2. country road(3)
グラートに渡されたシャツにアリューシャは袖を通した。
男の子の服で上等の誂えだ。何も考えずにグラートの言葉にそのまま従った方が楽だった。
渡された手紙はまだ恐ろしくて開く事ができない。
ドレッサーの前に立つと少年の皮を被ろうとして失敗した少女が、生気を失い幽霊のように立っている。
「できたか?」
廊下に出ていたグラートが外から声をかけた。
「うん……」朦朧とした返事をすると、ガチャリとドアが開いた。
「よし、上出来だ」
一つに束ねた髪の上にぽんと帽子を乗せた。同じツイードでできたキャスケットだ。
「これで男の子に見えるだろう」
帆布で作られた肩下げのバッグを受け取った。グラートがこさえてくれた荷物だ。
「預かってた金も入れてあるからしばらくは食うに困らんだろう」
そしてグラートはアリューシャがずっと持っていたトランクを提げ扉を開けた。
「フィンの服をとっておいてよかったよ」グラートはぼそりと呟いた。
グラートの一人息子のフィンはゼーゲン騎士団に所属していた。彼は二十年前に起こった内乱の鎮圧に赴き、そのまま帰ってくることはなかった。
この家のあちらこちらに彼の写真が飾られている。木枠の中で笑顔を浮かべる少年のフィンはとても幸せそうだ。
グラートはランプに火を入れると一つをアリューシャに渡し、もう一つを自分で下げ、家の裏の木戸から出ると、そのまま林の中へ入って行った。アリューシャもそのグラートの後ろを歩く。
少し進むとアリューシャは後ろを振り返った。
今立つ場所から自分の家が見えることは無い。でも村の全景を見つめて思い返した。
「アリューシャ! 夜が深まれば歩くのも危ない。一時間も歩けば着くだろうから急ごう」
グラートが歩みを止めていたアリューシャに声を掛ける。
「あの……グラート……」
「アリューシャ!」
強く名前を呼ばれるとアリューシャも言葉を出せなくなった。
また黙ったままグラートの後ろを歩く。
通常なら隣町までは馬車も通るほどの整地された街道を進む。だが今はこのけもの道を、生い茂った草を掻き分けながら歩んでいた。
何とか人一人が抜けられるのだが、細い木の根や落ち葉や小石が多く歩きづらい。少し遠回りをするので距離も長くなる。
半時もこの道を進むとアリューシャの息も少し上がって来た。
「アリューシャもう少しだから、がんばれ」
距離の開いていた事に気づきグラートが後ろを振り返った。
アリューシャの鞄まで提げていた老齢のグラートの方が疲れはあるはずだった。
振り返っているグラートの顔を見つめる。辺りは陽もとっぷりと暮れている。
ランプの光がグラートの顔を下から照らし出していた。
「ねえ、グラート。本当は知ってるんでしょ? 父さんが襲われた理由も、私が逃げなきゃいけない理由も、この手紙に何が書かれているのかも……」
グラートがランプに照らし出されたアリューシャの顔を見つめた。
まだ幼さの残る18歳の少女が男の成りをして必死に耐えている。
父親の「死」を確かめる事も叶わず、ただ林の中を彷徨う。
涙にくれた顔はいつものはつらつとした表情を消し去り、唇には色も無い。
愛息の服を身に纏った、彼女の安全だけを最優先させた行軍だ。
「アリューシャ。わしは……ヨルクはこの村には勿体ない程の名医だったと思う」
グラートが過去形で父親の話をしたことに、アリューシャは胸が押潰れそうになった。それでもグラートが何を言うのか一言も聞き逃すまいと、その動揺を抑え込んだ。
「……ヨルクは名医だがそれ以上の存在だっただろう?」
その言葉にアリューシャは凍りついた。
グラートが何を言いたいのか全てを悟ったからだった。
言葉の意味は唯一つ。
――――ドラゴン・ストーン
「どうしてグラートが知っているの? 父さんの事を」
暗い林に浮かぶ老人の顔をアリューシャは見つめた。
「ここに匿ったのはわしだからな……。親友の教え子だったんだよ。ヨルクは」
深いため息が漏れ出る。
「ヨルクは本当の名前じゃあ無い。あの時その全てを捨て去ったんだよ。ワシも本当の名前は知らん」
アリューシャは驚いた瞳をグラートに向けた。
平凡な父親は医者としての腕以外、全てが普通の父親だった。アリューシャが7歳の頃他界した母親を愛していたし、一人娘のアリューシャの事を何よりも大切にしてくれていた。心配性で優しい父親だった。
そしてアリューシャにとっては医師として目指すべき師でもあった。
「どういう事……? 何から父さんを匿ったの? 本当の名前まで捨てるって?」
「アリューシャ。お父さんはできんと言われとるドラゴンストーンを取り除くことできるんだろ?」
アリューシャはグラートがあの秘密の手術についても知っている事に驚いた。
「ありゃあ……ワシだってよう知らんが友のアンブロスが作り上げた方法らしい。それを継いだのがヨルクだよ。ヨルクは逃げたんだ。ワシの友を殺した連中からな」
『殺した連中』この言葉がアリューシャの胸を衝く。
頭に浮かぶのは父を飲み込んだ大地に佇む少女の姿。
「それまではどこかの施設に監禁されて研究しておったらしい。命からがら逃げ出したヨルクは身内も誰も頼れずここに来たんだよ。アンブロスから何かあったら頼れと言われとったようでなあ」
旧友を思い出したグラートが深いため息をついた。
「いい医者になったと思ってたのに。ホントにあいつは愚か者だよ」
そう言うと手の平で目元を擦り上げる。
「酷い有様で現れたヨルクをわしは匿った。あいつの忘れ形見のような気がしとったからな。それで新しい名前を付けてやった。村の皆には遠い親戚だと紹介したんだ。それからは村の唯一の医者として働き、お母さんと出会ってアリューシャが生まれたんだよ。
もうヨルクが逃げ込んできた夜は遠い遠い昔になっていた。それが最近何かあればアリューシャを頼むと言うようになったんだよ」
グラートがハッと自嘲する。
「ワシは戯言だと思った。医者を目指すアリューシャに昔の自分を重ねておるんだと思ったよ。『考え過ぎるな。忘れろ。忘れろ』とワシは笑ったんだ……」
生気を失ったようにグラートがアリューシャを見つめた。
「アリューシャ。襲った奴はアンブロスを殺した連中かもしれん。医者を目指している娘がいるなんて聞いたら、連中はどうすると思う? 血眼になってお前を探すだろう。だから逃げるんだよ。遠くに逃げるんだ。自分という存在をひたすら隠せ。それがお前さんの生き残る道だよ」
アリューシャの脳裏に寂しく笑う父親の顔が浮かんだ。
娘の成長を喜んだのだろうか?
それとも秘法が受け継がれることに安堵したのだろうか?
アリューシャは無意識に手の中の封筒を強く握り締めた。