月下
「どうだ、上手くやっているか?」
それは、ボクの行動を見透かしているかのような一言だった。グィド・ジルラー。
夫人の不機嫌くらいは伝わっているとしても、書庫での出来事までは知らないはずなのに。上手くやっているか、だって? やってないよ、全然!
夫人は相変わらずボクと侯爵様との仲を疑っているし、どういうふうに噂が伝わっているか分からないけど、他の召使いたちの視線が痛いし。ちょっとでも夫人の機嫌が悪かったりすると、全部ボクの所為みたいになってるし。クラーニアまで「ちゃんと奥様に謝った?」なんて訊いてくるし。
肩身が狭いなんてもんじゃない!
「その様子では、あまり上手く立ち回っていないようだな」
「どうしてお分かりになるのです?」
「顔に書いてある」
そんなはずはない。ボクは、いつもと変わりなく振る舞っている。
ほら、今だって余裕の微笑みだ。大丈夫。表情を読まれたりはしていない。ジルラーは、ボクを試しているだけなんだ。
ボクの正体も、見破られたりはしない。疑われるような行動は取っていないはずだから、たぶん大丈夫だとは思うけど、その鋭い眼差しに射貫かれると、何もかも見透かされているような気分になる。どうしよう、やっぱり苦手だ。
「そうやって――」
ジルラーが個人的にボクを呼び止めるだけでも、傍から見れば、依怙贔屓だ。どういうつもりでジルラーがボクを構うのか知らないけど、ほっといて欲しい!
ぽむ。擦れ違いざまに、軽く頭を叩かれた。あれ?
何が起こったのか理解できないまま、遠ざかる足音だけを聞いていた。笑い声が聞こえてきそうな、乾いた足音だった。
ジルラーが、ボクの頭を、叩いた。なんで?
ボクの努力が報われたのか、はたまたジルラーの「ぽむ」が効いたのか、その晩またしても、侯爵様と二人きりになる機会を得た!
ボクは、こっそりと庭に出て、十六夜の月を眺めていた。暁矛にいた頃は、よくユヒラお姉様とお月見をしていたからね。ボクが竪琴を弾き、お姉様が笛を吹く。ボクが歌い、お姉様が舞う。そんな夜を、ボクは思い出していた。ちょっと感傷的に。
僅かに欠けた月は、物思うには優しい光だ。
池の畔に建てられた東屋で、ぼんやりとしていたら、草を踏む音が近付いてきた。
「おや、先客か」
「ラン=シー様!」
僥倖、と言える瞬間だった。
月明かりに照らされた彼は、息を呑むほど素敵で、ボクは見惚れた。
ボクの騎士。そんな言葉が頭の片隅をよぎる。彼がボクの騎士なら、どんなに素敵だろうか。
「ここは私だけの穴場だったのだが」
いつになく柔らかな表情を見せ、侯爵が近寄ってきた。
誰が見ても特等席だと思うんですけど、穴場?
「申し訳ありません」
ボクは召使いで、相手は侯爵様。さすがに同席は不味いから、ボクは立ち去ることにした。名残惜しいけど。
「構わないから、ここにいなさい。折角の月夜なのだから」
立ち上がろうとしたボクを制して、侯爵も腰を降ろす。ちょうど向かい側の席に。
今宵の侯爵様は、優しそうな顔をしている。その眼差しの先には、紛れもなくボク。月ではなく、ボクを見つめているの?
瞳に囚われることが、こんなにも甘美だなんて。
どうしよう、侯爵様しか見えない。瞬きすら、忘れてしまう。
早く目を逸らさないと、まばゆい光に焼き尽くされてしまう!
月だ。月の優しい光で、瞳を洗えばいい。ボクは、頭の中で必死に命令した。月を、見るんだ。
ボクは、未練を断ち切るようにして、目を逸らした。
「月が恋敵では、とても私の敵う相手ではないな」
ちょっと、何を言い出すの、もう!
ドキッとした、なんてもんじゃない。思わず、また彼の方を見てしまった。もう、やられた。
鼓動が早い。顔も熱い。月明かりくらいでは分からないと思うけど、顔が赤くなっていると思う。ほら、ボクって色白だから、そういうの目立っちゃって。
「旦那様」
「ラン=シーで良い」
「はい、ラン=シー様。今のは、もしかしたら戯れでしょうか?」
恐る恐るという感じで訊いてみた。真意を確かめるのは、ちょっと怖い。でも、聞き流せない言葉だから。
優しい微笑み――ではなく、苦笑い? やっぱり「戯れ」だ!
「そう聞こえたか?」
「はい」
「では、そうしておこう」
侯爵――ううん、ラン=シー様と呼ぼう。そのラン=シー様の顔から笑みが消えた。
もしかして、受け答えを間違えた? もっと甘えても良かったの?
ラン=シー様という人が、いまいち掴めない。ボクのこと、少しは気に掛けてくれているような気はするけど、たまたま近くにいるから、という程度のことかも知れないし。
さっきまでの甘い雰囲気は何処へ行ったのか、ラン=シー様は、もうボクを見てはいなかった。月が、ボクの恋敵だ。
仕方がないから、ボクも月を見る。それ以外にどうすればいいって言うの?
いつまでもラン=シー様を見つめているわけにもいかないし、席を立つなんて失礼だし、ボクから話し掛けるなんて、そんなこと出来るわけもないし。
沈黙。これがボクには苦痛だった。でも、慣れてくると、静かな時間も悪くない、と思えるようになってきた。
月明かりと、虫の鳴き声。そして、手のを伸ばせば届くところに――。
「少し歩かぬか?」
ラン=シー様が、ボクを見ていた。何を考えているか分からない、不思議な瞳で。
ボクは微笑みを湛え、こう答える。
「はい」
ラン=シー様がボクを特別に思っているかどうかは分からないけど、少なくともボクは特別な時間を過ごしている。それで今は充分だ。
ラン=シー様が東屋を出て、ボクもそれに続いた。
星が降る。手を伸ばせば、数百の星くらいは掴み取れそうな、溢れんばかりの星空だ。
少し前を行くラン=シー様の、影を踏んでみる。背中。隙だらけだった。
もし今、懐剣を持っていたら、急所を突くことも可能に思えた。どうして、こうも無防備なの?
リュノック屈指の勇将と言われているようだけど、どうも信じられない。隙は、ある。
試しに、手を伸ばしてみた。ほら、触れられる。と思ったら、ラン=シー様が立ち止まった。あわわ。ボク、何やってんだろ。
振り向いたラン=シー様が、ボクの手を握る。大きくて、力強い手だ。引っ張られた。手を繋ぐ形でラン=シー様が歩き出したから、ボクも従うしかなかった。でも、その強引さが嬉しかったりする。
たぶん、舞い上がっていたんだと思う。状況が全く見えていなかった。
「私から離れるな」
ラン=シー様の緊迫した声が、ボクを現実に引き戻した。誰か、いる。
背中を撫でられるような、気色が悪い気配。殺意に満ちた風が、背後から吹き抜けた。
ラン=シー様が早足になった。ボクも合わせる。
まさか、ラン=シー様を狙う刺客? でも、どうして? ボク以外にもラン=シー様を狙っている人間がいるの?
ラン=シー様が横に動いた――次の瞬間、風を切り裂く音がした。たぶん、矢だ。
繋いだ手から何かが伝わってきて、ボクも少しは反応できたから、転ばずに済んだ。
「ラン=シー様」
呼んでみた。名を、呼んでみたかった。
「心配は要らない。其方は私が守る。走れるか?」
「はい」
裾が邪魔にならないように、左手で持ち上げる。右手は、ラン=シー様の左手と繋がっている。駆け出した。
こんなときだけど、わくわくしてる。相手がラン=シー様だから?
ボクが暢気なことを考えている間にも、追っ手が迫ってくる。ボクの足が遅いからだ。
ラン=シー様がボクを守ってくれるなら、ボクもラン=シー様を守る。ラン=様はボクの獲物なんだから、横取りされるわけにはいかない!
それに、ここで彼に死なれたら、ボクの命もないと思う。
ボクは、信じることをためらわなかった。ボクを導く大きな手が、決して裏切ることはないと素直に信じられた。信じて、走った。月明かりに照らされた、幻想的な道を。
池に架けられた細い橋に差し掛かったところで、ラン=シー様が速度を緩めた。どうやら迎え撃つ場所を決めたらしい。足手まといになるボクを背後に隠せば、心置きなく戦える、ということかな。たとえ素手でも、一対一の戦いなら絶対に負けない、という自負もあるんだと思う。見えてない矢が交わせるくらいだから、見えていれば手で掴み取れるんじゃない?
ボクも、小太刀の腕には自信があるけど、そんな領域には踏み込めなかった。せいぜい飛礫を交わすとか、その程度だ。
刺客が追い付いてきた。思わず振り返ったボクを、ラン=シー様が引っ張った。
「もう少しだ」
橋の真ん中まで来たところで、ラン=シー様の足が止まった。二人で振り向くと、刺客はすぐ近くまで迫っていた。
「おやおや、逃げるのはもうおしまいかい」
左手に弩を持った男が、短めの剣を抜き放った。
素手のラン=シー様は、どう見ても不利。それでもラン=シー様は、ボクを庇うようにして前に出た。
「心配ない。すぐ終わる」
「へぇ、そりゃいい。聞いたか、相棒!」
相棒? ボクは咄嗟に振り向いた。新手。いた。
強すぎる殺気が、もうひとつの気配を隠していたんだ。
「ラン=シー様」
演技なんかじゃない、本物の不安が、口を突いて出た。
「案ずるな。其方だけは守る」
ラン=シー様の力強くも穏やかな声が、ボクを勇気付ける。
でも、ボクは聞き逃さなかった。ラン=シー様は、「其方だけは」って言った。それ、どういう意味?
こうしている間にも、もうひとりの刺客がじりじりと詰め寄ってくる。迷っている暇はない。どうする?
周りは水。池に飛び込めば、ボクだけは助かるかも知れない。でも、それはラン=シー様が食い止めてくれることが前提だ。そうなったとき、ラン=シー様が助かる可能性は限りなく低い。ダメだ。他の作戦を考えよう。
せめて、相手がひとりなら。
そうだ。ひとりに減らしてやればいいんだ。
ここで手柄を奪われるくらいなら、一か八か勝負を懸けてみる。ちょっと危ない橋だけど、渡ってみせようじゃないの。
勝機は、相手の油断だ。
「ラン=シー様。これから何が起ころうと、目の前の敵に集中なさってください。決して振り向かないで」
背中合わせのラン=シー様に、ボクは囁いた。
本当は、抱き付いて感触を確かめたかった。でもそれは、次の機会に取っておく。
ミコト。微かに聞こえた。ボクの名を呼ぶ声が。
ボクは駆け出した。もうひとりの刺客に向かって。
先に現れた濁声の刺客とは対照的に、不気味な静寂を纏う男だった。こっちの方が、怖い。相手を間違えたかも知れない、という思いが脳裏を掠めたけど、もう遅い。ボクは、なるべく取り乱した振りをして、男の前に駆け寄った。
「お願い、命ばかりは――」
これは賭けだ。相手の油断を誘うために、わざと隙を見せる。斬られる危険性ははらんでいるけど、奴が、一瞬でもボクを利用したいと考えたら、勝機は生まれる。リュノック屈指の勇将と謳われる、デュミール侯爵の腕前を知っていれば、ボクを人質として利用したくなるはずだ。そういう読み。
さあ早く、今のうちに動いて。ボクは、祈る思いでラン=シー様を見遣った。隙も作った。斬り掛かられたら、たぶん今のボクには交わせない。
必殺の間合い。遣り過ごした。強靱な腕が、ボクを襲う。ボクは、左手一本で締め付けられてしまった。つまり、斬られなかった、ということだ。思った以上に力が強いけど、幸いにも剣は突き付けられていない。ボクの力を侮っている証拠だ。
「いや! 離して!」
演技。どれくらい動けるか、ちょっと暴れてみる。
「大人しくしろ。黙らねば殺す」
はい。大人しくします。だから殺さないで。お願い。なんてボクが言うと思う?
届いた。ボクは男の右手を押さえると、力任せに剣を振り下ろさせた。脚を狙って。
命中。この隙を突く。ボクは、男を巻き込む形で池に倒れ込もうとした。
男も踏ん張ったけど、ボクの頭突きが顎に命中すると、さすがに仰け反った。池だ。男と絡み合ったまま、ボクも落ちる。
「ミコト!」
沈む前に、ラン=シー様の声を聞いた。
ボクの身を案じてくれるのは嬉しいけど、その前にやることがあるでしょう。こっちは何もかも作戦どおりなんだから。
予定では、水中で男を振り払って脱出するはずだった。池に飛び込むつもりだったボクと違って、相手は息が保たないはずだから、すぐに水面から顔を出そうとするだろうと考えた。ところが、男はボクを放そうとはせず、尚も締め付けてくる。逃れられないなら、敢えて抵抗はしない。藻掻けば、先に息が切れる。こうなったら持久戦だ。
沈みながらも、ボクは冷静だった。上では、ラン=シー様が刺客を片付けた頃だろう。ボクのことなど気にしなければ、ラン=シー様なら勝てるはずだ。
池は、意外と深かった。上から見た池には月が落ちていたけど、水の中は真っ暗で、もう、どっちが上かも分からなくなっていた。
死ぬ、かも知れない。もし、ボクが死んだら、ラン=シー様は悲しんでくれるのかな?
ううん。悲しんでくれなくていい。生きて、また笑顔が見たい。生きる。絶対に。
ボクは、最後の抵抗を試みた。