竪琴
お気に入りは赤い振袖。目の覚めるような鮮紅の空を、黄色の蝶が乱れ飛ぶという派手な図柄だ。
ユヒラお姉様は逆に黄色を基調とした着物を好んだけど、ああいう色が似合うのは、素材がいいからだよね。所詮ボクみたいなお子様は、派手さで勝負するしかないんだ。と思っていたら、いつの間にかボクも十七歳。ちょっとは成長したのかなー?
ちなみに、ユヒラお姉様というのは、母を同じくする姉で、『尭矛の宝珠』と称されるほどの美人だ。傾国どころの騒ぎじゃない。実際に、彼女を巡る争いから内乱が起こったと噂されるほどなんだ。ほんとか嘘か知らないけどね。
そのユヒラお姉様は今、腹黒いと評判のディヴェラージェ伯に囚われている。表向きは客人かも知れないけど、ボクに言わせれば籠の鳥も同然だ。だって、お姉様は望まないはずだもん、そんな人と一緒にいるなんて。
それでも、ユヒラお姉様が生きていてくれたことは、何もかも失ってしまったボクには救いとなった。
ユヒラお姉様という光が、今のボクを照らしている。そんな気がした。
話を戻そう。お気に入りの赤い振袖ね。これが便利なんだ、色々と。帯の結び目に懐剣を隠せるし、他にも色んな場所に小柄を忍ばせることが出来る。匂い袋の中身は、実は毒薬を入れた小瓶だったりするんだ。しかも、ちゃんと淑やかに見えるから、凄い。
でも本当に凄いのは、ボク。あらゆる武器を使いこなせるし、淑やかにも振る舞える。こんな凄いボクも、伯爵から仕事の依頼がないときは、普通に街で働いてるんだ。世を忍ぶ仮の姿ってヤツだね。
小さな居酒屋で、お客さんの相手をするのがボクの仕事だ。こっちの都合で不規則になってしまうから日雇いだけど、給金は悪くない。給仕をするだけの至って簡単な仕事なのに、石切りの重労働よりも日給が高い!
居酒屋サリクラーラの主人曰く、「ミコト目当ての客が多いから、こっちの方が儲けさせてもらってる」ということらしい。
喜ぶべきだね。王宮では常に、優秀な兄の陰に隠れて目立たなかったボクが、ここでは持て囃されている。
周りを見渡せば、優雅とは縁のない酒飲みの男ばかりだけど、居心地は悪くない。客同士の下品な会話も、慣れてしまえば笑って聞き過ごせる。
「ミコトちゃん、こっちも頼むよ」
「はい、ただいま」
笑顔を振りまくだけなら、無料。夜のお相手はいたしません。
尤も、こんなところに安酒を飲みに来てる人間に、ボクを買えるほどの金持ちはいないけど。何しろボクは高いから。
以前、店内で乱暴を働いた客を叩きのめしちゃったことがあって、常連客はボクが強いのを知ってるんだ。往来でも何度か大立ち回りをやってるし、一部には「ミコトは怖い」という噂が立っているらしい。
だから、この店の客はボクを怒らせるような真似は絶対にしない。常連ほど、ボクの我慢の限界を心得ていて、無礼を働いても精々お尻を触ってくる程度。
ふと疑問。人のお尻なんか触って、楽しい? この辺りがまだ庶民の感覚に付いていけないんだ。
「はい、青菜に焼き椎茸、お待ち!」
「あ、青菜こっち」
「はーい」
少しでも手が空けば、お酌もして上げられるのだけど、それが殆ど流れ作業。テーブルとテーブルの間を擦り抜けながら、次々と別の客を相手しなければならない。みんな平等に相手をして上げないと、たまに怒る人がいるから。
「ミコト、あれを頼む」
「おお、そうだ。やってくれ!」
誰かが言い出すと、途端に周囲も同調して大騒ぎ。ボクの名前を連呼して、指笛で囃し立てる。彼らが何を要求してるかと言えば、ボクが弾く竪琴だ。
誰かが飲み代に置いていった物をボクがちょっと弾いてみせたら、それが大評判。最初は旦那さんも置き場に困っていたけど、専用の舞台まで用意しちゃって大喜び。今ではサリクラーラの名物になりつつある。
でもボクは、気が向いたときしか弾かないから、どうしても竪琴を聴きたい人はサリクラーラに足繁く通うことになる。我ながら上手い仕組みだ。安売りしない方が有り難みも強いってもんでしょ。
で、今日は弾く日。気分もいいし、天気もいいから。
雨の日はどうしても、弦が指に絡む感じで好きじゃない。
そんなわけでボクは、みんなの声援を受けて舞台へと上がった。竪琴が置かれているだけで他には何もない小さな舞台だけど、店内は総て見渡せるようになっている。
ボクは椅子に腰掛けると、弦の具合を見るように軽く爪弾いた。うん、完璧。
途端に辺りが静まり返る。実に素直な反応だ。それを見て、ボクは演奏を始めた。
出だしは単音の繰り返しから。弾き出す音を徐々に大きくしていき、一瞬の空白から流麗な旋律へ。
それは、朝露が木の葉から滑り落ちて、川の流れと交わるが如く。
さらさらと鳴きながら、嬉しそうに春の来訪を告げる。
「春風と一緒に踊ろう。
小鳥と一緒に唄おう。
微笑む君と、二人で輪を作ろう」
こうして竪琴を弾いていると、王宮の暮らしを思い出す。お姉様と琴や笛の腕前を競い合った日々。勿論ボクは、お姉様のようには上手く弾けなかったのだけど、負けん気だけは強くて、何度も挑戦していた。
遠い日に思いを馳せながら、ボクは竪琴を弾き続けた。竪琴を弾くと感傷的になってしまうから、本当に気が向いたときでないと弾けないんだ。
演奏に聴き入っている人。邪魔にならない程度に話をしている人。静かに酒を呷っている人。お客の反応は色々だけど、誰もが楽しそうにしている。それがボクには嬉しい。
楽しくお酒を飲んでもらえたら、満足。店も繁盛するし、給金もたんまり貰えるし。
そのとき――
「邪魔するぜ」
竪琴の音色に誘われたのか、新たな客が店を訪れた。
ザワッと周囲の空気が変わる。
新顔だ。しかも、この界隈では見掛けないような感じの。身なりから推察するに、恐らく何処かのお屋敷で働いている人間だろう。そういう人間も数多く見てきたから、雰囲気で分かる。この店には似わない人間だ。
視界の端で男を捕らえながらも、ボクは竪琴を弾き続ける。折角みんなが楽しんでいるのだから、ボクの都合だけで演奏を中断することは出来ない。馴染まない客でも、そのうち慣れてくれるはずだ。
それにしても面白い顔だ。面長と言えば聞こえはいいけど、間延びした顔立ち。壺のような風貌だ。見まいとしても、大きな鼻に目が行ってしまう。足は長そうだから、後ろ姿は悪くないだろうに。
ふらふらと店内を歩きながら、男は独り言のように漏らした。
「ここは変わった見世物があるんだなァ」
何故そういうことを言う。周囲の反感を買っているのが分からないの? 黙って座れば誰も気にしないのに。
既に少し酔っているのか、男は虚ろな瞳でボクを捕らえながら、緩慢な歩調でこちらへ向かってくる。
ボクは無感動を装い、演奏を続けた。
嫌な客でも問題さえ起こさなければ文句は言えない。だから無視が最良の策だ。
周りの人間は、煙たそうな顔で、ぶつぶつと声にならない文句を言い合っている。
男は舞台の前で立ち止まると、にやりと嫌らしい笑みを浮かべた。片方の肘を台上に置いて、寄り掛かる。そして何をするのかと思ったら、いきなりボクの裾を掴んで捲り上げたんだ!
露になったボクの太股を見て、男が言う。
「色っぽいねえ」
冗談じゃない! さすがに演奏を続けることは出来なかった。
ぴたりと止まった演奏に反応して、周囲も息を飲んだ。一瞬の静寂を経て、辺りに緊張感が広がる。
皮肉にも、みんなの視線を受けているのはボクの足だった。こんな屈辱、久しく味わったこともなかったのに。
「お客様。他のお客様に迷惑ですので、お引き取りください」
忠告はした。これで引き下がらないのなら、ボクにも考えがある。と言うよりは、我慢の限界。
「こうやって裾を乱した方が、もっと色っぽくなるぜ」
男は片方の手で裾を持ち上げたまま、もう片方の手で更に裾を開こうと試みる。至って真面目な表情で。
「触るな、下郎!」
威厳を込めて言い放つと、ついにボクは立ち上がった。これでも我慢した方だ。
周囲からは「あーあ、怒らせちゃったよ」という溜息を混ぜ合わせた声が聞こえる。
「なんだと、貴様! もういっぺん言ってみろ! 芸人風情が俺様に向かって下郎だァ?」
男は、行き場を失った手を舞台に叩き付けた。キッと睨み付ける視線は、怒り一色に染まっている。歯噛みする音が聞こえてきそうな形相だ。
男が掴みかかろうとしたのを交わして、ボクは舞台から飛び降りた。ふわりと。
着地したのは男の背後。ボクは裾を捲り上げると、振り向きざまに男の背中に蹴りを叩き込んだ。これでも手加減したつもり。
前のめりに蹌踉めいて、男は舞台に倒れ込んだ。酒が入ってるから反応が鈍いんだ。
固唾を呑んで見守っていた人たちも、次の瞬間には破顔して喝采。指笛や拍手が店内を埋め尽くして、大変な騒ぎようだ。
男に罵声を浴びせる者。ボクの名を連呼する者。無意味に騒ぎ立てる者。酔っている所為で興奮の度合いも甚だしい。
周囲に煽られて、ボクも笑顔で投げキスを振りまく。両手で、何度も。
そして誰もが勝負は決したと思っていたときだった。
「クソがっ!」
大声で吠えると、男は舞台を叩き付けた。その迫力に気圧されて、周囲の喝采が止む。ゆっくりと振り向いた男の顔には、怒りに混じって殺気のようなものも浮かんでいた。
「けっ。気取ってみせたところで、所詮おまえも、男に媚びなきゃ飯も喰えねぇんだろ。そういう臭いがするぜ、ぷんぷんと」
「何が言いたい」
ああ、嫌だ。回りくどい言い方でボクを辱めようとする、その嫌味な根性が気に入らない。少しばかり教養があると、男は根性が曲がるのか?
もう怒った。
ボクは帯の後ろに隠していた懐剣を抜き放つと、突く体勢で構えた。
刃物を見て、男も怯む。
ざわめく声を耳にしながらも、ボクは構わず前に出た。男の首を目掛けて!
その場に居合わせた誰もが流血を想像したことだろう。標的とされた男も例外ではなく。
でも実際には、流血はなかった。ボクは柄の部分で男の左肩を突いただけだった。他の客にしても、酒の席で血は見たくないだろうから。
壺のような顔が激痛に歪む。男は声にならない呻きを上げて、左右に身体を揺らしている。
「痛そうだねー? 折角だから、もっと痛くしちゃおうか?」
男の眼前に刃を突き付けて、ボクは嫣然と微笑んでみせる。
「こんなことをしてタダで済むと思ってるのか」
鼻息も荒く、男はボクを睨み付ける。
でも、今度こそ勝負は決した。お仕置きも完了。これだけ面目を潰されたら、二度と顔を出せないはずだ。ここにいる客に顔を覚えられてしまっているから。
憤慨しながらも、男の足は店の外へと向いていた。息巻いて、悪態を並べてはいるけど、もう乱暴を働く気力もないらしい。肩の痛みに耐えて歩いているのが分かる。
完全に男の姿が消えるのを待って、ボクは奥へと引っ込んだ。
ちょうどそこには旦那さんが立っていて、優しい顔でボクを迎えてくれた。
「お見事でした」
冗談っぽい口調からも、ボクを信頼してくれているのが分かる。
旦那さんは、今年で三十三歳。口髭さえ生やしていなければ、まだ二十代に見える若々しさだ。中肉中背で、表情も柔らかいから、見た目には頼りなさそうだけど、実は相当に腕っ節は強い。いつも控えめだし、人当たりも良くて、界隈での評判は上々だ。
「ごめんなさい、旦那さん。我慢できなくて、つい……」
「構わないよ。ああいう客は有り難くないから。それより、『触るな、下郎』は良かったね。やっぱり何処かのお姫様って噂、本当だったのかい?」
のんびりしていそうだけど、旦那さんって意外と鋭いかも。
「旦那さん。ボク、男ですよ」
そうやってボクが口を尖らせると、旦那さんは楽しげに笑い飛ばして言うんだ。
「そうだった。つい忘れちゃうんだよね。常連客でさえミコトのこと女の子だと思い込んでるし」
「でも、お店のためにはその方がいいんでしょ?」
「分かってるねえ、ミコトちゃん。本気でうちの養女になる気ない?」
それは前から言われていること。でもボクは、誤魔化しながら断り続けていた。だって、ここの養子になったら暗殺の仕事を続けられなくなるから。守らなければならない大切なものがあったら、危険な仕事は出来ないでしょう?
「お妾さんだったら考えてもいいよ」
「ミコトちゃん……」
旦那さんは慌てた様子で言葉を詰まらせた。
「うそ。冗談ですよっ。本気にした?」
「大人をからかうものじゃないよ。うちの女房が聴いてたら……ああ怖い」
その奥さん、実は厨房から聞き耳を立てていたらしい。
ボク、しーらない。




