遭遇
「そう言えば、デュミール家で召使いの募集をしていたよ。商家の連中がお世話をしようと目の色を変えていた。彼らは、どうにかして侯爵家との関係を得たいらしい」
それが新たな仕事の始まりだった。お膳立てするのは伯爵の役目。ボクは、指示に従って任務を遂行するだけだ。
相変わらずの優雅な物腰で、物憂げにボクを見つめている。決まった場所を好むらしくて、伯爵が座る椅子はいつも同じだった。似たような椅子が幾つも並んでいるのに。
「ノールボワ家に推薦状を書かせた。行ってくれるかね?」
「でも募集してるのは女でしょ?」
「だからこそ、ミコトに頼むのだ。淑やかなだけの女では、到底この仕事は遂行できないだろう。ましてや力攻めで落ちるような相手でもない」
「そんなに手強いの?」
「ラン=シー・デュミール火将軍。ミコトも名前くらいなら聞いたことはあるだろう?」
「全然」
だって興味ないもん。他人だし。
素っ気ないボクに対して、伯爵は微苦笑。
「宜しい。だが、これだけは言っておく。恐らく奴には隙がない。安易な色仕掛けに頼るな。それから今回は、一ヶ月以内に遂行できれば成功とする」
伯爵にしては珍しく慎重な物言いだ。デュミール侯爵というのは、余程の相手なんだろうね。
「任せてよ、必ず惚れさせてみせるから」
「だからミコト、そうではなくて――」
「なに?」
「分かっているのか? これまでの相手とは格が違うのだよ」
「うん。侯爵でしょ?」
いくら歴戦の猛者でも剣を抱いて寝たりはしない。必ず隙は出来る――作ってみせる!
気のせいか、伯爵はボクを見て呆れた顔をしているけど、どうしてなんだろうね。心配性なのかな?
何はともあれ、ついに伯爵が本格的に動き出した――ような気がする。今までも何度か大物を標的にしてきたけど、侯爵と言ったら国王に次ぐ人物だ。伯爵にとっては、恐らく最大の政敵。逆に言えば、伯爵の正体は、デュミール侯爵と競い合うような人物という結論になる。
今の関係を壊したくないから敢えて詮索はしないけどね。
そんなわけで、ボクは意気揚々とデュミール家へと向かった。
夜会に出るなら赤い振袖だけど、今日は若紫の訪問着で行く。あまり目立ちすぎないようにね。でも伯爵の要望で、ちゃんと髪を結わいて出てきたんだ。
ノールボワ家の推薦状があると言っても、他にも候補はいるらしいから、ボクが選ばれるとは限らない。少しでも相手の印象を良くしておかないと、屋敷に潜入すら出来ずに終わる――なんてことも有り得るわけだ。
ここは気合いを入れて頑張らないと!
そうして考え事をしながら、侯爵家へと続く川沿いの道を歩いているときだった。前から、真っ白な猫がボクの方に向かって走り寄ってきたんだ。ふさふさの長い毛で、瞳の色は鮮やかな緑。ちょこちょこと走ってくる姿があまりに可愛らしくて、ボクは思わず破顔した。
屈んで両手を広げてみせると、その猫はボクの懐に( ふところ )飛び込んできた。そのまま猫を抱き上げて、ボクは顔を近付けた。
「やわらかーい」
毛並みは綺麗だし、人に飼われていた猫に違いない。捕まえなくても向こうから飛び込んでくるなんて、きっと人恋しかったんだろうね。
ボクは白い猫を胸に抱いたまま、再び歩きだした。暇がないから飼い主は見つけて上げられないけど、侯爵家の庭で密かに飼うというのも悪くない。ずっと大人しくしてるし、この猫もボクを気に入ってくれたんだよね?
名前、何がいいかなー? 気品があるから『伯爵夫人』とか『ひめひめ』とか、もっと捻って『水辺に佇む白鳥の王』なんて、いいかも知れない。
ま、いいや。あとで、ゆっくり考えよう。
にこにこして歩いていると、またしても前方から走り寄ってくる、今度は人影が見えた。
まさか、この猫の飼い主? もう見つかっちゃったの? つまんない! 折角ボクが飼おうと思ったのに。
案の定、男はボクの前で立ち止まった。四十歳くらいの痩せ形の男で、その手に紐の付いた首輪を持っている。
息急切って、苦しそうに顔を歪めたまま、男はボクに人差し指を向けた。馬のように息遣いが荒くて、顔色も良くない。よほど慌てていたんだろうね。
「その猫です。ああ良かった」
人好きがしそうな柔和な笑みを浮かべて、男は安堵の息を深々とついた。
「この猫、おじさんの?」
飼い主が見つかったのは嬉しいけど、ちょっと残念。でも優しそうな人で良かった。
ようやく呼吸も整ってきたのか、男は深い息を何度も繰り返した。
「いえ、その、奥様の猫でして、御不浄のために馬車から降ろしましたところ、逃げられてしまったのです」
「じゃあ、返すね」
名残惜しいけど、お別れ。
猫を引き渡そうと、相手との距離を詰めて、立つ。両手で差し出すのではなくて、腕に抱いたまま相手の胸元へと送り込むように。
ところが猫が動いてくれない。ボクの腕の中に居座ったまま身体を丸めている。
何をためらっているのか、相手の男も恐々としていて、なかなか猫を受け止めようとしない。落ち着きのない様子で、頻りに視線を上下させるばかり。
もしかして猫との相性が悪いのかな?
「猫が苦手なの?」
「いえ決して、そのようなことは……」
「じゃあ早く」
ボクも先を急いでるし。もし約束の時間に遅れたら、どうしてくれるの?
「はい」
そんなに畏まらなくてもいいと思うのに、何故か返事も凄く堅い。しかも返事をしただけで、やっぱり先に進まない。
どう見ても猫を怖がってるとしか思えないんだけど……。
「猫、苦手なんでしょ?」
別に隠さなくても、恥ずかしいことじゃないのに。
それなのに! この人って頑なに否定するんだもん。
「いいえ。断じて、そのようなことはございません。ただ……」
なんて要領を得ない人なの? お願いだから早くしてよ!
身なりから判断すると、身分のある人に仕えている御者という感じだ。似たような短剣を佩いている御者を、他で見たことがあったし。
「ただ?」
ボクが促して上げないと、話も先に進まない。何やら困り果てている様子だ。
「何と申し上げれば良いのか……」
「うん。それで?」
「あの、お嬢様……」
そこで何故か、男は一歩ほど下がる。
ボクは反射的に後ろを振り向いてしまった。
でも、誰も近付いてくる気配はない。それらしい人影は皆無だ。
何処に、お嬢様? ボクが不思議がって小首を傾げると、その腰の低い男は更に畏まって、こう言うんだ。
「御無礼とは存じますが、あちらの馬車まで御足労を願えませんでしょうか?」
こんなふうに慇懃な態度で接せられると、逆に言葉の裏を探りたくなってしまう。
でもボクは急いでいたし、深読みして時間を浪費するのも嫌だったから、すぐに承知したんだ。向かう方角が逆だったら断ったかも知れないけど。
結局ボクに猫を預けたままで、男が前を行く。彼は認めようとしないけど、猫が苦手としか思えないね!
そうして連れられていった先には、果たして豪奢な馬車が待ち受けていた。
細部の絢爛な飾り立てにも負けない、重厚な造り。黒鹿毛の二頭立て。御者の男は些か頼りない感じだけど、総てが高貴な匂いを漂わせている。馬車に乗っている人物は、間違いなく上級貴族だ。
この辺りは貴族の屋敷も多いし、どんな人が現れても驚かないけどね。
予想は、ほぼ的中。馬車の中から出てきたのは、期待を裏切らない優美な淑女だった。
年は二十歳くらい。若くて、本当に綺麗な「奥様」だ。陽光を受けて輝く金髪も、申し分なく美しい。品がある柔らかな顔立ちで、大きな目が愛らしく、如何にも人に好かれそうな雰囲気を持っている、生まれながらのお嬢様だ。
「まあ、わたくしのブランドンを連れてきてくださったのね」
ふわりとした柔らかい微笑みがボクに向けられる。ボクの腕の中で丸くなっている猫にも。
彼女が両手を差し出すと、猫は待っていたかのように向こう岸へと飛び移った。つまり御主人様の胸に。
意外と呆気ない別れだった。猫って薄情だね!
「では先を急ぎますので、これにて失礼させていただきます」
相手の身分も考慮して、ボクは慇懃な挨拶を交わした。一刻も早く侯爵家に辿り着きたいという思いからも、既に足は目的の方角へと向いていた。それなのに!
「お待ちになって」
たった一言で、呼び止められてしまった。
まだ何か用があるの? それとも文句でも言われるわけ?
定刻までに行かないと、いくらノールボワ家の推薦状があっても印象が悪くなる。最初が肝要なのに、ここで躓いたら総てが終わっちゃうじゃない。
「当家までお越しくださったら、充分なお礼が出来ると思いますわ」
猫を捕まえたくらいで大袈裟な。と思ったけど、そんなこと言えるはずもなく、ボクは思案に眩れた。
彼女の「お礼」に付き合っていたら、間違いなく約束の時間には間に合わない。やはり断るしかないのだけど……。
「過分なお心遣い、有り難く存じます。ですが、本日は大切な用事を仰せ付かっておりますので、御容赦くださいませ。お断り申し上げる御無礼を、お許しいただければ幸いです」
身分が高い相手の「お礼」は、受け入れるのが妥当。下手に断れば面目を潰すことになるから、慎重に言葉を選ばないと失敗することになる。
「分かりました。ではお礼として、あなたを目的の場所まで送って差し上げますわ。それなら構わないでしょう?」
結局それが最終的な妥協点だった。
四人掛けの豪華な馬車に乗せてもらって、ボクたちは一路デュミール家へと向かった。
向かい側の座席には、護衛と思われる寡黙な男が、正面にボクを見据えながら座っている。そして彼の隣が猫。ボクの隣には、何処の誰かは知らないけど「奥様」だ。
驚いたことに、彼女もデュミール家へ向かう途中だったらしい。彼女は「奇遇」の一言で片付けていたけど、ボクにとっては聞き逃せない事実だ。
侯爵家に出入りできて、なおかつ「奥様」と呼ばれるような人物となれば、邸で働くボクにも決して無関係ではないはず。しかも身分の差は明らかだ。
問題は、どの程度ボクに関わりのある人物なのか、ということ。
まさか召使いの雇用にまで影響を及ぼすようなことはないと思うけど、「お礼」を受け入れてしまったのは失敗だったかも知れない。
いきなり「お客様」と馬車で乗り付けたら、遠慮というものを知らない不束者と思われてしまう可能性はある。ああ、めんどくさいことになった。
「ところで――」
と、彼女はボクの顔を窺うような仕種。言葉を捜している感じだ。そこでボクは、すかさず「ミコトです」と名乗った。
「ミコトさんは、どのような御用で屋敷にいらっしゃるの?」
あれ? 変な言い方じゃない?
「実は、侯爵家で働かせていただきたいと存じまして……」
「わたくしには嘘は仰有らなくても宜しいのよ?」
それは予想外の一言だった。
いきなり核心を突かれて、ボクは驚嘆した。幼少より滅多なことでは感情を表に出さないよう教えられてきたから、顔色までは変わらなかったと思うけど、心臓の高鳴りだけは抑えられない。
それでもボクは平静を装い、小首を傾げて理解が及んでいないような素振りを見せた。
「嘘、ですか?」
「本当は、侯爵様に御用がお有りなのでしょう?」
まさか本当に露見した? でも何故?
「私は侯爵様のお顔も存じ上げないのです。いったい如何様な用向きがあるというのでしょう?」
心臓に悪い。もし本当に露見しているのなら、こんな問答こそ無意味。早々に馬車から飛び降りたい気分だ。
「ねえ、ミコトさん」
「はい」
「わたくしにだけは、そっと教えてくださらない?」
「そう仰有いましても……」
ボクは困り果てた顔で、向かい側の男に助けを求めるような視線を送った。実際ボクは返事に困っていた。
でも本当に助けてもらえるとは全く思っていなかった。だって顔が怖かったし、初めから一言も喋らないし。
「奥様。本日は、新しい召使いを雇い入れるために、五人の候補が屋敷を訪れることになっております。恐らく、この娘も候補の一人なのでしょう」
意外にも流麗な口調で、男はボクの代弁をしてくれた。つまりはボクの窮地を救ってくれたわけだ。感謝!
でも感謝ばかりもしていられない。何故って、「奥様」の正体を知ることになってしまったから。
「まあ、そうでしたの? それなら初めから仰有ってくださったら宜しかったのに」
言ったよ! ボクとしては大声で反論したい気分だった。
いったい何を勘違いしたのか。思い込みが激しい人物であることには間違いない。
デュミール侯爵夫人セライスタ――何て疲れる人なんだ!
この人が今日からボクの「奥様」になるかと思うと、頭が痛い。
そして更に、追い討ちの一言。
「わたくしはてっきり、あの方が見初めた女性かと……」
つまり彼女は、ボクのことを侯爵の妾か何かと勘違いしていたんだ! 正体が知られたかと思って慌てふためいたボクって、いったい?