不和
遂に訪れた。侯爵と二人きりになる、またとない絶好の機会が!
と言っても、これがちっとも艶っぽい話じゃないんだ。話を持ってきたのがジルラーだっただけに、初めから期待なんかしてなかったけど。
ジルラーが、「語学には堪能か?」と訊くから、ボクは「リュノックの言葉なら総て人並みには」と胸を張った。
リュノック連合王国では、大きく分けて四つの言語が使われている。リュノック語、尭矛語の他に、エダーム地方の言語とアーザルマ神聖語だ。ちなみに、アーザルマ神聖語は古代の神聖王国を発祥としているけど、今は俗語とも混じって、かつての美しい響きを殆ど残していない。思うに、リュノックでいちばん変な言語だ。
「古語は読めるか?」
「はい」
何しろ厳しい教育係だったから、語学に関しては徹底的に仕込まれたんだ。それが今に生きてくるなんて、思いもしなかった。
ボクが仰せ付かったのは侯爵の手伝いだ。朝から書庫に籠もりきりの侯爵を手伝って、本の整理をすること。簡単そうな仕事だけど、色気はないよね。
ひとまず今日は下調べ。侯爵の背後に立って、隙があるかどうか見極めてやる!
そんなわけでボクは、いつもの倍くらい意気揚々と、分厚い書庫の扉を叩いた。返事はなかったけど、鍵は開いていたし、早く侯爵に会いたいという思いもあって、中に入ることにした。
初めて踏み入れた書庫は、想像していたよりも凄いものだった。天井まで届きそうな本棚が壁のように聳え立っていて、右から左から圧迫感を覚える。ざっと見た感じ、王立図書館さながらの蔵書数だ。
侯爵の背中を発見! 周囲には山積みの本が雑然と並んでいる。手に持った本をパラパラと捲っては脇に避け、新しい本を手に取るという作業。そんな何気ない仕種でさえ優美だ。
逸る気持ちを抑えつつ、ボクはゆっくりと足を進めた。
「旦那様」
背後から声を掛けて、ボクは「あれ?」と思った。今だったら容易に殺れそうな気がしたんだ。
足を忍ばせてるわけでもないのに、まるでボクの存在に気付いていないような感じだった。もし今、懐剣を持っていたら、思わず抜き放っていたかも。
声に反応して、侯爵の手が止まる。
「其方、ここへ何しに来た?」
振り向いてくれないばかりか、拒絶とも取れる言葉。頼まれたから来たのに、それはないでしょ。と言いたいところだけど、
「旦那様のお手伝いに」
「其方に出来るのか?」
言いつつ、ボクを見遣る。まるっきり信用していない感じだ。
こうなったら意地でも役立ってやる。そして彼に分からせてやるんだ、ボクが如何に有能な召使いかを。
ボクの働きを見れば、嫌でも側に置きたいって言い出すはずだ。
「何なりとお申し付けくださいませ」
「では、そっちの棚から国別及び種類別に分類してもらえるか?」
そう言って侯爵が指差したのは、取り分け大きな棚だった。本の数は百や二百じゃない。これをボクひとりで分類しろって? この侯爵様は何を考えてんだか。
「ひとつお訊きしても宜しいでしょうか?」
「手短に頼む」
「このような雑事など、初めから私ども使用人にお任せくださいましたら――」
「其方は頭が良いのか悪いのか。ジルラーでさえ読めぬような文字を、飯炊き女が読めると思うのか?」
この侯爵様って、口が悪い。気取らない喋り方は好感が持てるけど、いちいち人を小馬鹿にしたような物言いをするんだもん。
夫人の前では凄く優しそうな感じだったけど、二人になると途端に冷たくなるなんて、性格が悪いとしか思えない。
顔はいいのに。家柄もいいのに。権力もあるのに。性格だけが悪い。
しかも、ボクの魅力には気付いてくれないみたいだし。古びた本にしか興味ないなんて、頭おかしいんじゃない?
「言い忘れていたが、暁矛に関する物は出来るだけ下の段に入れてくれ」
また妙なことを言う。どうして尭矛だけ?
訊いても教えてくれないだろうし、詮索すれば不審に思われるかも知れないから、素直に従うけどさ。従うけど――いったん作業を始めたら、ひとことも口を利いてくれないんだもん。ボクも、黙々と分類の作業を続けるしかなかった。
分類していて、ひとつ気付いたことがある。尭矛に関する書物が異様に多いんだ。
リュノック連合王国の中にあっては最小の、取るに足りない国――ではなく、重要国の扱いだ。ボクにとっては故国だし、魅力ある土地だけど、名門デュミール家の当主が、どうして執着するんだろう? デュミール家の所領が暁矛と隣接していることと何か関係があるのかな?
「ミコト」
不意に下から声がして、ボクは慌てた。そのときボクは、棚の最上段に本を納めようとして、梯子に登っていたんだ。下から声を掛けるの、やめて欲しい。
「はい」
もしかして休憩? そんな期待を抱きながらの返事だ。
「そんな高いところに登ると――」
侯爵様でも心配してくれるんだ――と思ったのに、言うに事欠いて、「中が見えてしまうぞ」って!
焦ったボクは、思わず裾を押さえてしまった。その瞬間バランスを崩し、身体が大きく傾いた!
左手には本。梯子を掴めない。落ちる!
落ちた。ただし、デュミール侯爵の腕の中に。
一瞬、何が起こったのか分からなかった。受け止めてもらえるとも思ってなかった。
事実。何処も痛くない。侯爵の顔が間近にある。
主観。彫像のように端整な顔立ちだ。
予感。このまま惚れちゃいそうな。
そして彼は、ボクを抱いたままで言う。
「済まぬ、戯れだ」
瞬間、ドキッとした。ほんの少し、彼の口許が綻んだように見えたから。その笑みは、ボクに向けられたと思っていいの?
見つめられていると思うと、どうしようもなく胸が高鳴る。胸を押さえて「静まれ!」って言いたいくらいに。
「立てるか?」
ゆっくりと降ろされて、地面に足が触れたけど、力が入らなくてボクは座り込んでしまった。そんなボクを支えるように、麗しの侯爵様が肩を抱いてくれる。
「怖い思いをさせたな」
思いの外、彼は優しかった。責任を感じてのことだろうけど、どんな形であってもボクは嬉しかった。その力強い腕に抱かれているという事実だけで、満たされていた。
この瞬間が永遠に続けばいいのに。そんなボクの願いも虚しく、二人だけの時間は不意の来訪者によって奪われてしまった。
侯爵夫人セライスタ――最も見られたくない人物に、どうやら今の場面だけを見られてしまったようだ。
「それは何の真似ですの?」
夫人でなくても、今のボクたちを見れば誤解するかも知れない。ましてや、夫人はボクと侯爵の仲を疑っている節がある。
顔にこそ出さないけど、ボクは焦っていた。だって、夫人の前だというのに、侯爵はボクの肩を抱いたままで、ちっとも離してくれないんだもん。しかも夫人に向かって言った台詞が、これ。
「其方を呼んだ覚えはないが?」
ああ、もう、どうして夫人の気持ちを無視するような言い方をするのかなー?
「わたくしはミコトに用があったのです。ブランドンの世話を頼みに来ましたの」
夫人は明らかに怒り顔だ。良家の出にしては喜怒哀楽が激しすぎるような気もするけど、それが魅力的でもある。少なくとも、ボクは嫌いじゃないな。
「済まないが、もう少しの間、ミコトを私に預けてくれないか? まだ片付いていないのだよ」
だから、そうじゃなくて、誤解を解くのが先でしょ!
どうして夫人の気持ちを察してやれないの?
「勝手になさいませ! ミコトはあなたに差し上げます!」
夫人は、苛立ちも露わに言い放つと、もう、その場に足を留めてはいなかった。足早に去っていく後ろ姿が寂しげで、見ているボクが泣きそうになる。
ボクが、夫人に代わって恨み言のひとつでも言ってやろうかと思ったけど、やめた。侯爵も、平然としているわけではなかったから。自分が何を言ったかは分かっている――そんな顔だった。
言われたとおり、ひとつの本棚の整理を終えると、ようやく息苦しい書庫からも解放された。夫人が去ってからは気まずくて。しかもボクは、夫人のことばかりを考えていたから、気が急いて作業に集中できなかった。それも、みんな侯爵が悪いんだ!
すっきりしないまま書庫から出ると、不幸にも今度はアルウィリアと出くわしてしまった。
「あなた、そこで何をしていたの?」
問いただすような口調。ボクが、悪いことをしていたみたいな。
「仕事です」
「うそ仰有い。私たちは書庫には入れないはずよ」
「そうでしたの? 私はジルラー様から仰せ付かっただけですから」
許可がなければ立ち入れない場所だとは聞いていた。ジルラーから。でも、気が立っていたボクは、つい挑発的に切り返してしまった。今は、お喋りしてる場合じゃないんだって!
「あなた、ジルラー様に贔屓されているようだけど、どんな手を使って取り入ったのかしら? 興味があるわね。私にも教えてくださらない?」
フフンと鼻で笑う感じ。彼女もボクのことを誤解してる。しかも嬉しくない方向に。
ボクがジルラーに贔屓されてるって? 本当にそうなら、理由を知りたいのはボクだ。
それに、どうせ誤解するなら、相手は侯爵様にして!
「御想像にお任せしますわ」
「あら、認めるの?」
アルウィリアは意外そうな顔をした。
何を言っても信じてもらえないだろうし、言い訳するだけ時間の無駄というものだ。
「失礼いたします」
表情を殺した会釈。ボクはアルウィリアの脇を通り抜け、その場を去った。
もしかしたら、口論することも彼女との間には必要だったのかも知れない。でも、今のボクには、そんな余裕はなかった。
一刻も早く、夫人の誤解を解いておきたかったから。そうしないと、ボクの立場が危うくなるし、気分も悪い。だって、気分の問題でしょ。気分さえ良ければ、どんな冷遇を受けたとしても乗り越えられるけど、逆に気分が悪かったら、どんな幸せも逃げてしまう。
正念場――かも知れない。夫人に嫌われたら、おしまいだ。
どう言い訳をすればいいか考えがまとまらないまま、ボクは夫人の部屋を訪ねた。
「奥様」
本を読んでいる夫人を、ボクが見下ろす格好だ。ボクが近付いても、夫人は視線を上げてくれない。
「何?」
落ち着いているようには見えるけど、ボクを全く見てくれないし、冷ややかな印象さえ受ける。不機嫌は明らかだ。
「奥様は誤解なさっています」
「あら、どんな誤解かしら?」
夫人は、本に視線を落としたままだ。どうしてもボクを見てくれないの? ボクは、もう嫌われてしまったの?
窓から吹き込む優しくない風が、軽く波打つ長い金髪を、乱暴に掻き乱す。それにも彼女は苛立っているようだった。
「それは――」
「良いのです。あなたとラン=シー様が逢瀬を交わすような間柄であっても、咎め立てする気はありません」
ほらほら、やっぱり誤解してる。この先どうなるかは分からないけど、今は全然そういうことはないのに。
夫人が立ち上がった。何をするのかと思えば、植物の水やりだ。普段なら、そういう雑用はボクの仕事なのに。
「ですから、それは誤解なのです。あのときは、私の不注意と申しましょうか、梯子から落ちてしまい、それを旦那様に助けていただいたのです」
ボクの不注意と言うよりは、侯爵様の「戯れ」だ。
「言い訳なんて、なさらないで」
夫人は、染め付けが可愛い磁器の水差しで、植物に水をやりながら、部屋の隅ばかりを回っている。ボクの顔を見ようともしない。拒絶――されてる?
あ、あんなに水をやったら根が腐る。いや、そんなことよりも今は奥様だ。
「言い訳だなんて」
どう言い繕おうか困って、言い淀む。事実を述べたところで、ボクの言葉を夫人が信じなければ同じだ。
「あなたが代わりに子を産んでくださるというのなら、わたくしはデュミール家の嫡子として可愛がります。わたくしが認めているのですから、あなたには何の不満もないはずですわ」
それ、本心なの?
本当にそう思っているなら、どうしてボクを見てくれないの?
「奥様」
ボクが呼び掛けても、夫人は返事をしてくれなかった。仕方なく、ボクは部屋を出ることにした。夫人を、いつまでも部屋の片隅に立たせておくわけにはいかないから。