訣別
斯くしてボクは、罰を受けることもなく、仕置き部屋から出られることとなった。とは言え、ただの召使いに戻るわけにもいかず――そもそもボクは伯爵に雇われた暗殺者で、いつまでもデュミール家に居座れるはずもなく、潮時を考えなければならなかった。
ラン=シー様は、暁矛王家の遺児であるボクを可愛がってくださる。夫人は、まだボクの正体を知らないから、以前と変わりなく接してくれる。でもジルラーは、さすがにボクを許してくれそうにない。ボクが、依頼主について頑として口を割らなかったものだから、まだ疑いの眼差しを向けてくる。だから、その目が怖いんだって!
いくら睨んだって絶対に口は割らないから。たとえ伯爵がボクを見捨てたとしても、ボクは伯爵を売らない。それくらいの恩は、受けた。
もし、伯爵が救い出してくれなかったら、ボクは今でも鎖に繋がれていたと思う。或いは、死んでいたかも知れない。気が触れて、ボクがボクでなくなっていたかも知れない。今のボクがあるのは、伯爵のおかげだ。
ジルラーは、こうも言っていた。
「其方を閣下に引き合わせたのは私だ。だから、此度のことは私の責任だと言える。暁矛王が亡くなられてから、閣下は暁矛の地を得ることだけに固執されてきた。そんな閣下のお心を和らげるため、其方を雇い入れることにした。其方を最初に見たとき、もう決めていたのだ。暁矛の民であるミコトを側に置けば、閣下も屋敷での時間を少しは大切になさるだろう、そんな考えからだった。案の定、閣下はミコトを気に入られたようだった。その上で、ミコトが閣下を思い遣ってくれるならば、こんな喜ばしいことはない。私の目から見て、其方も閣下に惹かれているように見えた。今でも、私の見立てに間違いはなかったように思える。それでも、其方は閣下に刃を向けた――」
ジルラーの見立ては九分通り正しかった。こんなボクを信頼してくれて、嬉しくも思う。それだけに、よけい居たたまれなかった。
身の振り方を見つめ直す意味でも、少し時間が欲しいと思い、ボクは三日間のお暇をいただいた。
ジルラーには、「このまま戻らなかったとしても驚きはしない」と皮肉めいたことを言われたりもしたけど、それも選択肢のひとつだとは思っている。特に、夫人に対しては別れの言葉が見つからないから。
そんなわけで久しぶりの我が家だ。集合住宅の二階。狭い路地から見上げると、窓が開いている。留守中の管理を隣のおばさんに頼んであったから、掃除でもしてくれているのかも知れない。お礼を言っとかないと。
「ただいま戻りました」
ところが――
「お帰り、ミコト。そろそろ帰ってくる頃だと思っていたよ」
そこで待ち受けていたのは伯爵だった。いつもに椅子に深々と腰掛けている。優雅で、物憂げな、いつもの彼。頬杖を突く姿さえも絵になる感じだ。
「伯爵、なんで?」
「運命の導きとでも言おうか、ミコトが帰ってくる日が私には分かるのだよ」
「う、嘘っぽい」
伯爵のことだから、あちこちに密偵を放っていて、ボクの動きも報告させていたに決まってる。そういう人だもん、伯爵って。油断も隙もないと言うか。
「賢いね、ミコトは」
「ボクのこと、お馬鹿だと思ってるでしょ」
「ミコトは可愛いから好きだよ」
もう、まるっきり子供扱いだ。でも、そういうところが伯爵らしくて、安心する。
立ち止まって微笑んで、それからボクは伯爵の許へ駆け寄った。
「伯爵、ただいま」
体当たりするような感じで抱き付く。伯爵は受け止めてくれたけど、椅子は軋みを上げた。
「おやおや、しばらく見ないうちに、すっかり甘え癖が付いてしまったようだね」
「ごめんなさい、伯爵。今回の仕事、失敗しちゃった」
それからボクは、頭の中を整理できないまま今回の経緯を語った。デュミール侯爵を好きになってしまい、どうしても殺せなかったことを。
伯爵は失敗を責めるわけでもなく、穏やかに話を聞いていた。そんなには怒ってないと思うけど、やっぱりちょっと不安になる。物静かな人が怒ったら、実は凄く怖かったりして。
報告は総て終わったのに、伯爵が何も言ってくれないから、ボクの不安は膨らんでいく。
きっと怒ってるんだ。ボクの不甲斐なさを。
「おや、もう話は終わったのか。なかなか楽しい恋物語だったから、つい聞き入ってしまったよ」
「伯爵?」
思わず首を傾げてしまう。いったい何を聞いてたわけ?
「いや、済まない。あの男を揺さぶることが出来ただけでも今回は収穫だった。実際、ミコトが屋敷に上がってからは、こちら側への干渉が減って助かったよ」
「ほんと?」
ボク、役に立ったの?
逆に言えば、ラン=シー様に迷惑を掛けた、という意味でもあるけど。
「それより、新しい仕事がミコトを待っている。考えようによっては、いいときに戻ってきたものだ」
新しい仕事と聞いてボクはドキッとした。正直、やりたくない。漠然と考えていたことだけど、もう暗殺の仕事は出来ないような気がしていた。デュミール侯爵を仕留められなかったボクに、殺しの仕事は無理なんだ。
伯爵に拾われてからのボクは、ひとつのことしか考えてこなかった。ユヒラお姉様を取り戻すこと。その思いだけがボクを支えてきた。その、叶えられないかも知れない未来だけが、幸せの形だと信じてきた。だから、この手を穢そうと、この身が穢れようと、平気でいられた。守るべきものを何も持たなかったのだから。
けれど、セライスタと会って、ラン=シー様と会って、何かが変わってしまった。それが何かは、よく分からない。何がボクを変えたのかも――。
「そのことなんだけど」
ボクは、歯切れの悪い口調で訥々と話し出した。
「ボク、この仕事から足を洗いたいと思ってる。伯爵が許してくれるなら、だけど。ボクにとっては伯爵の役に立てることが嬉しいし、お金も貰えるから、どんな仕事だろうと続けてこられた。でも、今のボクには人を殺せない。たぶん、もう無理だと思う」
今でも、伯爵の役に立ちたいとは思ってる。伯爵の信頼を失いたくはない。冷ややかでもいい。見つめてくれていたら。全く見向きもされなくなることが、つらい。やっぱり、役立たずになったボクのことなんか伯爵は要らないのかな?
ボクの訴えが届いたのか、届いていないのか、その表情からは読み取ることが出来ない。遠くを見据えて動かない瞳が、憤っているようにも見える。
伯爵が、ゆらりと立ち上がった。ボクを見てくれない。無言で、歩き出した。部屋の中を、ゆっくりと。二周して、不意に立ち止まった。
「姉を取り戻すという夢は諦めたのか?」
「そういうわけじゃ――って、ボクそんな話、したかなー?」
声が上擦る。ユヒラお姉様のことは誰にも話してないはずだけど。やっぱり伯爵は油断できないね!
「あの日から、ミコトは随分と変わったな」
ボクに背を向けたまま、伯爵が感傷的な言葉を紡ぐ。逆に、ボクは言葉を失った。だって、そういう伯爵って見たことがなかったから。
「四年も経てば、雛鳥も巣立ちする。いつか、そういう日が訪れるだろうとは思っていた」
「伯爵……」
こんなの、違う。こういう別れは嫌だ!
お願いだから、こっちを見て。そんなこと許さない、とボクを叱って。伯爵!
「姉に会いたくなったら、ディヴェラージェ家の別邸を訪ねるがいい」
伯爵は、ユヒラお姉様を知っている? ボクが、暁矛の第二王子だということも?
ひとつの可能性として考えたこともあった。彼こそが、ディヴェラージェ伯その人ではないかと。
「彼は狡猾な男だから、ミコトを近付けたくはなかったのだが」
伯爵は、ディヴェラージェ伯の人柄を知るくらい近しい存在で、ユヒラお姉様とも面識があった? お姉様とボクの顔を見比べて、姉弟だと判断したの?
暁矛の第二王子が、姉を取り戻そうと必死になっているのを、素知らぬ顔で眺めていたというの? それは普通、意地悪って言わない?
「その話、もう少し詳しく聞きたいものだ」
反射的に声の主を見遣る。乱暴に開け放たれた扉の向こうには、長剣を佩いたラン=シー様が立っていた!
風が吹き抜けた。その美々しい姿に見惚れる――いや、見惚れてる場合じゃなく!
まさか、伯爵とラン=シー様が鉢合わせるなんて思わなかったから、ボクは焦りまくっていた。
「付けられたのだよ、ミコト」
そこには、いつもの落ち着き払った伯爵の姿があった。柔らかい表情とは対照的な、鋭い眼光も、本来の姿と言っていい。敵に回すと怖い人っていると思うけど、そういう感じ。
「おまえか、陰でミコトを操っていた張本人は」
「表現は悪いが、さほど遠くもない」
伯爵は悠然と構えている。殺気立つラン=シー様を前にしても、全く臆するところはない。
「ならば問う。誰の指図で私の命を狙った」
「私の背後に何者かが存在すると思っているのか?」
伯爵が薄い笑みを浮かべた。
「私は顔が広い。私が死ぬことによって得をするほどの人物が、私の知らぬ人間であるはずがない」
「乱暴な推理だが、方向性としては間違っていない」
「いちいち癪に障る物言いだ。最初は殺すほどのことはないと思ったが、気が変わった」
いつもの優しいラン=シー様とは大違いで、腹立ちも露に剣を抜き放つ。ちょっと、ここはボクの家なんだよ!
そのとき伯爵はと言うと、見ているボクがゾクッとするような笑みを浮かべていた。
「リュノック屈指の勇将と戦って無事に済むとは思っていない」
言うや否や、伯爵がボクの身体を抱き寄せた。銀色の輝き。ボクの喉元に、それが宛がわれる。速すぎて見えなかったけど、革帯に仕込んであったと思われる小刀だ。ボクを、どうするつもり?
喋れなかった。少し喋っただけでも喉が切れてしまいそうな気がしたから。
「何の真似だ?」
ラン=シー様の問いは当然だと思う。ボクも訊きたいくらいだから。
「手出し出来ぬだろう?」
「ミコトは、おまえの手駒ではなかったのか?」
「だから利用する」
伯爵の声は、冷え冷えとしていた。
違うよね、伯爵。これは作戦なんだよね?
ボクは信じてるから。だってボクを暗闇から救い出してくれた人だから。
「貴様」
ラン=シー様が歯噛みした。その憤りがボクにまで伝わってくる。素直すぎる反応だ。もっと冷静な人だと思ったけど、思い違いだったのかなー?
「どうする?」
「やってみろ。次の瞬間、貴様を八つ裂きにしてやる」
それは嬉しくない言葉だ。たとえ嘘でも、ボクを気遣う言葉が欲しかったのに。
「可哀想なミコト。おまえはラン=シー・デュミールに愛されなかったのだね。あんな男でも、おまえは命懸けで愛したのに。私を捨てても良いと思えるほど愛したのに」
優しい声だった。
ボクを捕らえている伯爵の左手が、ゆっくりと這い上がってくる。淀みなく胸を通り過ぎて、首、右の頬へと。涙を拭き取るような動きで、細い指が目尻を優しく撫でた。切ないほどに、官能的。このとき既に、ボクの心は伯爵へと傾いていた。
「ミコト、そいつの言葉を聞くな。私は其方を愛している。だから――」
ばか。弱みを見せたら負けちゃうんだよ。
「ラン=シー様。少しでも私を愛してくださるのなら、このまま退いてください。そのときは、あなたの愛を信じます」
ボクは、ラン=シー様の愛を疑ってはいなかった。伯爵がボクを利用していることも分かっていた。それでも、ボクは伯爵を裏切れない。ううん。身を挺してでも守ろうと考えている。だから、伯爵を逃がすための取り引きを、絶対に断れない形で持ち掛けたんだ。
本当は、もう侯爵家に戻るつもりはなかった。ここで伯爵に肩入れした以上、どう見ても敵対関係だもん。戻れるはずがない!
「お別れだ、ミコト」
耳許で、伯爵が囁いた。
「おまえは、そっち側の人間だ。ディヴェラージェ家へは行くな。私の、可愛いミコト」
背中を押されて、よろめいた。その勢いで、ボクはラン=シー様の胸に飛び込む。
疾風。遠ざかる足音。ボクが振り向いたとき、伯爵は窓から身を躍らせていた。
ボクを受け止めてくれたラン=シー様は、伯爵を追うことも出来ず、悔しがった。腰に抱き付いたボクが、伯爵を追わせなかったというのもある。
私の、可愛いミコト。伯爵は、そう言った。それが偽りの言葉だったとしても、ボクは嬉しかった。
また、会えるよね?
大きな翼が、ボクを包む。
ボクの心は、いつまでも揺れていた。