3. 日常から遠い場所(1)
窓から注いでいた太陽の光は消え去っていた。ビアンテの酒場の部屋の中を宵闇が包み込む。
「悪かった……」
キーファが泣いているアリューシャの肩に手をやろうとしてそれを躊躇した。
「大変だったな……。でもどうして役人にすぐに届けなかった? 父親の元には戻らなかったのか?」
キーファの言葉にまたブルーの瞳に滴がたまり溢れた。
「戻ったんです。近くで見ていたの……父さんに、父さんにあんなことが……」
その後は言葉にならなかった。
躊躇していた手を伸ばしキーファはアリューシャの背中に優しく手を添えた。
「すまない。……もういい。悪かった」
トントン――――
部屋の扉がノックされ、ひょっこりとルディが顔を出した。
「話は終わった? 父さんが寒くなってきたし続きは明日にしたらどうかって言ってるよ。シチューもできたし皆で食べようってさ」
暗い部屋で床に座り込む二人を見て、ルディがすっとんきょうな声を出した。
「僕もしかしてお邪魔だった?」
アリューシャの背中に置いていた手を慌てて引くとキーファはルディを睨みつけた。
「ませた事言うな! ガキのくせに」
そのまま立ち上がると、また心配そうにうずくまるアリューシャに声を掛けた。
「下に行こうぜ。腹減っただろ?」
アリューシャが目を擦りながらコクンと頷いた。
「すぐに私も行きますので、先に行ってて下さい」
鼻を啜りながら、小さな声で答えた。
「よし、ルディ。先に行くぞ」
そう言うとキーファは扉をそっと閉め、ルディと二人階段を下りて行った。
「……お前、フィンが女だと知っていたのかよ?」
リズムよく階段を下るルディの背中にキーファは少し恨めしげな目を向けた。
「もっちろん! えー!? キーファは気づいて無かったの? 父さんだって気づいてたよ」
心の中で舌打ちするとキーファは今閉めてきた扉をちらりと見上げた。
アリューシャは肩下げの袋からタオルを取り出すと部屋の窓を開けた。窓枠に薄く積もった雪を手ですくうとタオルに乗せる。手の平の体温で雪はすぐに溶け、タオルは湿った。
それで顔を拭うと泣いて火照っていた顔を冷やした。目元に当てると冷たくて気持ちが良い。
彼を信用して良かったのだろうか?
ずっと張りつめていた糸がプツンと切れてしまい、自分が何者であるのかスルスルとしゃべってしまった。
(ひたすら自分を隠せ――――)
そう言ったグラートの苦渋に満ちた顔を思い出した。
過ぎた事を悔いても仕方が無い。
それでも……少しスッキリとした自分がいた。
誰にも話せず誰も信用せず逃げて隠れる生活は、まだ10日ばかりだというのに、延々と続く暗闇のようにアリューシャには思えた。
あの日歩いたレイテ村の林の中のように、息苦しく希望の見えないものだったのだ。
もう一度顔を拭うと前髪を整えた。肩下げのバッグを手に持つとゆっくりと扉を開いた。
「よし、下りて来たな。さあ、食おうや」
階段を下るとビアンテがアリューシャに明るい声を掛けた。ミルクとバターの良い香りが鼻先をくすぐる。
急激にアリューシャは空腹になった。
ルディがパンの入った籠をテーブルに置き席に着いた。ビアンテも水差しをテーブルに置くと腰かけた。席にはキーファの姿が無い。やはり去って行ってしまったのかと一瞬ぎくりとした。
そのアリューシャの様子にビアンテが気づいた。
「ああ、あいつは詰め所だよ。ちょっと用があるんだと。先に食っておいてくれとさ」
それを聞くとアリューシャはヒタと足を止めた。
私の事を誰かに伝えに行ったのだろうか?
「あいつに任しときゃ大丈夫だよ。座んな」
ニコニコと微笑むビアンテの顔を見ると、温かい湯気に包まれたような安心感がある。何の根拠も無いのに、体からは強張った物が消え去り、アリューシャも同じテーブルについた。
カランカラン――――
店のドアに下げられたカウベルが威勢のいい音を出した。身を縮ませるようにしてドアからキーファが入って来た。
「まだ食ってなかったのか?」
テーブルに並んだ料理を見てキーファが口を開いた。髪に付いていた粉雪がふわりと床に落ちた。
「今席に付いたとこさ。お前も座れ」
キーファは席に付くと早速スプーンを手に取った。
「いただき……」
「キーファ! お・い・の・り!」
隣に座っていたルディがスプーンを持つキーファに手を伸ばした。仕方なくキーファがスプーンを置くとルディの手を取った。ビアンテがアリューシャの左手を握る。アリューシャが右手側に座っているキーファに目をやると彼と視線がぶつかった。
戸惑いながらキーファに手を伸ばすと、その手をそっとキーファが握った。
キーファの指先は今しがたまで外にいたのでひんやりとして冷たい。
四人が輪になり食前の祈りを神に捧げた。
食事の前にお祈りを捧げるのはいつぶりだろう……
アリューシャは目を閉じながらぼんやりと考えた。
学校の食堂でくすくすと笑いをかみ殺しながら、友人の暖かい手を握って祈ったこと。
家のダイニングで橙色の炎を灯した燭台の向こう側に、父の柔らかな笑顔を見つめたこと。
そんな日常から遙かに遠い場所にいる事を思い知らされた。