接近
屋敷の間取りは殆ど覚えた。人の動きも少しずつ見えてきた。
クラーニアは相変わらず親切だ。夫人はボクを可愛がってくださる。
目立つ動きをした代償として、何人かの召使いには嫌われてしまったらしい。その中でも特に、アルウィリアは行動が直接的だ。すぐ睨むし、擦れ違えば肘鉄を食らう。子供っぽい嫌がらせを次々と繰り広げてくるんだ。尤も、相手を傷付けようとするなら、もっと効果的な手段があるはずだし、この程度で済んでいる、と考えた方が良さそうだ。
問題は、デュミール侯爵だ。お見送りと、お出迎え、ちゃんとしてるんだけど、まだ顔を覚えてもらってないのかな?
このまま、ずっと見向きもされなかったら、と思うと、切なくなる。
ねぇ、ボクを見て。ボクの視線に気付いて。ボクを、ひとりの人間として認めて。ラン=シー・デュミール。ボクと恋に落ちて――なんて言わないから、せめてボクの存在を知って。
その祈りが通じたのか、ボクは侯爵と言葉を交わす機会を得た!
夫人の部屋で、ブランドンと遊んでいたときのことだった。何の前触れもなく、侯爵が夫人の部屋を訪れたんだ。それも真っ昼間から。
あまりに突然の来訪だったから、心の準備も出来ていなくて、まじまじと侯爵を見つめてしまった。背、高いなぁ。ボクと頭ひとつ分は違う。
「其方は確か……」
「ミコトです」
「ああ、ジルラーから聞いている。セライスタの我儘を聞いてくれているそうだな」
「奥様は我儘など仰有らない方です。私のような者にさえ、お優しくて」
ボクとしては、別に誇張して言ったつもりはなかった。でも侯爵は、何か言いたげな薄い笑みを浮かべて、楽しげに夫人を見遣った。
「結構なことだ」
妙な反応だ。まるで、いつもは違うとでも言いたげな。
「紅茶をお持ちします」
「私には構わないで、其方は猫とでも遊んでいなさい」
そう言うと、侯爵はボクの横を通り過ぎていった。
夫人は、と言うと、そんな侯爵には見向きもせず、黙々と本を読んでいる。黒檀の円卓には、さっきボクが淹れたばかりの紅茶。手を伸ばした。来訪者に気付いてないかのように。
侯爵が側まで来ると、夫人はようやく顔を上げた。
「御用は何ですの?」
無表情。ふんわりとした優しい笑顔が印象的だから、夫人の冷ややかな態度にはボクが戸惑った。侯爵は、それほどでもないみたいだけど。
「妻の部屋を訪れるのにも用が要るのか?」
「いいえ。毎夜でもお越しくださいませ」
どうも棘のある言い方だ。夫人は、侯爵に不満を抱いているのかなー?
そう言えば、夫人は最初から、ボクのこと侯爵の愛人じゃないかと疑っていたし。もしかして、夫人がボクを可愛がってくださるのは、侯爵に近付けたくないから――なんて、うぬぼれもいいところだ。
「皮肉を言うな」
「皮肉とお思い? わたくしは、ささやかな望みを口にしただけですわ」
単純に考えれば、なかなか相手をしてくれない侯爵に対して、夫人が拗ねている、という構図になるけど。
侯爵って昼間は屋敷を空けていることが多いし、夫人のこと、ほったらかしにしてるんじゃない?
それで、たまに部屋を訪ねたりすると、口喧嘩に発展する――みたいな?
まあ、それほど険悪な雰囲気でもないし、ボクとしては見過ごせる範囲だ。
それよりも、侯爵、ボクの名前を覚えてくれたかな?
ボクの獲物――ラン=シー・デュミール様。ボクの名前を呼んで。その瞳の檻にボクを閉じ込めて。