16. 命をあずかる者(2)
「……アリューシャ」
トイレの外から声をかけられようやく気づいた。
あれからどれくらい時間が経ったのか、外にはフィッシャーが立っていた。
「今日のお前さんは落第点じゃ」
「先生……すみませんでした。ジャンさんは大丈夫ですか?」
「ああ、腕もしっかりついとる。さすがにポゼサーは回復が早いよ。もうくっつき始めた。今は鎮静剤で眠っとるがな」
「私……何もできなくて」
フィッシャーが首を捻る。
「セカンドを持っておるなら手術の助手もやってるだろ? 実習にもたくさん出てるはずだ」
「私……初めて怖くなりました。ジャンさんが叫んでて、腕が……」
「緊迫した状況ではよくあるわい。ここでは特にな。計画通りに行く事なんて無いもんだ」
フィッシャーの白い眉尻が下がる。
「…………それともお父さんの事を思い出したか?」
心臓が締め付けられ、苦悶の表情を浮かべたアリューシャが顔を上げた。
「……わからないんです」
アリューシャは鳥肌の立つ自分の体を両手でギュッと包む。
「本当に目の前の事に必死でした。でも……ぶら下がった腕が怖くて。血まみれで真っ赤なのにどこか白くて……ジャンさんの手じゃ無いみたいで」
「……アンダース医師の事件については知っておる」
フィッシャーが腕を組みアリューシャを見つめた。重い口をゆっくりと開く。
「アンブロスの秘法……」
ハッとしてアリューシャが顔を上げた。
「長く医者をやっておるんだ、医術の事ならたいがい耳に入ってくるわい」
フィッシャーが一つ息を吐く。
「それにアンブロスはわしの後輩じゃったよ。変わったヤツだった」
アリューシャの目からぼたぼたと涙が落ちる。
「先生……私怖いんです。私なんかが医師を目指していいんでしょうか? ほんとはずっと思っていたんです。ここに来てからもずっと。私が医術を行っていいんでしょうか? ……そんな資格が私にありますか?」
フィッシャーから目を逸らしてアリューシャは言葉を続けた。
「父さんが手術をできなくなった時、私が続けようって言ったんです。私……バカみたいに浮かれてたんです。自分にしかできない事をみつけて。誇らしくって。秘法を受け継げたことが嬉しくて。だから純粋に人を助けたいと思っていなかったんじゃないかって」
「お前さんが助けた命を恥じるんじゃない。それなら何もせんでぼーっと見といたがよかったか? 石に魂を食われる人間を見殺しにするのか? そうじゃ無いだろ?」
フィッシャーがアリューシャの隣に屈み込んだ。
「わし達はやれることをやるだけだ! そこに秘法も資格も何にもありゃせん! 命の前では全てが淘汰されるんじゃ!」
「せんせえ……」
アリューシャが抱きついた勢いでフィッシャーが尻餅をつく。
「アリューシャ……あきらめるな。最後まで自分のやれることをやろう」
フィッシャーがぽんぽんとアリューシャの頭を撫でる。
「先生、私ジャンさんの様子見てきます。今私にできることをやります」
アリューシャが立ち上がり、地面に尻をつけたフィッシャーを引っ張り上げた。
「すみません」アリューシャが柔らかな笑顔を浮かべる。
「ああ、たのんだ。わしゃちょっと疲れたから部屋へ戻るぞ?」
「はい!」
アリューシャが元気に廊下を駆けていく。
「さて……キー坊そこにいるんじゃろ?」
廊下の曲がり角からキーファが顔を覗かせる。
「ばれてたか」
「早く声かけてやりゃいいのに」
「先生が来たからタイミング逃しただけだよ」
はああとこれみよがしにフィッシャーがため息をつく。
「お前はアリューシャに優しくしたいのか突き放したいのかどっちだ?」
「それは……」
「ガキのくせに色気づきおって、お前の気持ちなんぞダダ漏れじゃわい」
「そんなんじゃ無いよ」
「何とぼけとんじゃ。それともあれか? アリューシャには手を出さないとか変な誓いでも立ててんのか?」
バカらしいとフィッシャーが鼻で笑った。
「人間っちゅうのはいつ死んじまったっておかしくないんだ。そんなくだらない誓い今すぐそこのドブ川へ捨てて来い」
「今日は働き過ぎた」とぶつくさと零しながらフィッシャーが階段に足をかける。
「お前は早く仕事にもどれよ、キー坊」
「……そのキー坊は止めろって」
「お前にゃピッタリじゃい」
腰をさすりながらフィッシャーが階段を下っていった。




