決意
朝食前にはクラーニアが着替えを届けてくれた――のはいいけど、それをベッドの中で迎えるというわけにもいかないし、ましてや素っ裸というわけにもいかないから、思案し、ラン=シー様の上着を拝借することにした。大きすぎる上着を、ただ羽織っただけの格好だから、ちょっと恥ずかしいけど、我慢しよう。相手はクラーニアだし。と思ったら、ラン=シー様にも見られてるんだった。
「ごめんなさい、変な仕事をさせてしまって」
こんなボクを見て、クラーニアはどう思うんだろう。たぶん、不安が顔に出た。その不安をすぐさま打ち消してくれる、いつもの笑顔――むしろ、いつも以上の笑顔がそこにはあった。
「それは構わないけど、ちょっとびっくりした」
クラーニアの顔には、嬉々とした色も見える。予想していた反応と、ずいぶん違うような。
逆にボクは、苦笑い。どう答えていいか分からなくなる。
「でも、旦那様の相手がミコトで良かった」
クラーニアがボクに顔を近付け、囁いた。
「どうして?」
「だって、第二夫人がミコトなら仲良くして貰えそうだし」
ちょっと、もう、何を言い出すの、クラーニア!
さすがにボクは慌てふためいた。今の、ラン=シー様には聞こえてないよね?
「顔が真っ赤よ、ミコト。本当に可愛いんだから」
「だって、クラーニアが変なことを言うから」
「あら、わりと現実的だと私は思うんだけどな」
それは、ボクの正体を知らないからで。知ったら、どう思うんだろう、クラーニアは。
もし、受け入れて貰えるなら、本当のことを話したい。ふと、そんなふうに思った。
ほっとくと何を言い出すか分からないクラーニアを追い返し、そそくさと着替える。それをラン=シー様に見られているかと思うと、恥ずかしくて、腹立たしい。こっち見ないでって言ってるでしょ!
朝食後。ボクが部屋から出ると、それをアルウィリアに見咎められた。
「ジルラー様の次は旦那様? あなたのように可愛い方が色目を使えば、殿方はさぞ喜ばれるでしょうね」
冷めた物言い。侮蔑の眼差し。ある程度は予想できた反応だけど、やっぱり応える。アルウィリアのこと、そんなには嫌いじゃないから、余計に。
「いけないかしら?」
「その顔が卑怯よ。まるで私が苛めているみたいじゃない。あなたを見ていると本当に苛々するわ」
「なら、私のことは構わないでくださる?」
ボクは、逃げるように書庫へと向かった。ラン=シー様が読む本を探すためだ。
誰かと擦れ違うたび、視線が気になった。みんながボクを見ているような気がしてくる。ボクがラン=シー様の部屋で一夜を過ごしたことは、もう知れ渡っているのかな? 出来れば夫人にだけは知られたくないけど、たぶん時間の問題だと思う。
部屋に戻ると、ラン=シー様が優しい顔で迎えてくれた。それが、ボクには救いだった。
「今すぐお読みになりますか?」
「いや」
「他に何か、御用はお有りですか?」
「側にいてくれたら、それでいい」
そんなふうに言われると、悪い気はしない。ボクは靴を履いたままベッドに腰掛けた。図々しくも、少し身体を傾けるだけで寄り掛かれそうなくらい、ラン=シー様の近くだ。何を、というわけではないけど、ちょっと期待してみる。胸が高鳴った。
ほら。力強い腕。引っ張り込まれる。抗うという選択肢は、ない。抗えないことが言い訳だった。
このまま、ずっと抱き締められていたい。時が止まってしまえばいい。そう願った。
けれど、夢のような時間は長くは続かなかった。扉を叩く音。嫌な予感が、した。
「わたくしです」
紛れもなく、夫人の声だった。
このときボクは、取り繕うことしか頭になくて、ラン=シー様の腕を振りほどこうと必死になった。
もう、どうして放してくれないの!
「協力」
ラン=シー様が耳許で囁いた。確かに協力するとは言ったけど。困惑が、抵抗を奪う。ボクは、全身から力が抜けていくのを感じた。そして、最悪の形で夫人の入室を許すことになる。
ラン=シー様に抱き締められているところを、完全に見られてしまった。もう言い訳も出来ない。ボクは落胆し、諦めた。
ボクを捕らえていた腕が緩む。今更だけど、ボクはベッドから降りた。どう思われていようと、ここから先は召使いらしく振る舞う。
「お邪魔だったかしら?」
僅かに声が上擦っている。夫人にとっては精一杯の強がりなんだと思う。
「いや、どうせ何もしていない。怠惰に過ごしていただけだ」
「何も? 今、ここで見たことも、何もなかったと仰有るの?」
「些事だ」
「ラン=シー様が本気だと仰有るなら、わたくしは何も申しません。ミコトはラン=シー様に差し上げたのですから、お好きになさいませ」
夫人が、覇気もなく言い放つ。何かを待つような眼差しで、一呼吸。何も得られないことを知ってか、視線を落とすと、彼女は背を向けた。
今、どちらかを選ばなければならないとしたら、ボクは夫人を追い掛けたかった。それが出来ないことも分かっていた。
扉が、静かに閉じられた。
再び二人きりになって、ボクはラン=シー様を見つめた。穏やかだけど、何を考えているか分からない表情だ。
「あんな仰有りようでは奥様が可哀想です」
「其方は本気で、あれを心配してくれるのだな」
「なら、どうして」
「側に仕えていたら分かるだろう、あれは正直すぎる。隠し事が出来ない性分だ」
「それにしても、他に言い様はなかったのですか?」
「どう言ったところで同じだ。セライスタが私の部屋に訪れるなど、どれくらいぶりだと思う? ミコトの様子が気になって仕方がないから、わざわざ覗きに来た」
「それは、私とラン=シー様の仲をお疑いだからです」
「そうだろうな。ならば、その場で取り繕っても同じだ。見たいと思う現実を見せてやれば、少なくとも納得はするだろう」
「あれが、奥様の見たい現実だと仰有るのですか?」
見たくない、の間違いじゃなくて?
「あれが、セライスタの思い描いた現実だ。それ以外の現実は、彼女の中で否定される」
ラン=シー様が手を伸ばした。来い、と言っているの?
ボクは戸惑いながらも、ラン=シー様に近寄った。すると、引っ張り込まれた。顔が、近い。
「それに、セライスタは間違っていない」
どういう意味? と思ったら、天地がひっくり返った。仰向けにされたボクの、すぐ目の前にラン=シー様の顔がある。また、戯れ?
不意に、唇が重ねられた。すぐ離れて、また近付く。悪戯っぽい笑みが見えた。やっぱり戯れなんだ。ボクは、目を閉じた。
ラン=シー様のお世話をすることは、楽しい。それが直接的なことでなくても――例えば部屋の掃除をしているだけでも、心が弾む。同じ空間、同じ時間を共有している感じがするから。
本を読み耽っていたラン=シー様が、存在を確かめるかのようにボクを見る。何か言うわけでもなく、また視線を落とす。そんな光景が、なぜだか輝いて見えた。
このまま時が止まればいい。たぶん、今。ボクが知る、最上の輝きだ。こんなにも上質な時間を、ボクは知らない。もう二度と、訪れないかも知れない。次に目覚めたときには違う世界にいるかも知れない。明日が、怖い。こんなにも怖い世界を、ボクは知らない。
終わらせよう。ボクの手で。この、美しくも儚い世界を――。
来て欲しくない夜が訪れた。ラン=シー様と過ごす二度目の、そして最後の夜だ。
最初の夜は、ラン=シー様の優しさに身を委ねた。最高に幸せな朝も迎えた。だから、それ以上の朝は、もう訪れない。色褪せるか、その前に壊れるか、どちらかしかない。なら、壊れる前に壊してしまおう。そうすれば、いつ壊れるか分からない、という恐怖からは解放される。
懐剣を、ラン=シー様の寝室に持ち込むことは簡単だった。ラン=シー様は、ボクの行動を疑いもしない。ボクを、完全に信じ切っている様子だ。
あとは、懐剣をラン=シー様の胸に突き立ててれば終わる。もう決めたことだから、迷わない。懐剣を抜き、その白刃を闇に振りかざせば、迷いも吹き飛ぶと思っていた。迷えば、ボクの命が危うくなる。そんなときに迷うはずがないと思っていた。
風のない静かな夜。ボクは、懐剣を握り締めたままラン=シー様の寝顔を見つめていた。
どうすれば終わらせられる?
どうすれば迷いを断ち切れる?
どうすれば胸の痛みを消し去れる?
そうだ。お別れのキスをしよう。本当に、それが最後だ。
ボクは、そっと唇を重ねた。
本当は、もっと語り合っていたかった。側にいられれば、それだけで良かった。何もしないという贅沢を、一緒に味わっていたかった。
「泣いているのか?」
低い声がした。
涙が落ちていたことに、ボクは気付かなかった。
頭の中が真っ白になる。思わず、懐剣を振り下ろしていた。