
森でつくった引っ掻き傷も、手際よく手当してくれる。
「お着替えをどうぞ」
そう言って着替えさせてくれた室内用のワンピースとガウンは、手触りの良い絹だった。
どちらも長袖。手足の傷が隠れるデザイン。同じ女性ならではの心遣いが胸に沁みる。
次にエイダさんは、大きな鏡台の前にわたしを連れて行き、座らせた。
「簡単に結いましょうね。それにしてもアリッサ様、お綺麗な髪ですこと」
「……き、れい?」
わたしの髪が?
「ええ。深い色も素敵です。次はちゃんと時間をかけて整えさせていただきますからね。今から楽しみですわ」
思わず視線をちらりと上げて、鏡に映る自分を見た。
乳白色のワンピースに身を包み、サイドの髪だけを結い上げた姿。
ヘアスタイルは可愛いけれど、栄養不足で毛は傷んでいるし、色は相変わらず赤茶けて冴えない。
……冴えないと、思ってた。
きっとお世辞だと思うけど、それでも。
「醜い」「気味が悪い」と言われ続けてきた髪を褒めてもらったのは、大きな驚きだった。
背後に立つエイダさんが、鏡越しに笑いかけてくる。
その目がわたしの膝の上の布袋へと滑り、まるく見開かれた。
「きゃ、動いた!?」
布袋から顔を出しているポンポンに気づいたのだ。
「ごめんなさい、わたしが飼っている……ハリネズミなんです」
「まあ、ハリネズミ? ちょっと変わった色に見えますけど、かわいい。なんていうお名前ですの?」
「ポンポン、です」
「まあ、この子にぴったり!」
エイダさんが笑ってくれたので、安堵して息を吐く。ひとまず彼女はポンポンに対して過剰な嫌悪感はないようだ。
「お疲れになったでしょう? 元気を出すには美味しいものを召し上がるのが一番です! どうぞこちらへ」
長い廊下を歩き、アーチ型の入り口を入った先には、明るく開けた空間が待っていた。
頭上にシャンデリアが輝く広い食堂。
楕円の食卓は、ゆうに二十人分はセッティングできそうな大きさ。
食卓にも椅子にも硝子製のモザイクが施され、美しいグラデーションを描いている。
そこに、私服の白いシャツに着替えたシルヴィオさんが待っていた。
わたしの姿をみとめて、少し驚いたような顔をしたあと、柔らかい微笑みを浮かべる。
「なんだか見違えたな。違う女性が入ってきたのかと思ったよ」
「……」
いまの「見違えた」は、「土や埃の汚れを綺麗に落とし、服装を整えてきた」の意味だ。
わかっていても、ちょっとドキドキしてしまう。
「少しは落ち着いたか? 疲れているだろうが、何か食べた方がいい」
うまく言葉を返せないわたしに気を悪くする様子もなく、シルヴィオさんは椅子を引いてくれる。
テーブルには既に何種類ものパン、バターや蜂蜜などが並んでいた。
ガラスの器の中で艶々と光る色とりどりのジャム。甘い香りが忘れていた食欲を刺激する。
「きゅー」
エイダさんが貸してくれたレースのポシェットの中で、ポンポンが鼻を鳴らした。「ごはんちょうだい」の声だ。
席に着くと同時に、料理人用の白衣を着た若い男性がワゴンを押しながら部屋に入ってきた。
ひょろりと背が高く色白で、料理人というより文学青年みたいな雰囲気だ。
「これは我が家の料理人のユスト。ユスト、彼女はアリッサだ」
「……ようこそ」
シルヴィオさんの紹介に、とても小さな声が返って来た。
礼も、ほんの一瞬。ユストさんはすぐにまたワゴンに向かう。
(ちょっと気難しそうな人……かな?)
運ばれてきたのは、大きな銀色の両手鍋。
蓋が持ち上げられると、湯気と一緒にブイヨンのいい香りが立ちのぼった。
「どうぞ」
お皿に注いだスープをシルヴィオさんとわたしの前にそれぞれ置き、にこりともせずにユストさんが言う。
「さ、アリッサ様もお召し上がりくださいませ!」
エイダさんにも促され、
「……いただきます」
わたしはスプーンを手に取った。
「……美味しい」
琥珀色の液体をひとくち味わったとたん、思わず声が出た。
「だろう? 俺はユストは天才だと思ってるよ」
シルヴィオさんが言えば、
「もうちょっと愛想があれば最高なんですけどねー」
エイダさんが茶化す。
ユストさんは唇の端を少し上げただけで、頭を下げて退出していった。
平然としているようで、その横顔は、ちょっと嬉しそうだった。
変わってるけど、いい人そう、かも。
エイダさんが銀の小皿を持ってきて、空いている椅子の上で鼻をひくひくさせているポンポンの前に立つ。
「アリッサ様、この子にパンをあげてもよろしいですか?」
「はい。なんでも食べますから」
「きゅ!」
「よかったわね、ポンポン。エイダさん、ありがとうございます」
ポンポンがぺこりと頭を下げるような仕草をして、パンの欠片を食べ始める。
「か、可愛い……!」
エイダさんが悶絶している。
わたしも嬉しくなって、またスープを口へと運んだ。
(考えてみたら、きょう初めての食事だわ)
鶏肉と野菜、シンプルなだけど具だくさんのスープ。
単純なようでいてお肉も野菜もやわらかく、ハーブの香りも効いている。胃に負担をかけず、疲れを和らげるような。
ユストさんがシルヴィオさんのために用意したレシピは、なるほど遠出から帰った夜には最適のひと皿だった。
ユストさんのスープは思いやりに満ちた味がする。
だからきっと、こんなに美味しいんだ。
(さっきまで死の淵にいたのに、夢みたい)
また涙がこみ上げそうになって、一生懸命に堪えた。
優しいスープの温かさが、疲れた体に染みわたっていく。