八月二十一日 Another D
殴りつけるような暴風がネイビーキャットの巨体に容赦なく絶えぬ雨粒をぶつける。視界が最適化されたコクピット内では車のフロントガラスのように水がへばりつく様は邪魔なものとして映像処理され、まるで自分だけを雨粒が避けているような不思議な光景へと変わる。
「完全に台風だな……」
ゲリラ豪雨かとも思ったが、レーダーとにらめっこしたり上空を見ている間にやっと台風だと気付いた。
去年までは台風なんて気象庁がしつこいくらい教えてくれたのに、今じゃここまで近づかないと予兆を感じ取れないのだから、人工衛星や気象レーダーが出来る前の人間の暮らしは大変だっただろうとしみじみ思う。
一応ガイストの巨体は何ヘクトパスカルだか知らない台風の風をモロに受けても大きな影響はない。マサト曰く普通は巨体の方が風の影響は強い筈だが、コーティングが上手く雨風を弾いているのと、ガイスト自身のオートバランサーが優秀なのが要因だろうという。雷の直撃も耐えられるらしいので驚きだ。
「……雷?」
空からはゴロゴロと不吉な音が鳴っている。
台風が来ているのだから雷雨くらいおかしくはない。
しかし、ふと雷と聞いて疑問を覚えた。
――ターミネイターは電気に優先的に反応する。
静電気や生体電位は別として、ターミネイターは従来式の発電方法で継続的に電気を発生させるとおびき寄せられるように集まってくる。では、雷はどうなのだろう。今のところ空を飛ぶターミネイターは見たことがないが、雷は自然発生する電気の中でも強力なものだ。これだけ継続的なら集まってくるかもしれない。
「考えたこともなかったな。今まで雷が鳴ったことはあったけど、ターミネイターが反応してたかなんて覚えてないぞ……急に不安になってきた」
今はB級ガイストのおかげで大抵のターミネイターには負けないし、勝てなくても逃げ切れる。しかしこの台風の環境下では僅かながら悪影響があることは否めない。長年人の管理がされていない家の一部で屋根が剥がれる光景を見ながら、なるだけターミネイターやガイストの襲撃に対応しやすい場所に移動し、そこでネイビーキャットを休止状態にする。マサトに倣ってレーダーだけは展開したままでだ。
場所はちょっとした高台。
視界は良好であり、どこからガイストが来ても即座に対応出来る。
それでいて目視で発見されにくい傾斜と隙間に機体を収める。
あとは台風が通り過ぎるまでの数時間、じっとしているだけ。
こんな時は不安や退屈で何かをしたくなるが、焦る程に良くない出来事を呼び寄せることもある。鞄の中からサバイバルのハウツー本を取り出し、少しずつ読み進めることにする。
本に熱中しすぎず、本に飽きて眠らないように。
ちょこちょこ、ちょこちょこ。
最初、この読み方はかなりの苦痛だった。熱中も出来ず、寝ることも出来ない生殺しを自分の強いるからだ。しかし、熱中しすぎてアラートに気付かずターミネイターの砲撃でガイスト頭部を吹き飛ばされた経験と、途中で寝て目が覚めたら歩哨ターミネイター袋だたきにされて損耗率が60%だった経験――この二つが「絶対集中力を切らすな」という鉄の自分ルールを形成してくれた。
今更だが、マサトが自分をインディー・ジョーンズと呼ぶのも分かる。
こんな洒落にならない失敗をしておいて死んでないのは奇跡だ。
暴風と豪雨、雷の気配が段々と存在感を増していく中で読書を続け、一時間ほどが経過した時だった。
レーダーに反応が出た。
しおりも挟まず本を後ろの鞄に放り込み、レーダーに注視する。
反応は歩哨クラスのターミネイター。
「はぐれの雑兵か……にしては、変だな」
ターミネイターの反応は同時三方向から一点に集結するかのように動いている。もしや基地建造の瞬間だろうか、と息を飲んだ。ターミネイターの基地建造については建造途中は見たことがあるが、建造開始の瞬間は見たことがない。
マサトにいい土産話が出来るかもしれない、と不安に混じって微かな好奇心が湧くが、その刹那、レーダーに映る反応が爆発的に増加していく。10、20、50、130、300……戦闘の歩哨の後ろに百鬼夜行の如く膨大なターミネイターが付随し、周囲の光景が黒に浸食されていく。5m級、10m級、果ては20m級まで合流し、もはやこの周辺全ての基地のターミネイターが集結しているかのようだ。
既に大規模拠点複数個分の戦力が集結しているのに、更に数は増えている。
「俺、呪われてんのかな……」
十七日のあの時、シャングリアの少女ミノリの誘いに乗れば良かったという激しい後悔が心のどこかで渦巻く。そうすれば少なくとも自分はここにいなかっただろう。無論、たらればの話をしても仕方がない。
これは基地建造ではない。
むしろ黙示録、この世の終わりだ。
最初に反応があった時点で逃げておくのが正解だったかとも思ったが、幸いにしてこの集団の集結地点はこちらからある程度距離があり、まだ気付かれてもいない。レーダーの優位もある。逃走は間に合う。
焦って動かず、落ち着いて相手の動向を見極めなければ。
ばくばくと鳴る心臓を必死に落ち着かせ、黙示録の結末に目をやる。
ターミネイター達は特に何もない一点に集結していく。
木々、家、あらゆる邪魔な物体を薙ぎ倒して集結した奴らは、もう1000体近くの群体となっていた。群体は20m級のターミネイターを中心に蟻のように這い上がり、連なり、重なり、まるでバベルの塔でも模すかのように高く、高く、天を目指す。やがてその高さは周囲のビルを追い越し、周囲の鉄塔をも追い越し、複雑に絡み合った即席構造物は高度100mに達した。
その形状はどこか教科書で見たことのあるオベリスクに似ているように感じた。
「これが全部敵だと思うと悍ましいことこの上ないな……悪趣味なオベリスクだ。こんなに高くなっちまって、落雷怖くねぇのかよ……なさそうだな。恐怖とか」
もしかして彼らは雷の渦巻く雷雲を目指しているつもりなのだろうか。飛行機能もないのに空を目指すなんて滑稽な話だ。彼らは黒いオベリスクとなった時点で動きを止め、それ以上は動く気配がない。
今、奴らはこの周辺の何よりも高い位置にいる避雷針だ。
少なくともこちらよりは落雷が直撃する確率が遙かに高い。
なら精々、あのオベリスクが雷に打たれて崩れる所でも見物させてもらおう、と肩の力を抜く。落雷は既にいつ発生してもおかしくなく、奴らも突風と豪雨で微かに揺れている。
しかし、ふと揺れを見ていて気付く。
バランスを崩して揺れているというより、あの動きは自ら力を分散するために揺れているかのようだ。そういえば、と過去の退屈だった歴史の授業を思い出す。有名な建造物である五重の塔や法隆寺は、敢えて建物が揺れる構造にすることで揺れのエネルギーを分散して耐えられる設計になっているのだという。
「計算された設計になってる……? まさかな……」
つまり、ターミネイターたちは決められたプログラムの不具合か何かで勝手に群がってきたのではなく、最初からここに自分たちの身を捧げた塔を建てる為に必要な数を揃えてきたのではないのか。それはつまり、彼らを統率する上位の意思決定が存在することすらも意味するのではないだろうか。
「試してみるか……?」
ターミネイターの優先順位や指揮系統、目的を知るためにあの黒いオベリスクを攻撃して反応を伺うのは一つの手だ。少なくともターミネイターの行動パターン解析の参考になる。しかも今なら土台になっている20m級ターミネイターのミサイルが完全に味方を巻き込む姿勢になっている。
ただし、代わりにレーザーは容赦なく飛んでくる可能性がある。
防御力の低いネイビーキャットに直撃すれば確実に死ぬ。
しかし、葛藤している間にも時は進み、最高の瞬間は物に出来ないまま通り過ぎる。ガイストの出力を上げようとした瞬間、稲光がターミネイターたちの黒いオベリスクに直撃し、閃光が周辺を白く照らした。
ガイストのモニタが一瞬白に包まれるかと思いきや、ほんの少し明るくなった程度でモニタに影響はないし、モニターが焼き付く事態も起きてない。システムが上手く処理したようだ。
しかし、それだけに目の前の異常事態は克明に見えてしまう。
雷の電力がターミネイターで構成されたオベリスクの中を渦巻き、その光とエネルギー量が増加していく。循環する力はやがてターミネイターたち個々を融解させるかのように中心部の光に吸い込んでゆき、大型のターミネイターさえ形が崩れていく。
最後に、本当にモニタが見えなくなるほど爆発的な光が一瞬放たれ、黒い塔は跡形もなく消え去った。代わりに、その中心部に紫電を放つ黒く巨大なキューブのようなものが出現していた。
この一年、一度たりとも見たことがない物体だ。
異様さに気圧され、思わず固唾を呑む。
キューブは虚空に暫く留まった後、びしり、と罅割れる。
中から突き出てきたのは、この世にあらざる存在を思わせる漆黒の手。
キューブの亀裂は加速し、あちこちが砕け、中からタールのように黒い液体が溢れ、滴る。やがて亀裂が完全にキューブを覆い尽くし砕けたとき――そこには『何か』がいた。
のっぺりとした、人のような輪郭をしたそれは、ガイストに匹敵する巨体。
それはゆっくりと動き、体表面が次第に硬化していき、装甲めいたものが内から形成されていく。ある場所は絞まり、ある場所は肥大化し、ある場所は鋭角的に。昆虫が蛹から出た後のように、その身が構造として完成されていく。
全高及び推定重量、標準的ガイストとほぼ同じ。しかし、この黒い何かは機械というより生物的で、まるで血管のように真っ赤な筋が全身のあちこちを駆け巡り邪悪な燐光を放つ。
頑強でマッシブな四肢。
体の要所要所から突き出した鋭利な装甲。
一目で分かる――これは、闘争を求める意思が生み出すカタチだ。
何よりも印象的なのが、その目に該当する部分。
そこには、明確な意思を感じさせる黒目があった。
眼前の敵を滅せよ、己の理に飯する者を滅せよ――そのために汝は存在せよと、誰かに望まれて生まれたような、そんな目だった。
真っ赤な燐光の中にぽつんと浮かぶその目が、ぎょろり、とこちらを向く。
「~~~ッ!!」
声にならない悲鳴を上げて出力を一気にコンバットまで引き上げ、イナーシャルシールドを展開する。同時に刎ねるように機体を後方へむけて跳躍させた。
単なる偶然かもしれない目配せ一つ。
それでも、一瞬に籠められた濃密な死の気配に、体が反応してしまった。
結果として、それは正しかった。
次の瞬間、B級ガイストでも最高の敏捷性を誇るネイビーキャットの速度に敵は一瞬で肉薄し、速度を全て乗せた蹴りを叩き付けた。がくん、とコクピットまで伝わる強烈な衝撃と共に機体が軽々と後方に吹き飛ばされる。
「くあ……ッ! あああああああ!」
咄嗟に空中で体を回転させてマニピュレータで地面を引っ掻き、吹き飛ぶ方向を無理矢理曲げる。すると、先ほどのまま機体が吹き飛んでいたらいたであろう空間に赤黒い閃光が通り抜けた。
あの黒い奴だ、と、本能的に感じ取った。
ネイビーキャットの柔軟な足腰と軽量さが幸いして体勢を立て直すと、敵は速度を出しすぎて止まれなかったのか地面を深く穿つ形で足を止めていた。弾けた土や道路の破片がばらばらと飛び散る。ブレーキで足が擦った痕は余りの摩擦熱に焼けて煙が出ていたが、その火の手は台風がかき消した。
煙の立ち上る地の中から、またあの瞳がこちらを見る。
自らの手にかかる哀れな生け贄を探す、悪魔の瞳。
「悪魔、デーモン、ディアブロ……ターミネイトD」
決めた、あれはターミネイトDと呼称する。
あれはターミネイターの中から生まれてきた。
だからあれもまたターミネイターなのだろう。
少しゲーム的な考えだが、解釈出来ずに悩んでいる間に殺されるよりはいい。
ターミネイターが進化したとでも言うのか。
余りにも不出来な冗談だが、問題はその冗談が目の前に存在し、我が身が危険に晒されている点だ。
「……来るッ!!」
ターミネイトDが身を屈めたのを見て即座にステップを踏んで移動すると、またターミネイトDが突進してきた。今度は突進しながら腕を広げている。何のつもりかと戸惑った刹那、信じられない光景を目の当たりにした。
今まで何の変哲もなかったターミネイトDの手に、突如として腕の内側を突き破って鋭利な爪のようなものが出現したのだ。
予想外の事態に回避が間に合わず、イナーシャルシールドの隅を裂いた爪はネイビーキャットの脇腹付近の装甲を鋭く切り裂く。
「ガッ……どういう原理だよッ!! しかもこの速度、下手したらエッカルトの突進より速いんじゃねえの!?」
理不尽な現実を目の当たりにして、声が荒くなる。知識にある限り直線の加速ではAランク最速のエッカルトを上回る踏み込みなど、冗談ではない。しかもあの敵は、こちらの行動を読んで攻撃方法を変えてきた。同じ反応をしたら次こそ殺される。
咄嗟に多目的ライフルを量子展開してサブマシンガンモードに切り替え、再度突っ込んでくるターミネイトDにフルオート射撃する。ターミネイトDの爪を躱す為に今度は跳躍して躱すが、ターミネイトDのクローは先ほどより伸びており、もし先ほどと同じ回避方法をしていれば確実に深く抉られていた。
「そういう装備じゃなくて、お前の気まぐれで変形させられんのかよ……!!」
分析の結果、あの爪は超高速で振動するヒートクローらしい。
叩付ける雨粒がヤツの爪に当たり、湯気へと変わっていく。
しかし、今し方反撃によってダメージは与えた。
フルオート射撃を正面からモロに受ければ大抵のガイストは唯では済まない。
ターミネイトDの躯体は――。
「……冗談ッ!!」
目を逸らしたい現実に、悲鳴のような言葉が漏れる。
傷がついていなかった訳ではない。
確かに罅割れのような損傷や弾痕はあった。
問題は、その損傷がみるみるうちに塞がっていくことだ。
「幾ら多目的銃の威力が劣るからって、それは反則だろぉッ!?」
思わず抗議の声を上げるが、勿論聞き入れては貰えない。
それどころかターミネイトDは更なる変化を起こす。左腕が肥大化して長方体に変形し、その先端に風穴が空いた。ターミネイトDはその穴をこちらに向け、同時に穴の奥にエネルギー反応が検知される。
ぞくり、と背筋が凍り、即座にその場を飛び退く。
瞬間、その穴から連続してエネルギー弾が射出された。
威力は推定でもこちらのライフルの三倍。
直撃すればイナーシャルシールドでもいなせなかったかもしれない。
――勝てない。
自己再生能力、攻撃力、反応速度のどれをとってもA級ガイスト並かそれ以上。おまけに学習能力持ち。この相手とこれ以上戦えば負ける。かといって、速度負けしているのでは逃げ切れない。
ターミネイトDの射撃が続き、走って避ける。
行き場を失った弾丸が大地を爆ぜさせていく様を見ながら、身構える。射撃で相手の動きを制限し、突撃で捉える気だと思ったからだ。しかし、予想に反してターミネイトDの射撃は奇妙だった。
「なんだ……?」
何故、連続発射が可能なのに薙ぎ撃ちをしないのだろう。
一回一回こちらに照準を合わせ、銃口を固定し、発射。それの繰り返しだ。余りにも機械的過ぎて全くこちらに攻撃が当たらない。実に奇妙な動作だった。
手を抜いているのか――いや、ターミネイターにそんな人間的思考があるとは考えがたい。ではなぜしないのか。いや、そもそもあのターミネイトDは最初の一撃こそ効いたが、よく考えれば余りにも行動パターンがお粗末だ。
直進による突撃ばかりでブレーキもまともにかけられない様。
射撃武器も使い慣れているようには見えない。
射撃武器を出したのもこちらが射撃を行った後だ。
「こいつまさか……俺の攻撃を模倣して銃を作っただけで使い方までは正しく理解出来てない? そもそも戦い方を知らないのか……?」
しかし、だとすれば辻褄は合うのかもしれない。
恐らく、ターミネイトDは生まれたばかりで学習期間中なのだ。
今、あれはネイビーキャットを見ながら、自分のすべき行動や必要な武器を判断して一から戦闘方法を構築している最中なのだ。試しにそのまま遠ざかる動きをしてみると、ターミネイトDは暫く狙いの甘い射撃を繰り返したのち、銃をやめて両腕をクロー型に変形させると最初の突撃方法に戻った。
足捌きは先ほどより更に巧妙になっているが、相変わらず格闘戦のような概念は感じられず、スペック頼みの突撃ばかりだ。確かにクローの切れ味を考えれば一撃でも当たれば良いのだろうが、創意工夫や経験は感じられない。
だとしたら――勝てなくとも逃げることは出来るかもしれない。
毎度おなじみの博打にはなるが、少なくとも残りの武器であるタレットと超振動ブレードを使っても倒しきれず模倣されるよりは幾分かマシだろう。
「地形データ、目標地点……良い場所があるじゃねえか!」
即座にネイビーキャットを操り、突撃してくるターミネイトDを行動パターンを少しずつ変えて躱しながらある場所を目指す。目的地は台風によってたっぷり増水し、濁流が荒れ狂う川の上にかかる大きな橋だ。
動きが単純なターミネイトDは、予想通り疑う素振りも見せずに川に接近し、ネイビーキャットが踏み込んだ橋の上にまで猛進してきた。これで作戦の第一条件はクリアだが、依然命懸けであることに変わりはない。
狭い橋をネイビーキャットの紺と、ターミネイトDの黒と赤が乱れ舞う。
一度でもミスをすればそこから全て食い破られる、死の舞踏だ。
しかし、目的を見据えて行動すると不思議と集中力が研ぎ澄まされていく。
先ほどから注意深く観察して気付いたが、ターミネイトDの直進加速はブレーキのかけ方が段々と上達しているようだ。それに伴い、足場の悪い場合は加速の速度もある程度は距離を鑑みて制限されている。
出現してすぐの頃であれば橋の上で戦闘しても加速しすぎて橋から落下していただろうが、今はそうはならないだろう。ターミネイトDは、ネイビーキャットに釣られて橋の縁に向けて加速した場合、機械的なまでに落ちないよう縁で停止する。
たとえそこがネイビーキャットの格闘戦の間合いであろうと、落ちまいと止まってしまうのだ。
誘導は成功。一度も格闘戦を仕掛けられていないからか、或いは高い防御力と再生能力を過信してか、ネイビーキャットにとって絶好のカモとなる場所でターミネイトDは急停止を仕掛けた。
殺意に溢れつつも未熟な悪魔に、紺色の猫が吠える。
「悪いけど、俺は生き残りたいだけで戦いは嫌いなんだ。じゃあな」
ネイビーキャットがその場でしゃがみ、曲げた膝を伸ばす際の瞬発力を利用してターミネイトDを橋の外に蹴り飛ばす。高い走破能力はつまり高い脚力である。更に、落ちゆくターミネイトDにサブマシンガンモードの多目的銃を構え、容赦なくフルオートで斉射した。
ターミネイトDにもガイスト並のスラスター推進は出来るのかもしれないが、今までの学習速度からして咄嗟には使えない筈。そして仮に使えたとしても、回避困難な状態で銃撃を浴びせられては上手く使えない筈だ。虚空を駆け抜ける無数の弾丸がターミネイトDの体を抉り、装甲を砕いていく。
ターミネイトDは、奸計に嵌まった屈辱をも殺意に昇華したような眼光をぎらつかせながら、為す術なく濁流に呑まれた。水柱が高く立ち上り、川の流れと共に遠ざかっていく。
しかし、その後を確認したり感慨にふける時間はない。
ネイビーキャットを操り、最大速度でその場を逃げ出す。
如何にガイストでも台風の中では動きが鈍る。
ではたっぷり増水した河川の濁流に呑まれれば、もっと鈍る筈だ。
水の質量は凄まじい。あれほど高性能な存在なら遅かれ早かれ抜け出すだろうが、それまでに川の中で上手く姿勢を修正できず絶対に時間を浪費する筈だ。そのタイムラグを利用して、ターミネイトDの検知能力で発見されない距離まで全力で逃げる。それが考えつく限り唯一の作戦だった。
逃げる、逃げる、大地を蹴って逃げ続ける。
逸る想いが視線を何度もレーダーに向かわせる。
本来は正面を警戒するところを、背後ばかり確認していた。
でないと、あの川に落下したターミネイトDの目がすぐ背後まで迫っているかもしれないという恐怖を和らげる事が出来なかった。これで駄目だったならば自分は確実にあれに殺される。全ての抵抗を糧とされ、最後は用済みの絞り滓として始末される。
恐ろしい、本当に恐ろしい。
何かに取り付かれたように、それから半日もの間、疾走を続けた。
集中力が限界を迎えて休憩しながら日記を書くときも逃げ切れた自信がなく、その日は食事も喉を通らず、眠ることさえ出来なかった。




