1 暴露
初投稿です。本当は短編のつもりでしたが思いの外長くなったので分けて投稿することにしました。楽しんでいただけると幸いです。
ルイーゼ・アリー・テイラー伯爵令嬢がルイーゼ・アリー・バークレー侯爵夫人になったのは、今から八カ月前のことだ。
十五歳でデビュタントを迎えて三年――貴族令嬢として生を受けたにも関わらず、華やかな場も気疲ればかりする社交も好きではないルイーゼは嫁き遅れ街道を爆走していたが、ある夜親戚の勧めで強引に参加させられた夜会で、現在の夫――ヴィンセント・アラン・バークレーと出会った。
ヴィンセントは名門侯爵家の長男で、整った容姿と地位の高さから女性に人気があり、社交界では名を知らぬ者がいない程の恋多きプレイボーイとしても有名だった。
初対面にも関わらず熱心に愛を囁いてくるヴィンセントに、ルイーゼは言った。「私には愛というものがよくわからないのです」と。
出来るだけ早く結婚したいというヴィンセントに流されるようにして、僅か半年の婚約期間で婚姻してから八カ月――ソファの対面に座り、項垂れ必死に取り繕おうとするヴィンセントを見つめながら、ルイーゼは出会った夜のことを思い出していた。
「……そう、それが貴方の『愛』なのね」
泣くわけでもなく、喚くわけでもなく。溜息をひとつ吐いて抑揚なく呟いたルイーゼの言葉に、ヴィンセントは眉を寄せた。整ったその顔には、何のことかわからないと書いてある。
「あら、もう忘れてしまったの。貴方言ったじゃない。私に初めて会った日、『私が生涯をかけて貴方に愛を教えてあげましょう』って」
「嗚呼……」
ヴィンセントが呻く。それが何を意味するのかは、ルイーゼには分からない。
それもこれも、ルイーゼが『愛』というものを知らないからなのだろうか。
***
遡ること数時間前、友人――今となっては元友人というべきか――のメリッサが、突然ルイーゼの暮らす侯爵家の屋敷を訪ねてきた。
メリッサとは実家の領地が隣同士だったこともあり昔から顔を合わせる機会が多く、交友関係の狭いルイーゼの数少ない友人の一人だった。先触れのない突然の訪問に戸惑いはしたものの、何か急ぎの用事でもあるのだろうかと快く迎え入れた。
それが間違いだったのか――今もルイーゼには判断出来ない。
ともかく、手早く身だしなみを整え客間へ向かうと、メリッサは妙にイライラした様子で爪を噛んでいた。いつも貴族令嬢然としたプライドの高い彼女のそんな姿を初めて目にしたルイーゼは、声を掛けようとして躊躇い扉のところで立ち止まった。
そうしてルイーゼの存在に気が付いたメリッサは、挨拶すらなくルイーゼの顔を見るなり一方的に暴言を吐き続け――ルイーゼの夫であるヴィンセントと自身の関係を大声で暴露し始めた。
曰く、二人は激しく愛し合っており、数日置きに逢瀬を重ねているとか。
曰く、身体の相性も最高で、ベッドの中では毎回気絶するまで睦み合っているとか。
曰く、ヴィンセントが本当に愛しているのはメリッサで、ルイーゼはいずれ捨てられるとか。
ルイーゼはこれまでの人生でぶつけられたことのない悪意に反応出来ず固まっていただけなのだが、メリッサはそうは取らなかったらしい。黙ったままのルイーゼにイラついたのか、机の上の紅茶をルイーゼにかけようとしたところで控えていた従者に取り押さえられ、馬車ごと侯爵家を追い出された。
メリッサが暴れた部屋の片づけを使用人に頼むと、「考えたいことがある」と言って自室に戻った。
部屋に戻ったルイーゼはまず、ヴィンセント付きの従者を務めているマルクを呼び出した。通常なら屋敷にはおらず、ヴィンセントと行動を共にしているはずだったが、二日前道端で酔っ払いに絡まれ利き腕を負傷した彼は一時的にその役目を外れ、屋敷で仕事をこなしている。
ルイーゼはマルクに事実関係を確認し、少なくともメリッサとヴィンセントが逢瀬を重ねていたこと、状況的に肉体関係を結んでいたことは事実だと判断した。報告しなかったことをしきりに謝罪するマルクを下がらせると、ルイーゼは宣言通り自室に籠り、考えた。
ルイーゼには嫌いなものが二つある。
ひとつは、夏になると何処からともなく現れる俊敏な黒い虫。あの長い触覚とカサカサと音を立てて移動する様を思い出すだけで鳥肌が立つ。
もうひとつは、嘘をつかれること。何故なら彼女の周囲は嘘でいっぱいだったから。
ルイーゼはそれなりに裕福な伯爵家の長女として生まれた。両親の他に十歳年の離れた跡取りの弟がいる。端から見ればこれといって問題のない家族。
両親はことある毎に「愛している」とルイーゼに言った。
けれど、ルイーゼは知っている。
父親は市井の愛人との間に子供がいる。彼女より五歳年下の異母弟が生まれたのは、偶然にもルイーゼの生まれたのと同日だった。異母弟が生まれ、ルイーゼが五歳を迎えたその日以降――ルイーゼは自身の誕生日を父と過ごした事がない。
プレゼントは貰える。ルイーゼが寝ている間にいつの間にか枕元に置かれている。プレゼントに添えられたカードにはいつも、『誕生日おめでとう、ルイーゼ。愛している』とだけ書かれている。ただ、それだけ。
一度こっそり父親の後をつけたことがある。裕福な平民街に立つ、庶民が住むにしては大きなチョコレート色の屋根の家。窓の外から覗き見た父の笑顔は、ルイーゼがこれまで見たことのないものだった。父と同じ色合いをした見知らぬ少年に贈られるキスも、頭を撫でる大きな手も、成長を喜ぶ優しい眼差しも、ルイーゼには贈られたことがないものだった。
それでも、父はルイーゼを愛しているのだという。
ルイーゼは知っている。
母親には愛人がいる。端正だがどちらかというと地味な顔立ちの父とは違う、まるで彫刻のように整った顔の派手な雰囲気の青年。密かに聞いたメイドのお喋りによると、荒れている隣国から亡命してきた裕福な商家の放蕩息子らしい。
父がいない間に母が屋敷に連れ込んだ青年を、こっそり覗いてみた。跡取りである年の離れた弟とそっくりな顔をしていた。青年にしなだれかかる母は「あなたと息子といる時だけが幸せ」とうっとりした顔で言い、青年に口づけていた。
それでも、母はルイーゼを愛しているのだという。
だから、ルイーゼには『愛』が分からない。
父がルイーゼに『愛』を向けているのなら、彼が異母弟に向けているものは何なのだろう。
母がルイーゼに『愛』を向けているのなら、彼女が青年や異父弟に感じている気持ちは何と呼ぶのだろう。
ヴィンセントのプロポーズを受ける時、一つだけお願いしたことがある。
絶対に嘘はつかないこと。
決してルイーゼに嘘はつかないと、わざわざ教会へ赴き神様の前でヴィンセントは誓ってくれた。
結婚する前も、結婚してからも、ヴィンセントは日に何度も「愛している。一生ルイーゼだけだ」とルイーゼに言う。
朝、起きた時。
昼、仕事の合間に休憩をとる時。
夜、眠りに落ちる前。
口癖のように贈られる『愛』は、ルイーゼの中で静かに積み重なり、いつしか心に空いた穴を埋めてくれたような気がした。
ヴィンセントの『愛』は信じられる。
だって、ルイーゼに嘘はつかないと、ヴィンセントは神に誓ってくれたのだから。
ならば、メリッサのことはどう考えればいいのだろう。
メリッサは、自分とヴィンセントは愛し合っていると言っていた。
では、ヴィンセントがルイーゼを愛していると言ったのは嘘なのだろうか。
……そんなはずはない。ルイーゼに嘘はつかないと、ヴィンセントは約束したのだ。
ルイーゼは思い返した。初めて会った夜、「生涯かけてルイーゼに愛を教える」とヴィンセントは言った。
ならばこれは、ヴィンセントがルイーゼに『愛』を教えようとしているのではないだろうか。
結婚して、ヴィンセントから沢山の『愛』を送られても、いまいちピンとこない自分に、『愛』を上手く返せない自分に、メリッサを使ってヴィンセントが『愛すること』を教えようとしているのではないだろうか、と。
そうだ、きっとそうに違いない。
正直に言えば、妻がいるにも関わらず、他の女性と関係を持つことがどう『愛』に繋がるのか、今のルイーゼにはさっぱり理解出来ない。けれど、嘘をつかないと約束し、生涯かけて『愛』を教えてくれると言ったヴィンセントがとる行動なのだから、何か意味があるのだろう。
そういえば、会う度しきりに『愛』を口にする父親も母親も、夫や妻でない別の相手と関係をもっていたではないか。それがわからないのはきっと、ルイーゼが未だ『愛』を理解していないからなのだろう。
「なんだ。そういうことだったのね」
心の靄が晴れたルイーゼは、帰宅するなりメリッサの来襲を告げられ蒼白になったヴィンセントを、晴れやかな気持ちで迎えることが出来た。大事に育ててきた花壇を土足で踏み荒らされたような気分のまま夫を迎えたくは無かったので、正しい答えが見つかり安心した。
そうして今、ルイーゼはヴィンセントとテーブルを挟み向き合っている。部屋に入るなり、壊れたレコードのように「違うんだ」「済まない」「許してくれ」のコンボを繰り返す夫を不思議に思いながら、ルイーゼは首を傾げた。
「だからね、私思ったの。折角貴方が身をもって『愛』の何たるかを教えてくださったのだから、私もそれに応えなくてはいけない、と」
「ルイーゼ……?一体何を」
ヴィンセントの口から零れた声は震えていた。
対照的に、ルイーゼの声は明るい。端から見ていたら、それが数時間前に友人と夫の裏切りを知らされた女性のものだとは、誰も思わないだろう。
「十回……いえ、ある日突然関係が始まるとは考えづらいから、十二、三回ってところかしら」
「何の話をしているんだ……?」
「勿論、貴方がメリッサと関係を持った回数よ」
にこりと微笑んだルイーゼの顔は、これまでと変わらず美しい。いつもヴィンセントに向けてくれる、大好きな笑顔と同じはずだ――にも関わらず、その裏に不穏なものを感じてヴィンセントは胸騒ぎがした。
てっきり不実を責められなじられるか、冷酷な視線で射抜かれるかと覚悟していたが――これは何だ?何故、こんな顔で笑うのだ?
愛する妻が何を考えているか分からず、ヴィンセントはつらつらと話すルイーゼをただ見つめることしか出来ない。
「まぁ、正確な回数は貴方もわからないのかしら。マルクに言えば貴方の過去の予定を洗い直してくれるでしょうけど、忙しいのにわざわざそんなことを頼むのも悪いわね。ああ、いっそメリッサに直接聞いてみるべきかしら?でも彼女、今日の様子だとまともに会話が成り立ちそうにないし。困ったわ」
観劇の感想でも語るように、ルイーゼは話し続ける。
「ねぇ、マルク。何回くらいだと思う?」
部屋の隅で置物のように固まっていたマルクは、突然矛先を向けられびくりと肩を跳ねさせた。その顔は蒼白を通り越して、既に紙のように白くなっている。
マルクの丁度対角線の位置に控えるルイーゼの侍女・スザンナは、主を裏切ったクソ野郎への怒りの炎を燃やしながらも、巻き込まれたマルクに同情の視線を送った。
「お、おお奥様、それは……」
「遠慮しないで。大体でいいのよ。あくまで参考にするだけだから」
縋るようなヴィンセントの視線が絡みつき、マルクは内心途方に暮れたが、ルイーゼはマルクが返答するまで辛抱強く待つつもりらしい。
逡巡の後、マルクは正直に答えた。
「その、私の知る限りでは、週に一、二度の頻度で少なくともここ二か月半程続いておりましたので……恐らく奥様の仰る通り十数回程度かと。ただ、私は常に旦那様について回っているわけではございませんので……」
尻すぼみになるマルクの言葉をルイーゼが引き取る。
「貴方のいない時の逢瀬についてはわからない、ということね」
「……その通りでございます」
「どうもありがとう。大変参考になったわ」
歯切れの悪いマルクにもにこやかに対応するルイーゼを前に、ヴィンセントは茫然としていた。吹けば飛んでしまいそうなその様子をマルクは複雑な面持ちで見つめる。
マルクもまた、主であるヴィンセントと同様にルイーゼの寛容という表現に当てはまらない、奇妙な態度に困惑していた。
周囲の人間を置いてきぼりにして、ルイーゼは話を進める。
「では、旦那様。マルクの証言も参考に、大体十五回くらいと思うことにしますわ。内容については旦那様とメリッサにしか分からないので教えていただきたいのですが、大体一度につき二回……いえ、三回くらいで間違いありませんか?」
「ルイーゼ、君はさっきから一体なんの話をしているんだ……?」
「あら、いやだ。勿論行為の回数に決まっていますわ!」
言わせないでくださいませと、僅かに頬を赤らめながら恥ずかし気に言うその様は、愛らしい乙女の姿そのもので、出会ったばかりの頃を想起させる。
それだけに、その姿からは想像もつかない発言内容にヴィンセントは混迷を深めた。夫の浮気相手との情事の回数など、聞いてどうするつもりだというのだろう。
「ルイーゼ、本当に済まなかった……。メリッサとはただ身体だけの関係なんだ」
「旦那様、それでは質問の答えになっていませんわ?」
少し眉を下げて困ったように微笑むルイーゼ。
何故だ。どうして泣き叫ばない?罵らない?
自分が浮気したのにも関わらず、少しも取り乱す様子のないルイーゼを見て、ヴィンセントは身体の奥底から理不尽な苛立ちがこみ上げてくるのを止められなかった。
「お答えいただけないのでしたら仕方ありませんわね。それなら……そうね。メリッサは『ルイーゼなんて連続して求められたこともないくせに!私とヴィニーは連続して何度も愛し合ったんだから!ヴィニーに気絶する程求められたことがあって?』と言っていたから、一度の逢瀬につき行為は最低でも三回、ということにしておこうかしら」
ご丁寧にメリッサそっくりの口調で話して見せたルイーゼに、ヴィンセントは血の気の引く思いだった。
まさかメリッサがそこまでの言葉をルイーゼに投げつけているとは思いもしなかったからだ。せいぜい自分との関係を匂わせたくらいだと……。
確かに、ヴィンセントがメリッサと会う時、行為は一度では終わらなかった。二度、三度と交わり、身体を重ねた。大抵はメリッサの方から求めてきたが、ヴィンセントがそれを拒んだことはない。時には昂る欲望を鎮めるため、気絶するまでメリッサを責め立てたこともあった。
反対に、ルイーゼと結婚して身体を重ねるようになってからも、ルイーゼを連続して求めることはなかった。ルイーゼに魅力を感じなかったからではない。彼女との交わりに不満があったわけでもない。華奢で身体が強いとは言いづらい彼女に負担をかけたくなかったし、何より自分の内に渦巻く激しく醜い欲望をぶつけ、自分とは違い清らかなルイーゼに嫌われることが怖かった。その分、ルイーゼに煽られたどうしようもない欲をメリッサという女にぶつけることで解消していた。
よりにもよって、何故メリッサのような女に手を出してしまったのか。少しも自分の好みではないのに。ルイーゼにぶつけることの出来ない薄汚れた欲望を見透かされ、利用された。
もし過去に戻れるのなら、あの時の自分を殴ってでも止めるのに。
ヴィンセントは頭を抱えた。すべては自業自得だった。
「だからね、十五×三で四十五回ね。折角貴方がお手本を見せてくれたのだもの。同じだけ私も勉強してみることにするわ。相手は、そうねぇ。私とメリッサの関係性を考えたら、貴方のお友達にすべきよね」
「は……?」
項垂れていたヴィンセントははじかれたように顔を上げた。
向いに座るルイーゼは首を傾けて斜め上を見上げている。何か考える時のルイーゼの癖だった。
「ルイーゼ、勉強するってどういう意味だ……」
絞り出したヴィンセントの声は相変わらず震えている。口の中がカラカラに乾いて、喉が張り付いてしまったようだ。
ここにきて、ヴィンセントの嫌な予感は当たろうとしていた。
ヴィンセントの問いに、ルイーゼはきょとんとした顔で答える。
「どういう意味って、貴方が教えてくれた『愛』を私も実践してみるってことよ。残念ながら妻の友人と関係を持つことが私に『愛』を教えることとどう繋がるのか、今の私には理解出来ないの。
でも、安心して?少し不安だけど、私きっと上手く出来ると思うわ。折角貴方とメリッサが見本を見せてくれたのだもの。私もあなたのようにしてみたら、四十五回もあれば流石に何か分かると思うの」
稲妻に打たれたような衝撃がヴィンセントに走る。ルイーゼの言っていることは少しも分からないが、ルイーゼがこれからしようとしていることは分かる。
「それは……まさか君が、その……私が君にしてしまったように、他の男と関係を持つということか……?」
「ええ、そういうことになるかしら」
おっとりと微笑む妻の姿は、自分がこれまで愛してきた、いや、今も愛しているルイーゼそのものなのに、まるで別人のように見えた。
「済まない!済まなかった!いくらでも謝る。もう二度とこんなことはしないと誓う。あの女とももう会わない。だからそんなことはやめてくれっ」
「旦那様、謝る必要なんてありませんわ。メリッサとのことは、『愛』がわからない私に『愛』を教えるために仕方なかったのでしょう?」
にこにこと笑顔を崩さないルイーゼは、嫌味ではなく、本心からそう言っているように見える。
「違う、違う、そうじゃないんだ……」
必死に首を振るヴィンセントの姿は、ルイーゼの瞳には映っていない。
「旦那様と結婚して暮らす内に、私でも『愛』を理解したような気持ちになることがあり嬉しかったのですが……きっと違ったのですね。だから旦那様はメリッサを使ってまで正しい『愛』というものを教えてくれようとしたのでしょう?」
「ルイーゼ……違う……違う……」
「だって、旦那様は結婚前、神様に誓ってくれましたもの。私に嘘はつかないって。初夜の床で、旦那様は言いました。愛しているから君を抱きたいんだって」
確かに、そう言った。漸く身も心もルイーゼを自分のものに出来るのだと嬉しくてたまらなかった。
「それからも旦那様は毎日私に、私だけを愛していると伝えてくれましたね。そんな旦那様が私と同じようにメリッサも抱いていたのだと知って、最初は混乱しましたが、私に『愛』を教えるために違いないと思い至りましたの。だってそれ以外にないでしょう?でなければ、旦那様は嘘つきになってしまいますもの。メリッサとのことは、ただの裏切りになってしまいますもの。でも、安心してください。神様にまで誓ってくれた旦那様が私に嘘をつくことはないと、私は信じていますから」
ひゅっと喉を鳴らしたヴィンセントを、聖母のような慈愛の笑みを浮かべたルイーゼが見つめる。いつの間にか、茫然と座り込むヴィンセントの頬は幾重にも伝った涙の痕で汚れていた。
「違う、違うんだ……済まない、すまない、愚かな私を許してくれ……」
床に膝をついてルイーゼに縋るヴィンセントを、ルイーゼはゆったりと、しかし有無を言わせない口調で突き放した。
「許すも何もありませんわ。だって、旦那様は私に『愛』を教えてくれようとしただけなんですもの」
だからねぇ、お立ちになって?
にこにこと笑いながらヴィンセントに言ったルイーゼの声は、ひどく冷たく聞こえた。
ルイーゼは一見、儚げで気弱そうに見えるが、実際は思い込みが激しい上に芯が強く、こうと決めたら譲らない頑固な一面がある。
ヴィンセントはこの瞬間まで、心の何処かできっとルイーゼは許してくれる、直ぐにとはいかなくても、時間が経てば今まで通りに戻れるだろうと、そう甘く考えていたが。自分は本当に取り返しのつかない馬鹿なことをしてしまったのだと――この時漸く理解した。
絶望の表情を浮かべるヴィンセントを気にすることなく、ルイーゼは名案を思い付いたとばかりに手を叩く。
「そうだわ!お相手にはクロムウェル卿なんてどうかしら。旦那様のお友達ですもの。きっと協力してくださるに違いないわ」
そうと分かれば、お約束を取り付けなくっちゃ!
そう楽し気に言って、ルイーゼはスザンナを伴い自室へと戻っていった。
後には今にも砂になって崩れ落ちてしまいそうなヴィンセントと、こじれていく主夫妻の様子に途方に暮れるマルクだけが残された。