5 提案
読んでいただきありがとうございます。難産な上、一度データが消えるという不幸に見舞われ遅くなってしまいました。データはこまめに保存すべきですね……
マクシミリアンに連れてこられた宿屋は一見すると普通の食事処のようだった。
店で食事しているのはパッと見ただけでも裕福そうな印象を受ける人達ばかりで、貴族がお忍びで利用していてもおかしくない。
しかし、とルイーゼは僅かに眉を寄せた。
「あの……マックス?此処で本当にあっているのかしら」
困惑を隠せないルイーゼにマクシミリアンは意味深な笑みを浮かべると、答える代わりに紺色のジャケットを着た店員に声を掛けた。
「やあ、ティラミスは残っているかな?」
「ようこそいらっしゃいました。ええ、丁度残りの一つがございます。食後のコーヒーはいかがいたしますか」
「ああ、お願いするよ」
「かしこまりました」
店員はマクシミリアンににこやかに応じると、先端に水晶のついた鍵を手渡す。
「ありがとう」
マクシミリアンはルイーゼの手を引くと、迷いのない足取りで店の隅にある階段を上り始めた。
階段は外壁に馴染むよう完璧に塗装してあり、一見すると壁に同化して存在が分からないようになっている。
ルイーゼは感心しながらマクシミリアンの後に続いた。
「足は大丈夫か?階段がつらければまた抱きあげるぞ?」
「け、結構ですわ……じゃなくて結構よ」
気を抜くと元の言葉遣いに戻ってしまうルイーゼは、先程横抱きにされたことを思い出し、頬を赤らめながらにやつくマクシミリアンを睨んだ。
一方マクシミリアンはくくく、と笑いを押し殺しながらも飄々としている。
階段を上ると、ドアがいくつか並んでいた。
どのドアも美しい彫刻で飾られ、丁度目線の辺りに彫り込まれた見事な花弁の中心には宝石が埋め込まれている。
エメラルド、ガーネット、トルマリン……と、部屋ごとに宝石の色は違っているようだ。
「此処だな」
マクシミリアンが足を止めたのは、花の中心に水晶が埋め込まれた部屋だった。
マクシミリアンが取り出した鍵を見て、成程、渡される鍵と同じ宝石が埋め込まれたドアの部屋を使え、ということかとルイーゼは納得した。
マクシミリアンに促されて部屋に入ると、中は暗いトーンの赤と茶を基調にした、意外にも落ち着いた雰囲気の部屋だった。ルイーゼの暮らす侯爵家や生家の伯爵家程までとはいかないが、下級貴族の邸宅の一室と言われても違和感がない。
物珍し気に室内を見回すルイーゼを苦笑しつつもソファに座らせると、驚いたことにマクシミリアンは壁際に置いてあったティーセットで手ずからお茶を淹れてくれた。
「ありがとうございます。言ってくだされば私がやりますのに……」
申し訳なさそうにルイーゼが眉を下げると、マクシミリアンは気にするなとからりと笑った。
「茶を淹れるのは慣れてるんだ。エリク……殿下とふたりの時は、大抵俺が淹れている」
「まぁ……侍女や侍従はおりませんの?」
「勿論いるが、毒見や何やと色々と面倒なんだ。彼らにも他に沢山仕事があるし、茶のためだけに一々呼びつけるのもなぁ、と思って屋敷の侍女に習ったんだ。殿下も淹れられるけど、流石にね」
「そうなんですの……」
ルイーゼからしたら天上人のように遠い存在に感じる王太子やその側近が、使用人を煩わせることを気にして自らお茶を淹れているとは思ってもみなかった。
「そんなことより、言葉遣いがすっかり戻っているぞ、ルイーゼ」
「あっ……すみません」
「俺は別にどちらでも構わないんだが、今後こうして会うなら慣れた方がいいだろうな」
「そうですわね……いえ、そうね。気を付けるわ」
きゅっと顔を引き締めたルイーゼとは対照的にマクシミリアンはリラックスした様子で腰掛けている。
「ところで、マックスは甘党なのね」
「ん?確かに嫌いなわけではないが、特に甘党というわけでもないぞ」
「え、先ほどカフェでケーキを食べたばかりなのに、ここでもティラミスを頼んでいたわ」
きょとんとするルイーゼと目があって数秒――マクシミリアンは腹を抱えて笑い出した。
爆笑するマクシミリアンに目を点にしながらも、自分の発言を面白がっていることは理解できたので少しむっとする。
「……レディを前に失礼ですわ」
「す、すまない……ぶっくく……」
数分経って漸くマクシミリアンの笑いが収まる頃には、ルイーゼの目はすっかり据わっていた。
笑いすぎて目尻に溜まった涙を拭いながらマクシミリアンが弁解する。
「ティラミスっていうのは、二階の部屋を使いたい、って隠語だ」
「隠語……ティラミスが……?」
ティラミスと言えば、何年か前に異国から伝わったエスプレッソを染み込ませたビスケットにカスタードとチーズを合わせたクリームを交互に重ね、仕上げにほろ苦いココアパウダーを振ったお菓子だ。ふわふわとして口当たりよく、他のお菓子類よりお腹に溜まりづらいため、伯爵家で暮らしていた時にはよく食後のデザートに作ってもらっていた。
それが何故隠語になるのだろう。ルイーゼは首を捻った。
「ティラミスっていうのは、異国語で“私を引っ張り上げて”って意味らしいんだが、転じて“私を天国へ連れて行って”というメッセージが込められた、夜のお菓子なんだ」
この言い回しが理解できるか、と言外に滲ませ片側の口端を吊り上げるマクシミリアンはチャーミングだが、少し意地悪だ。
まるでお子様と言われているようで、内心腹立たしく感じながらもルイーゼはそれを感じさせないすました顔で会話を続けた。
「では……先ほどの会話は、部屋が空いているかの確認だったのね」
「ああ、そうだ。部屋に空きが無ければ“売り切れ”と言われる」
「“食後のコーヒー”は?」
「コーヒーは眠気覚ましに飲むことが多いだろ?だからあれは部屋に泊まっていくか、一時的な利用か聞いてるんだ。“食後のコーヒーがいるか?”に対しイエスなら、眠気を覚ます必要がある=泊まっていかないってことだ」
「成程、先程の会話はそういう意味があったのね」
マクシミリアンの説明に納得しながらも、ルイーゼは意外に思っていた。
「迷わず部屋に来たことといい、随分慣れているのね。マックスは女の影を感じさせない実直な男性との評判を聞いていたのですけど、実際は遊び慣れているのかしら」
それなりの容姿も地位も金もある男性だ。女性経験が皆無だとは最初から思っていないが、今まで浮いた噂らしい噂が一度もないことから、もう少し堅物かと想像していた。
まあ、遊び人なら遊び人でも構わないのですけど。
ルイーゼが内心そう呟いているとも知らず、マクシミリアンが妙に焦った様子で身を乗り出す。
「ち、違う!いや、女性と来たことが一度もないとは言わないが……こういう場所は、何も色事だけに使われるわけじゃないからな!?内密に話をつけたい相手や周囲に知られずに取引をしたい場合なんかにもそれなりに使われるんだぞ」
「そうなのね」
「信じてないな?」
「いいえ、信じているわ」
マクシミリアンは暫くルイーゼに疑わしい目を向けていたが、諦めたのか息をひとつ吐き出すと、鞄から袋を取り出しルイーゼの足元に膝を着いた。
「な、なんですの?」
「右足、出して。手当てしないと」
戸惑うルイーゼにマクシミリアンがブーツと靴下を脱ぐよう促す。
普通、貴族の女性は医者以外には余程近しい関係ーーそれこそ家族や恋人でもないと生足を見せることはない。
貴族社会では一般に足を見せることははしたないとされ、膝下のスカートでさえ、許されるのは淑女教育が始まる五歳頃まで。
それ以降は独身の間は足首まで、既婚女性や未亡人は足首まですっかり覆った丈のスカートを着用する。明文化されているわけではないが、暗黙の了解というやつだ。
今日のルイーゼは町娘の格好をしているので、ふくらはぎの中頃までの丈のワンピースを着ているが、どうにも落ちつかなく侍女に頼んで用意してもらった足首まである編み上げブーツと厚手の靴下を履いている。
どうすべきか迷うルイーゼに焦れたのか、マクシミリアンは無言でルイーゼの右足を引き寄せると、あっという間に紐を緩め、靴と靴下を脱がしてしまった。
「ちょ、ちょっと!」
「動くな、傷口が消毒出来ない」
「うう……こんなの、はしたないわ」
マクシミリアンのひんやりした指が直接肌に触れる度にルイーゼの顔は赤くなっていく。
「まったく……それで本当に俺とベッドを共にする気か」
まるで男を知らない生娘のような反応に苦笑いを浮かべながらも、その口調はどこか嬉しそうだった。
「よし、これで大丈夫だ。明日には傷も塞がっていると思うが、今日はもうあまり歩かない方がいい」
「ありがとう……。お陰で痛みが引いたわ」
マクシミリアンの手際は驚くほどよかった。高位貴族出身の生粋の貴族であるはずなのに、叩き上げの軍人に近い雰囲気がある。
「それ、いつも持ち歩いているの?随分手際がよかったけど」
マクシミリアンの手元に視線を落とす。
手の平より一回り大きいサイズの革袋には、小分けにされた軟膏や包帯、ガーゼなどがコンパクトに収納されているのが見える。
「仕事柄色々なところに行くし、何かあった時にとりあえず応急処置くらいは自分でする必要があるから、いつも持ち歩くようにしてる」
「そんなに危険な仕事をしているの……?」
「いや、いつもってわけじゃないよ。君みたいなお嬢さんにいつ会うとも限らないし、あくまで念の為だから」
わざと冗談めいた言い方でマクシミリアンが笑う。
けれど、ルイーゼはマクシミリアンの都合を考えず、勢いだけで情事の相手を依頼してしまった自分を恥ずかしく思い俯いてしまった。
軽々しく約束を取り付けてしまったが、今日だって本当は忙しい合間を縫い時間を作ってくれたに違いないのだ。
マクシミリアンが自分の願いを受け入れてくれたとして、自分はマクシミリアンに何を返せるのだろうか。タダで後腐れなく夫公認で関係を持てるのだから、それでお互い様だと傲慢にも思っていなかったか。
ルイーゼの落ち込みを察したのか、道具をさっさと片付けたマクシミリアンが改まって話し出す。
「なぁ、ひとつ聞きたいんだが、どうして俺を選んだんだ?ヴィンセントの友人なら他にもいただろう。俺は学生時代はヴィンセントと行動することもあったが、今は夜会やなんかで偶然会えば話をする程度だ。日常的に交流があるわけじゃない。勿論君とも結婚式の日に話したのが最初で最後だし――ヴィンセントの友人ということ以外に何か理由があるなら聞きたい」
真剣な瞳で見つめてくるマクシミリアンの質問の意図を計りかねながら、そういえば何故かしら、と考えた。
これ、という明確な理由があるわけではないのだ。
後腐れがなさそう、というのも少し違うように思う。
ただなんとなく、一番に頭に浮かんだ。この人なら大丈夫そうと思った。
結婚式でホストと招待客として会うまで言葉を交わしたことはなくとも、次代の王の右腕ともなれば、その存在はいかに社交界に疎いルイーゼでも流石に知っている。
忙しい合間を縫って時たま夜会に顔を出す彼は、独身男性の中でもかなり好条件のため、夜会の始めは女性たち――特に結婚相手を探している年頃の令嬢たちがいつも殺到していた。
しかし夜会が終盤に差し掛かる頃には、彼に群がっていた女性たちは他の男性と踊ったり会話を楽しんだりしているのだ。
同じような状況を何度か目撃し不思議に思ったが、少し見ていればその理由はすぐにわかった。
マクシミリアンは良くも悪くも人によって態度を変えない。決して冷淡ではないが必要以上に優しくはしない。紳士的だが相手におもねることはしない。その淡泊な態度は男性からちやほやされることに慣れている貴族の女性たちには物足りなく感じるのだろう。
答えあぐねて前を向くと、マクシミリアンと目が合った。
その瞬間、ルイーゼは答えがわかったような気がした。
「そうね、多分、貴方が私を見る瞳に、欲がなかったから……かな」
「欲?」
怪訝そうな顔をするマクシミリアンにルイーゼは首肯する。
「目は口程に物を言う、って昔から言うでしょ?私を見てくる人たちの瞳には、いつも色んな欲が浮かんでいるの。両親や友達でさえそうだった。ヴィンセントさえもね」
自分ではよく分からないが、他人より優れているらしいこの容姿も、侯爵夫人という立場にも、邪な思いを抱く人間は多い。
それが悪いこととは言わない。
仮にヴィンセントの瞳からルイーゼへの欲が消えたら、ルイーゼの心はきっと痛むだろう。
けれど。
「私と向き合った貴方の瞳にはなんの欲望も浮かんでいなくて、純粋に友人の結婚を祝福しているだけと分かった。あの日言葉を交わした人は沢山いたけれど、貴方のようにただ純粋に祝福をしてくれた人は他にひとりもいなかったわ。私、あの時何故王太子殿下が貴方を重用するのか分かった気がする」
「そうか……君は俺を信頼してくれるんだな」
「ええ」
ならば、信頼には信頼で応えないと。
マクシミリアンの小さな呟きはルイーゼには聞こえなかったが、彼の表情が真剣なものに変わったのは分かった。
「ルイーゼ、俺は君に謝らなければならないことがある」
「謝らなければならないこと……?」
「俺は最初から君と関係を持つつもりは無かった。個人的にも立場的にも醜聞は避けたいからな。君のメモを見れば、一日で回りきれる訳ないのはすぐにわかったし……様子見して、君が抱いてと言ってきても適当にキスでもして帰すつもりだった」
「……では何故、あの時引き受けるなんて言ったの?」
「それは……」
ルイーゼの問いに逡巡するように目を泳がせた後、マクシミリアンが口を開いた。
「君が、あまりに危うかったからだ。もし俺が断ったらどうするとあの時聞いただろう?」
ルイーゼは頷いた。確かに聞かれた。
「君が見た目に反して存外頑固な性格であることはすぐわかった。なんせ、あのヴィンセントを振り切ってきたのだからな。今日だって契約書をもぎ取ってきたくらいだし。俺があの場で断ったら、君はあの時の言葉通りに違う男に同じ内容を打診した。違うか?」
「いいえ、きっとそうしたと思うわ」
「君がしようとしていることは、君が思っているよりも危険なことだ。男が皆、俺のようだとは限らない。どうも君はいまいち自分自身の価値をわかっていない」
そんなことはない、とルイーゼは内心呟く。
なんせマクシミリアンの時間を自分に差し出させることに対して、自分の身体を差し出すことでチャラになると無意識にも思っていたことに先ほど気がついてしまったからだ。
それに、と急に気まずそうな表情を浮かべたマクシミリアンが続ける。
「俺も一応男だからな。君は俺の瞳に欲がないと言ったけど、俺だって内面はそれなりに欲に濡れている。ルイーゼのような美女にあからさまに誘いを掛けられれば、そりゃあ多少はその……その気にもなる」
「何故、今それを私に……?」
「そりゃ、曇りのない瞳で、信頼している、なんて言われたら、不誠実な態度ではいられないさ」
マクシミリアンが些かばつが悪そうに頬を掻く。
「なぁ、ルイーゼ。君は『愛』が分からない。だからヴィンセントが教えてくれる『愛』を理解するために俺と関係を持ちたい、と言ったよな」
ルイーゼは頷いた。
「でも、俺にしてみたらさ、『愛』って教わるものなのか?って思うんだよな。今日一日行動してなんとなくわかったけど……君はいつも、“正解”を探そうとしているだろう?自分がどうしたいかとか、どう感じたかより、“どう行動するべきか”、いつもそれを優先して自分の心の声に耳を傾けていないって気がする」
「それは……当たり前じゃない?貴族なら食事の作法を習うより前に身につけることだわ」
ルイーゼにマナーを教えた教師はいつも言っていた。
淑女たるもの、みだりに感情を見せてはいけない。感情に振り回されてはいけない。常に笑顔を浮かべていなさい。常に自分が他人からどう見られるか意識し、正しい行動を心掛けなさい。
物心つく前から幾度も繰り返し言い聞かせられたらそのアドバイスは実際、貴族社会では実に頼もしい指針となった。
おかげで人の足をひっぱりあうのが日常茶飯事の社交界において、今日まで失態らしいらしい失態は犯さずにこられた。
「まぁ、あくまでも貴族社会でっていうんなら、それもいいんだろう。社交界っていうのはこうあるべき、っていう対応や姿がある程度決まっているからな。爪弾きになりたくないなら、その枠からはみ出さないようにすることは大事だ」
テーブルに置かれた紅茶を一口飲んでから、だけどな、とマクシミリアンが続ける。
「人生に“正しい答え”なんてないだろ?あるのは選択だけだ。大多数が正解だという選択肢を選んでも、それが自分にとって正解だとは限らない。どれだけ多くの奴が正しさを保障してくれたって、自分にとってそれが最良でないなら意味はないんだ。結局は自分の心の声に従うしかない。
君が執着する『愛』もそうだ。『愛』に正しい形なんてない。俺が『愛』と呼ぶものを他人は違う名前で呼ぶかもしれないし、ヴィンセントの言う『愛』と俺の『愛』は全然違うかもしれない。君が俺と――ヴィンセント以外の誰かと関係を持つことを心から望んでいるとは、俺は思わない。ヴィンセントからも、自分自身からも目を逸らすために必死になっているように見えるよ」
ヴィンセントからも自分自身からも目を逸らしている――マクシミリアンの言葉は、ルイーゼの心の柔らかい部分に突き刺さった。
本当は自分でも薄々気が付いている。
けれど今はまだ、向き合う勇気がなかった。それをしたらきっと、必死に守って来た自分が崩れ落ちて、一歩も動けなくなる気がして、ルイーゼは黙ったまま俯いた。
「君の望み通り、君を抱くのは簡単だ。契約書まで用意してくれたんだ。俺としては役得だしそれでもいいけど……きっとそうしたら君は傷つくと思う。だから教えてくれ。君は、本当はどうしたい?君の本当の望みはなんだ」
マクシミリアンの瞳が決して逸らすことは許さないとでもいうように真っ直ぐルイーゼを射抜く。
「私の、望み……」
マクシミリアンは黙って、ルイーゼの答えを待っている。
けれど、ルイーゼは答えを持っていなかった。
わからないのだ。自分が何を望んでいるのか、何を求めているのか。
どうしたい、と聞かれても、何も答えられない。
今までずっと、自分の心の声を押し殺して生きてきた。いつの間にか、声は聞こえなくなった。
「わからない……わからないの。おかしいよね、自分のことなのに……」
わからない。それが今のルイーゼの答えなのだ。
いつの間にか膝の上で固く握っていた拳に手が添えられた。ひやりとした温度の、自分とは違う男の人の手。
「俺が思うにさ、君が知らないのは『愛』じゃない。いや、『愛』だけじゃないというべきかな。君は『世界』を知らないんだ。“ティラミス”の意味を知らなかったように、君はまだこの世界のことを全然知らない。だからさ」
顔を上げると、マクシミリアンが優しく微笑んでいた。
「四十五回の情事の代わりに、四十五回新しいことをしてみるのはどうかな?」
「新しいこと……」
繰り返したルイーゼに、マクシミリアンが頷く。
「今までやったことないことをやるのでもいいし、今まで行ったことがない場所に行くのでもいい。勿論俺と君はまだ寝たことはないから、君が挑戦したいなら当初の予定通りそれでもいいよ」
「それじゃあ結局最初と変わらないんじゃ……」
「いいや」
マクシミリアンはルイーゼの言葉をきっぱりと否定する。
「行動は同じでも、得るものが違うはずだ。まあ、今のは冗談だから流してくれていい。とにかく、知らない世界を知ること――それが最終的には、君の求める『愛』を知ることにも繋がる……ような気がするんだけど、どうだい?」
ずっと狭い世界で生きてきた。
決まった範囲で生活し、決まった人としか交流せず、自分の殻にこもって生きてきた。
結婚してもそれは変わらなかった。
本当は、それではだめなんだろう。
わかっていても怖かった。
一歩外に出れば、嘘や欺瞞が満ち溢れ、自分を傷つけるものでいっぱいだったから。
目の前に差し出されている手がある。
今を逃したら、これほど心強い手はもう二度と差し出されることはないかもしれない。
その手を掴め。
久しく主張することなかった心の声が聞こえた気がした。
「よろしく、お願いします」
自分の手をすっぽり握りこめそうな大きな手に、手を重ねながらルイーゼは頭を下げた。