形見
晴れやかな朝だった。狭い部屋に閉じ込められ、肉体的には不自由を強いられているけど、心は束縛されていなかった。むしろ、解放されていた。昨日、たくさん泣いたからかも知れない。セライスタという優しい風が、ボクを高い空へと運んでくれた。
朝食を済ませ、しばらくすると、ラン=シー様が現れた。怪我した足を引きずる様子もなく、もう普通に歩いている。どういう回復力なの? 実は、そんな大した怪我じゃなかったとか? どっちでもいい。ラン=シー様の元気な姿を見られて、ちょっと嬉しかった。
だけど、それをボクは顔には出さなかった。ラン=シー様の前では、無表情、無感動を貫く。そう決めた。心を動かされたら、負けだ。
「其方のこと、少し調べさせた」
挨拶もなく、ラン=シー様が事務的に切り出した。そこに、特別な感情は見て取れない。あんなにも可愛がってくださったのに、今は、もう敵同士ということ?
「其方はノールボワ家からの推薦で当家に来たはずだが、面白いことに、ノールボワ家では金を積まれたから名前を貸しただけだというのだ。しかも、相手の素性は確かめなかったそうだ。胡散臭い話だが、事実だろう」
そんなことだろうと思った。あの伯爵が、手掛かりを残すような真似をするはずがないもん。ボクでさえ伯爵の素性は知らないんだから。たとえ拷問を受けたとしても、口を割りようがない。そういうところ、ほんと抜け目がないよね。
「ところで――」
ラン=シー様が、手に持っていた物をボクの前に差し出した。布にくるまれている、棒状の何か。中身は、黒光りする懐剣だった。そう、他の宝石類は手放しても、唯一それだけは手放さなかったという、お母様の形見の。
ドキッとした。どうしよう。動揺してる、ボク。
「この懐剣、何処で手に入れた?」
「母に、貰いました」
咄嗟に、いい嘘が思い付かなかった。
「ほう。それは興味深い。この『六芒星に燕子花』が彩王家の紋章であることを知っているのか?」
調べた、と言うだけのことはある。紋章から、彩王家に行き着くなんて。考えが甘かったのかも知れない。大失態だ。
ボクの素性が明らかになれば、家名を傷付けることになる。それだけは死んでも防がなければならない。
本当は、ミコトという名前さえも捨てるべきだったけど、お母様にいただいた大切なものだから、どうしても捨てられなかった。それに、ボクと同じ年に生まれた子供はミコトという名前が多いから、その線から探られることはないと思っていた。高貴な名前にあやかることは、わりと一般的な習慣みたいで、城下町はミコトだらけなんだとか。
同じ名前が多いだけに、貴族にとっては家名こそが大切になる。彩王家は『花の祭司』を務めてきた家柄だし、土地を持っているだけの貴族とは名前の重みが違う!
彩王家とは関係のないところで、ボク個人が踏み付けられるなら、それは構わない。だけど、家名を踏み付けられるわけにはいかない。絶対に!
だからボクは、彩王家とは無関係の人間として、死ぬ。
彩王家に泥は塗らない。栄光だけを遺す。
「私が火事場から盗んだとでも仰有るのですか?」
懐剣は、盗んだことにすればいい。そう思わせるためにも、不遜に振る舞う。火事場泥棒なら、たぶん自分の物だと主張するはずだ。
「なるほど。では、質問を変えよう。懐剣をくれたという母御の名を聞きたい」
次から次へと、ボクを困らせるような質問を。まさに、ネズミを追い詰める猫の如しだ。性格の悪さが滲み出てるよね。
「忘れました」
ラン=シー様は、ボクに何を喋らせたいの?
「返すぞ」
いきなり、ラン=シー様が懐剣を放り投げた。予想外の展開。ボクは慌てた。
次の瞬間には、懐剣はボクの腕の中に飛び込んでいた。しっかりと懐剣を受け止め、安堵の息を漏らしたとき、ボクは失態に気付いた。
「その懐剣、古い物だが血糊は浮いていなかった。それどころか、一点の曇りさえも――」
「何が仰有りたいのです?」
限界だ。もう隠しきれない。
生唾が、ゆっくりと喉を通り過ぎていく。
「大切にしているようだから、返した」
心が、丸裸にされたような気分。恥ずかしくて、もうラン=シー様の顔を見ていられない。お願いだから、ボクを見ないで。その視線がボクを追い詰める。
「第一王子は討ち死に」
え?
「側室ミネカと第二王子は、内乱の中で逃げ遅れ、焼け死んだと聞いていた。二人の遺体は、今も王家の墓地に眠っているはずだ」
何を、言っているの?
「だから生きているはずはないのだ。いくら其方があの女に似ていたとしても、他人の空似と考える方が自然だ。だが何故、其方が彩王家の懐剣を持っている?」
もしかして、ラン=シー様は、お母様に会ったことがあるの? 有り得る話だ。デュミール家の所領は暁矛と隣接しているし、何かの折で暁矛を訪れることがあったかも知れない。暁矛に関する書物が多いのも、交流が深かったからだと考えれば辻褄が合う。
「懐剣は盗んだ物、と言えば御満足いただけるのでしょうか。何か勘違いなさっているようですけど、たとえ誰かに似ていても、私には関係ないことです」
声が、少し震えた。心臓は、張り裂けそうに騒ぎ立てる。ここまで、かな。
「其方は嘘が下手だ。盗んだ物なら、我が子のように胸に抱いたりはせぬ」
皮肉にも、それまで心の拠り所となっていた懐剣が、ボクの立場を危うくする結果となってしまった。
「認めるか?」
その問い掛けが、ボクには「負けを認めるか」と聞こえた。まさに容赦ない攻撃だ。どうあっても、彩王家との繋がりを認めさせたいらしい。
揺らぐことのない二つの檻に囚われ、ボクは息苦しさを覚えた。好きな人に見つめられたら、本当は嬉しいはずだけど、今はただ、遠くへ逃げてしまいたい気持ちだった。
もう、おしまいだ。守りたいものを、何も守れなかった。ユヒラお姉様も、彩王家も。
「ひどいです。私を殺すなら、ここまで辱めなくても」
じわっと涙が込み上げてくる。この瞬間ボクは、完全に負けを認めてしまった。
そりゃあ悪いのはボクだけど、こんなふうに嬲るなんて、あんまりだ。いっそ、この懐剣で――。
「そうではない! 其方を追い詰めてしまったのなら謝るが、そうではないのだ。私自身、確信が持てなかったのだ」
ラン=シー様は、いったい何を謝っているのだろう。悲痛な表情と、その向こうに見える真摯な眼差しが、いったんは崩れそうになったボクを、叱咤する。
「其方は知らぬだろうが、暁矛王は生前、こんなことを言っていた。私が死んだとき、息子たちが成人していなければ、貴殿に後見人を頼みたい。また、その時点で姫の婿が決まっていなければ、それも決めてやって欲しい。もし貴殿が貰ってくれるというなら、それでも構わんが、と。そして暁矛王は、大らかに笑ったものだった。デュミール家の当主になったばかりの私を信頼し、そこまで言ってくれた彼を、私は今でも尊敬している。だが私は、託された王子たちを守ることが出来なかった。言い訳にしか聞こえないだろうが、暁矛で内乱が起こったとき、私は辺境の小競り合いを収めるために、遠征に出ていたのだ。知らせを聞いて駆け付けたときには既に遅く、唯一生き残ったとされるユヒラ殿も、ディヴェラージェ伯の許に引き取られてしまっていた。この四年間、私は、自分の至らなさを責めることしか出来なかった。我ながら情けない話だ。だが、そんな私を救うかのように、其方が現れた。ミネカ殿に似た風貌も、第二王子と同じ名前も、最初は偶然だと思っていた。むしろ逆に、其方を送り込んできた、ノールボワ家の意図を考えたりもした。それでも、嬉しかったのだ。探し求めた鳥が前触れもなく舞い込んできたような、浮かれた気分になっていた」
ラン=シー様は、長い呪縛から解き放たれたような安堵感を、その端整な顔に浮かべた。
逆に、想像もしなかった告白を聞かされたボクは、いっぺんに理解することが難しく、呆然としてしまった。
「私では、其方の騎士にはなれないか?」
ボクの騎士に? なってくれるの?
長くて難しい話よりも、ボクにとっては大切なこと。それは小さな言葉でしかなかったけど、くすんでいたボクの心を、鮮やかな色に塗り替えてしまうものだった。
鈍色の空が割れて、金色の光が射し込むような感じ。
それまでこだわってきたことが愚かしくさえ思えた。
もう、立ち止まっても、いいよね?
歩き疲れちゃった。
ずっと、ひとりで歩いてきたけど、もう歩けないよ。だって、歩いても歩いても、誰も頭を撫でてくれないんだもん。
涙が、頬を伝っていた。
ラン=シー様の顔が間近に迫ってきたかと思うと、次の瞬間には、力強い腕に抱かれていた。
涙が総て、温かい胸に落ちていく。想いも総て、同じ場所へと落ちていく。ボクを優しく包み込む、大きな空へと落ちていく。
「其方の涙は私が受け止める。其方は私が拾った雛鳥――誰にも渡さぬ」
喜びとか、悲しみとか、そういう感情はなかった。ただ、大きな翼に包まれているという安堵感だけが、ボクの心を支配していた。