7 ジュライス伯爵領(2)
読んで下さりありがとうございます。遅くなってしまいすみません。
カフェを出た一行は、ジュライス伯爵夫妻の提案で砂浜に向かった。
浜辺は日差しを遮るものが無く、足元も悪い。普通の貴族令嬢はあまり楽しめないだろうと、本来は室内から海を見せるだけのつもりだけだったらしいが、先程のルイーゼの喜び様を見て、ナタリア夫人が嫌でなければ、と提案してくれたのだ。当然、ルイーゼは一も二もなく頷いた。
「わぁ……不思議な感触ですのね」
一歩踏み出す度に形が変わる砂浜を歩く。
「靴に砂が入ると中々取れないので気をつけて下さいね」
ナタリア夫人の注意に、ルイーゼは素直に頷いた。
危なっかしいルイーゼの足取りを心配し、スザンナが慌てて追いかける。
打ち付ける波の音が耳に心地良い。
ルイーゼはふらふらと波打ち際に近づくと、しゃがみこんでそっと海水に手を浸した。
寄せては返す波の感触が面白い。
「気持ちいい……」
目の前に広がるのは終わりの見えない水平線のみ。
言葉では言いようのない開放感に襲われ、ルイーゼは深呼吸を繰り返す。
「もう二カ月前なら海で泳げたんだがなぁ」
隣に並んだ伯爵が残念そうに言うので、ルイーゼは目を丸くした。
「伯爵様はこの海で泳がれるのですか!?」
「ははっ、驚いたかい?まぁ貴族で海で泳ぐ人は中々いないからねぇ。夏は信じられない位気持ちいいんだよ」
「この人、止めても聞かないの。お陰で夏も過ぎたっていうのにこんなに日焼けしたままよ」
ナタリア夫人は困った人、と言いながらも、その瞳は優しい。
「マックスは泳いだことがあるのかしら」
「いや、流石に無いな。クロムウェルの領地は内陸だしね」
「泳ぐのは無理でも、船は中々気持ちいいのよ?毎年身内だけで船上パーティーもやってるの。良かったら来年の夏は是非一緒に乗りましょう」
「えっ、いいんですか?私、船って乗ったことないです」
「あら、じゃあ絶対乗らなくちゃ。マクシミリアン卿もね?」
「ええ、楽しみにしています」
社交辞令だろうとは思いつつ、ルイーゼはその言葉が嬉しくて、作り笑いも忘れて笑った。マクシミリアンも笑顔で頷いている。
今年の夏も過ぎたばかりだというのに、もう来年の夏が楽しみだなんて。
先の予定が楽しみで、時間が早く過ぎればと一瞬でも思うなんて、一体いつぶりだろうか。
なんとなく足元に目を落とすと、小さな蟹やヤドカリが砂の上を闊歩している。海を初めて見るルイーゼには、初めて目にする生き物ばかりだ。
小さいながらも中々俊敏に動く彼らを目で追っていると、その先で十歳前後くらいの子ども達が浜辺で何かを拾っているのが見えた。
「あの子達は何を拾っているのですか?」
「ああ、あれは貝殻やシーグラスを拾っているんだ。中々いい小遣い稼ぎになるから」
答えてくれたのは伯爵だ。
「シーグラス……とは?」
何気なくマクシミリアンに目をやると、彼もまた首を捻っていたので知らないらしい。
伯爵はたまたま此方を振り向いた子どもを手招きすると、手に持っていた袋の中を見せるよう頼んだ。
「うわぁ……!」
男の子が警戒しつつもおずおずと見せたくれた袋の中には、真っ白に輝く貝や薄いピンク色をした貝、綺麗に渦巻いた巻き貝など、様々な貝殻が集められていた。その中に幾つかカラフルな石が混ざっている。
伯爵は男の子に一言断ると、その中から青い石を摘み、太陽の光に翳してみせる。
「これがシーグラスだ。ガラスの欠片が波や砂利に晒されて角が丸く、すりガラス状になったものだよ」
「凄く綺麗です!」
「宝石とはまた違った美しさが有りますね」
感心したようなマクシミリアンの呟きに伯爵が嬉しそうに頷いた。
「庶民向けの土産物屋なんかでは、このシーグラスをアクセサリーや飾り付けに加工したものが人気なんですよ。貝殻なんかと一緒に集めて売れば、おやつ代くらいにはなるので、ここらの子どもらは時間が空くとこうして砂浜に来て拾うんですよ」
じっと手の平にのせられたシーグラスを見つめているルイーゼを見て、マクシミリアンがポケットを漁り小銭を取り出した。
「坊や、このシーグラスを譲ってくれないかな」
「うん、別にいいよ」
ありがとうといってマクシミリアンが頭を一撫ですると、シーグラスと引き換えに小銭を貰った男の子は仲間たちの元へ戻っていった。
「ん」
「え?」
マクシミリアンがルイーゼの手に先程買い取った欠片を落とす。
「今日の記念に」
「……いいのですか?」
マクシミリアンが答える代わりに笑顔で肯定する。
「ありがとう……大切にするわ」
ぎゅう、と頬を僅かに染めシーグラスを握りしめるルイーゼを、ジュライス伯爵夫妻は微笑ましく見ていた。
以前伯爵夫妻がルイーゼを夜会で見かけた際は、魅力的な微笑みを浮かべながらもどこか人を拒絶するような雰囲気があったが、今夫妻の目に映るルイーゼは、年相応にのびのびとして、健やかな雰囲気を放っている。
マクシミリアンとの間には、ただの友人……とは言い難い微妙な空気が漂っているようにも思うが、確か自分の弟とマクシミリアン、それにルイーゼの夫のヴィンセントは学園の同級生だったはずだ。何か事情があるのかもしれないと、伯爵も夫人も特に二人の関係について言及する気はなかった。
「海とガラスっていうジュライス領ならではのものでしょ?」
「素敵です……」
「良かったらいくつか土産屋に行ってみる?此処からすぐ近くだから」
ナタリア夫人の嬉しい申し出にルイーゼとマクシミリアンは笑顔で頷いた。
砂浜から歩いて五分程進むと、賑やかな通りに出た。整備された道の両側に土産物屋や食堂が並んでおり、出店もいくつか見られる。
「わ、賑わってますね」
時刻は昼を数刻過ぎていたが、領民たちは思い思いの恰好で買い物を楽しんだり、食事をしたりしている。
伯爵によると、海辺の近くは漁師など朝早い時間帯から働き、夕方には就寝する人もいるので、この時間に夕食を摂る人たちもそれなりにいるらしい。
一行はナタリア夫人の案内で人気の土産物屋に入った。
店内は海と砂浜を感じさせるブルーと白で統一され、貝殻や魚をモチーフにした小物や雑貨が所狭しと並べられている。天井には椰子の実を削って作られた飾りが吊され、貝殻と流木で出来た窓辺のウィンドチャイムが時折小気味良い音を響かせている。
「すごい……」
ルイーゼは店内を見回して圧倒された。これまで入ったことがあるのは、殆どが明らかな貴族向けの店で、どちらかというと店員に希望を告げ、めぼしい商品を並べてもらうような方式の店が多かったため、自分であれこれ商品を選ぶタイプの店は初めてだったのだ。
子どものように目を輝かせて店内を見るルイーゼの口が半開きになっているのを見て、マクシミリアンは優しい笑みを浮かべた。
「この辺りはさっき話していたシーグラスを使った商品ね」
ナタリア夫人が指した辺りには、言葉通り沢山のシーグラスを使った小物が並べられていた。かなりスペースをとられているところを見ると、人気商品らしい。
ワイヤーで作られた球体の中にシーグラスが入ったものがペンダントトップになっているものや、シーグラスを上手に組み合わせて飾った小物入れ、細かなシーグラスを繋げたブレスレットやブローチ。
手頃な値段でかさばらないのでお土産にも丁度良さそうだ。ルイーゼは暫しの間、伯爵夫妻やマクシミリアンのことも忘れ、買い物に勤しんだ。スザンナに相談しながら屋敷の使用人へはブローチ、ヴィンセントへは悩んだ末に貝殻とシーグラスを組み合わせたループタイ、そして少し他の物より値は張ったが、貝殻を銀色になるまで磨き上げ加工したカフスボタンを選んだ。
「自分の物は買わないのか?」
「ええ、私はもうマックスから貰ったこれがあるもの」
ドレスの隠しポケットから、先程の青いシーグラスを大事そうに取り出すその姿を見て、ぱっと顔を逸らしたマクシミリアンが耳まで赤くなっていたことに、ルイーゼは気付かなかった。
「マックスは?」
「俺はいいかなぁ。残念ながら恋人もいない独身だし。殿下に買ってもいいけど変に勘繰られてもなぁ」
「お母様やお父様には?」
「あーダメダメ。うちの家族ってちょっと面倒くさいんだ。母に買ったら父に買わないと駄目だろ、それでもって父に買ったら二人の兄、二人の兄に買ったらその嫁、姪、甥……ってさ、もう収拾つかなくなるの。仕事のついでに折角だからって買っていって、土産が足りないって何度文句言われたことか。だから俺は土産は気軽に買わないことにしてる」
うんざりした表情を浮かべるマクシミリアンに、その様子がなんとなく想像出来て笑ってしまう。
「マックスのご家族は皆仲が良いのね」
「仲が良い……のか?たまに寂しくなって実家に帰るけど、結局うるさくて暫くいいやってなるよ」
「ふふ、ちょっと羨ましいわ。私の実家はそんなに賑やかだったことないから」
「そうなのか?確か弟がいる……よな?」
「ええ。十歳下だから、今九歳ね。年が離れているから、あまり交流もないの」
何処か寂しそうに語ったルイーゼを、スザンナが後ろから悲し気に見ていた。
ひとしきり買い物を楽しんだ後、「普段王都ではしないこと」をしてはどうかと、伯爵の提案で四人で海鮮串焼きを食べ歩きした。
意外なことに伯爵は勿論、ナタリア夫人も領地では食べ歩きはよくするのだという。
王太子の命で各地で平民に混じって視察することが多いマクシミリアンも妙に慣れていたため、ルイーゼはひとり初めての食べ歩きに悪戦苦闘することになった。
伯爵の勧めで購入した串焼きは、数種類の貝に大振りの海老やイカが刺さったボリュームのあるもので、ルイーゼの口にはどの具材もかなり大きい。
内陸に位置する王都では、魚介類はそれほど食べられる場所が多くなく、あったとしても輸送費用が加算され、他の食材と比べてかなり高額になるため、普段あまり食べることはない。海鮮を食べ慣れていないルイーゼが中々噛み切れないそれらと格闘していると、
「こういうのはね、マナーだとか女らしくだとか気にしていると美味しくないから、思い切っていくのよ。こう、口を大きく開けて噛み切るの!」
ナタリア夫人が見本を見せてくれた。その美しくも豪快な食べっぷりに、目を丸くしながらも感心してしまう。伯爵夫人が大口を開けてホタテを頬張る姿など、王都ではまず見られない。
ルイーゼはなんだか楽しくなって、思い切って夫人を見習い串焼きに噛り付いてみれば、鼻に抜ける磯の香りと、口いっぱいに広がる自然な貝の甘味に思わず唸った。新鮮な魚介のぷりぷりとした触感と、噛めば噛むほど広がる旨味。
隣を見れば、マクシミリアンはぺろりと一本目の串焼きを平らげ、既に二本目に突入している。伯爵も同様である。
「一本目は塩だったから、二本目はタレにしよう」
「エディ、一口交換しましょう」
違う味を交換しあっている伯爵夫妻を少し羨ましい気持ちで見ていたら、
「ほら」
「え?」
マクシミリアンが串焼きを差し出して来た。
「こっちも食べてみたいんだろ?一口どうぞ」
思いがけない申し出に動揺して思わず伯爵夫妻を見るも、ふたりはいつの間にか自分たちの世界に浸りいちゃいちゃと串焼きを食べさせ合っていた。
マクシミリアンがほんの少し意地悪な笑みを浮かべてくる。なんとなく、此処で尻込みするのが悔しくて、ルイーゼは思い切って差し出された串に噛り付いた。恐らく伯爵家で教わったマナー教師が見たら、卒倒するであろう。
濃厚なタレがよく絡んだ海老を噛み締める。それまで食べていたシンプルな塩味とはまた違った美味しさだ。
「美味しい!」
目を輝かせたルイーゼを、マクシミリアンが妙に優しい目で見るので、今の行動が“正解”だといわれているような気がした。
初めてマナーを気にせず口にした串焼きは、今まで食べた海鮮類の中で一番美味しかった。
「まだまだ沢山案内したいところはあるんだが、時間的に厳しいかな」
串焼きの後に果実水を飲んでさっぱりとしたところで、ジュライス伯爵が懐から時計を取り出した。まだ夕方にはなっていないが、王都までかかる時間を考えると、そろそろ出発した方が良さそうだ。
名残惜しい思いで歩いていると、ふと一軒の店が目に付いた。
看板は特に出ておらず、扉が開け放たれている。開いた扉から見えるこじんまりした店内には、中央に大きなテーブルがひとつ置かれており、見事な装飾が施されたガラスの器が美術品のようにいくつも並んでいた。
思わず足を止めたルイーゼを後ろからナタリア夫人が覗き込む。
「あら、今日は開いている日なのね」
「いつもは閉まっているお店なのですか?」
不思議に思って尋ねたルイーゼに答えてくれたのは伯爵だった。
「此処の工房の作品は近頃人気が出て、王都に新しく工房を作ったんだ。王都と此処を行き来しているから、最近では閉まっていることも多いんだよ」
折角だし、最後に見ていくかい?という伯爵の誘いに甘え、店内を見て回ることにした。
「いらっしゃいませ」
声を聞きつけ、店の奥から出てきたのはマクシミリアンと同じか、それより少し年上に見える青年だった。海辺の街に店を構えているだけあって、程よく日焼けした肌をしている。
「カイ、久しいな」
「エドワード様!お久しぶりです」
伯爵とカイと呼ばれた店員は顔見知りらしい。ラビの時と同様、身分差があるにも関わらず気安い口調で話している。
「こちら、クロムウェル子爵とバークレー侯爵夫人だ」
伯爵の紹介に二人が簡単な礼を取ると、カイは一瞬目を丸くし、直ぐに商売人らしい笑みを浮かべた。
「どうも初めまして。店主のカイと申します。気に入ったものがあれば、手に取って見てみて下さい」
「此処にある作品は全て貴方が造っておられるのですか?」
「いえ、全てというわけではありません。半分くらい、ですかね。俺の、あ、私の父や弟子が共同で造ったものもあります」
「へぇ……」
会話しながらも、ルイーゼの目はひとつのグラスに吸い寄せられていた。
取っ手の無いグラスで、黄色とオレンジの細かい花がグラスの上半分をぐるりと取り囲み、下半分は乳白色のすりガラス状になっており、所々に金が塗られている。今にも特徴的な香りが匂い立ってきそうなそれは、ルイーゼに遠い日の記憶を思い出させた。
幼い日父の後をついていった先の、チョコレート色の屋根の家。
ルイーゼの住む屋敷と比べれば猫の額ほどしかないその庭には、オレンジの花が咲いていた。
目を閉じると陽に透けて金色に輝く花弁の色や独特の香りまで思い出せる。
他の場所で見たことがないその花を、何気なく図鑑で調べた。その花が持つ花言葉のひとつが『真実の愛』だと知った時から、ルイーゼが大嫌いになった花。
「あまり見ない花だな」
マクシミリアンが呟く。
「それ、金木犀じゃないですかね」
滅多に口を開かないマクシミリアンの従者であるアズマが言った。
「俺の故郷……此処よりずっと東にあるんですけど、そこではよく生えてました。花が咲くと独特のいい香りがするんで、千里香って呼ばれたりもするんです。王都では殆ど見かけませんが」
「ええ、確かにそんな名前の花だと、これを考えた奴が言ってました」
じっとグラスを見つめるルイーゼに、カイが話しかける。
「それ、お気に召しましたか?」
「え?ええ……美しいですわね」
「良かった。実はそれ、最近入った弟子が考案した図案なんです。技術は全然なんで、図案だけなんですけど。侯爵家の奥様に気に入られたと言ったら、あいつ喜ぶと思います」
「そのお弟子さんて……」
「王都に新しく造った工房に押しかけてきたんですよ。弟子にしてくれって。最初は追い返そうと思ったんですけど、中々根性がありそうだったんで見習い、ってことで弟子にとったんです」
「そう、ですか」
黙り込んでしまったルイーゼに、カイは不思議そうに首を傾げた。
「良かったら、王都の方に一度見に来てみませんか?」
「え……」
「砂を使って加工するんで、汚れてもいい服で来てもらえれば、俺で良ければ案内しますよ」
にこやかに提案するカイに、伯爵は「お、やるな。ついでにうちの領地をガンガン売り込んでくれ」と笑っている。
興味があれば一度来てくださいと工房の地図が入った名刺を渡され、ルイーゼは曖昧に頷き店を出た。
帰り際、ルイーゼの表情の陰りに気が付いたマクシミリアンがそっと耳打ちする。
「どうした?何かあったか?」
「ううん、なんでもないの」
顔を上げたルイーゼは何事もなかったかのように微笑んでいたため、マクシミリアンはそれ以上尋ねることはしなかった。
***
「今日一日、どうだった?」
揺れる馬車の中、マクシミリアンが問いかける。
二人は今、ジュライス伯爵領からの帰路についていた。
「そうね、とても楽しかった。ジュライス伯爵も夫人も素敵な方達だったし、海が見れたのも嬉しかったわ。食べ歩きも楽しかった。夕焼けに染まる海が見れなかったのだけは、少し残念だけど」
一日を振り返り思う。ジュライス伯爵も、ナタリア夫人も、きちんと会話するのは初めてだったのに、とても貴族とは思えない程話しやすい人たちだった。帰り際、また必ず来てね、と干物のお土産まで貰ってしまった。
「それは仕方ないな。時間的にギリギリだ。泊りはヴィンセントに禁止されているんだろう?」
「ええ」
数日前、伝えるか迷った末にヴィンセントにマクシミリアンと遠出することを伝えた。勿論、マクシミリアンと交わした約束の内容については伏せて、だ。ヴィンセントはきっと、マクシミリアンとルイーゼが本当に関係を持っていると思っている。そのことについて、真実を打ち明ける気はルイーゼにはなかった。少なくとも、今はまだ。
ヴィンセントは必死に懇願してきた。マクシミリアンと出掛けることを止めはしないが、絶対に家に帰ってきてほしいと。
そう言われれば、確かにヴィンセントはメリッサと関係を持っている間も外泊したことはなかったな、と思い返し、ルイーゼは了承した。
元々マクシミリアンも忙しい身の上だ。仕事以外に泊りで何処かに行くことは厳しいとのことなので、二人で出掛ける際は王都から日帰りで行ける距離に限定されることになった。
「夕焼けは、今度ヴィンセントと一緒に見に行ったらどうだ?」
「……ヴィンセントはきっと、私を外に出したがらないわ」
「愛されてるな」
つい、いつも他の人と軽口を叩くように返してしまったのだろうマクシミリアンは、何気なく口にした後一瞬しまった、という表情を浮かべた。
「本当にそれは、愛……だったのかしら」
ルイーゼの呟きは、馬車に吸い込まれていく。
ヴィンセントは口では社交嫌いのルイーゼを窘めるようなことを言いつつも、実際にルイーゼが外に出るのはあまり好まないようだ、と、まだ短い結婚して日が浅いルイーゼでも気が付いた。
そもそも伯爵令嬢時代も屋敷に引き籠っていることが多かったルイーゼなので、今までそれを特に不安に思うことはなかったが、今日こうしてマクシミリアンと共に王都の外まで足を延ばしてみて――果たしてそれは正しかったのだろうか、とふと考えてしまった。
今までルイーゼが引き籠りがちだったのは――認めたくはないが――傷つきたくなかったからだろう。外の世界は自分を傷つける物に溢れているから。近づかなければ、知らなければ、傷つくことはないと無意識に距離を置いていたのではないか。
今日ルイーゼは気が付いてしまった。今まで拒絶してきた外の世界には、嘘や疑問が溢れていることは確かだ。けれど、ジュライス伯爵夫妻のように善良な人達や、美しい景色、知らなかった知識――ルイーゼが拒絶してきたものの中には、彼らも含まれているのだ。
ヴィンセントはよくルイーゼに言っていた。「君を愛している。君はそのままでいい」と。
けれど、本当にそうなのだろうか。
傷つきたくない、ただそれだけで全てを拒絶してきた自分は、本当に正しいのだろうか。
これまで出会った人たちの中は皆、ルイーゼの容姿に惹かれ、肩書に惹かれ、欲望に貪欲な人ばかりだと思っていた。けれど、そうではないとしたら?それだけではないとしたら?
だってルイーゼは彼らのことを何も知らない。知る前に拒絶してきたから。お忍びの服装をして出かける父の後をつけたあの日、母と見知らぬ青年が睦み合っているのを扉の隙間から目撃したあの時――そこから目を逸らして、見なかった振りをしたように。
膝の上の小さな木箱に視線を落とす。中に入っているのは、大嫌いな花をモチーフにした美しいグラス。
いつも通り、荷物を預かろうとしたスザンナを断って、自身の膝の上に抱えている。
なぜ購入したのかも、なぜ自分で持とうかと思ったのかも、聞かれてもうまく答えられない。
暫く沈黙が続き、ふと向いを見るとマクシミリアンはうとうとと微睡の中にいた。余程疲れていたのだろう。
侯爵家に着く頃には、マクシミリアンは完全に夢の中にいた。王太子の側近である彼が忙しいのは知っている。今日のために、この数日仕事を詰めていたに違いない。
「そのまま寝かせてあげて」
ルイーゼは慌てて主を起こそうとするアズマを制し、スザンナの手を借りて馬車を降りた。
アズマが焦った様子で外に出てくる。
「いいのですか?大変なご無礼を……」
侯爵夫人をエスコートせず、馬車で寝こける子爵と字面だけ聞けば確かにまずいが、侯爵夫人といってもヴィンセントのおまけでしかないようなルイーゼと、侯爵家出身で王太子の側近であるマクシミリアンとでは、立場が違う。
気にする必要はないと、ルイーゼは微笑んで首を振った。
「そもそも付き合っていただいているのは私の方なんだもの。今日はとても楽しかったって、後でマックスに伝えて貰えるかしら」
「はい、必ず伝えます」
「それと、これ」
スザンナに持たせていた荷物から、小さな小箱を差し出す。アズマは躊躇いながらも受け取った。
「大したものではないけど、今日の御礼。目が覚めたらマックスに渡して貰える?」
実は土産物店でヴィンセントのカフスボタンを見ていた時、マクシミリアンのブルーグレイの瞳と同じ色合いで、美しく磨かれた貝を銀細工でぐるりと囲んだ物を見つけていた。
平民にすれば高級品だが、貴族としてはそれ程上等なものではない。
マクシミリアンは特に自分への土産などは買っていなかったから、少しでも思い出になるものをと思い、気付けば購入していた。
数秒不思議そうに箱を見つめたのち、アズマは「必ず」と再び頷いた。
目が覚めた時には馬車の中にルイーゼの姿は無く、自身の不甲斐なさに肩を落としていたマクシミリアンが、アズマから渡されたその小箱を開いて手で顔を隠し、暫くの間呻いていたことを、ルイーゼは知らない。