16. 命をあずかる者(1)
春と言うにはまだ浅かったが、町は厳寒を越え草木がうっすらと芽吹きを見せていた。この時期はアレキサンドライトの大移動は無く、船はずっとエーデルシュタインに停留していた。
命令が下ればここを拠点に団員達は小型船マラカイトで飛び立っていく。
今朝もエーデルシュタインからほど近い西部の工場地帯で事故があったらしく、1小隊が飛び立っていた。
アリューシャは船から出られない生活が続いていたものの、その時間を無駄にせず、フィッシャーのもとで医術の勉強に励んでいた。
「ファーストの試験を受けに行けたらいいんじゃがなあ」
フィッシャーが悔しそうな顔をして、アリューシャの模擬試験の紙に目をやる。
「フィッシャー先生のおかげです」
「あとは臨床じゃな」
「はい……研修に出られないからですね」
「ここもイェーガーしかおらんからそうそう処置も学べん」
午後のゆったりとした時間に話し込んでいた二人の元に、ユリウスが血相を変えて飛び込んできた。
「シャカルの工場で爆発があったみたいで、1小隊が巻き込まれました!」
「何!? アリューシャ! 準備するぞ!」
「はい!」
甲板では担架を持ったキーファとユリウス、そしてその橫でアリューシャとフィッシャーが上空を見上げていた。
マラカイトがアレキサンドライトの広い甲板にゆっくりと下降してくる。
吹き付ける風の中アリューシャは不安そうにそれを見守っていた。
マラカイトの扉が開くとシリルに抱えられて下りてきたのはぐったりとしたジャンだった。
「ジャンさん!!」
アリューシャの顔が蒼くなる。
出血が酷く、抱えるシリルも血まみれだ。
「先生!! 頼みます!!」
「医務室に運べ!!」
待機していたキーファたちが担架に乗せると急いでジャンを運ぶ。
「頻脈です!」アリューシャが叫ぶ。
医務室に入ると、たちまちそこは戦場のような緊迫感に包まれた。
ジャンの右腕に巻かれた真っ赤な布を剥ぐと、肘から下がほとんど繋がっておらず千切れたようにぶら下がっている。
「先生……」
それを見たアリューシャが慄然とする。
「ぐあぁっ!!!」
意識を取り戻したジャンが断末魔のように叫び暴れる。シリルとキーファがベッドに抑えつけた。その光景にアリューシャの息が止まる。
「大丈夫じゃ! アリューシャは麻酔! わしが止血する」
巨大な虫眼鏡を頭からはめると、フィッシャーが傷口に光を当てる。
「薬品はそこじゃ!」
注射器を手に持っていたアリューシャがその場から動けなくなる。
「アリューシャ!! 何やっとる!? 急げ!!」
そのアリューシャの様子に業を煮やしてフィッシャーが注射器を奪い取った。
「もういい!! シリル! お前さんが腕を支えろ!」
血の海の中にジャンの白い腕が漂う。まるで蝋人形のそれのようにリアルさを伴わない。しかし血の臭いと熱気がアリューシャの喉の奥になだれ込んできた。
「うっ………」
「そこで吐くなよ!! こっから出て行け!!」
フィッシャーの怒鳴り声にアリューシャが涙目になってよろよろと外へ出た。
「アリューシャ!」
「キーファ!! お前さんはこっちに集中しろ! ジャンを押さえつけるんじゃ!」
「ぐっ……」
急いでトイレへ駆け込んだアリューシャだが口からは何も出ることはなかった。
涙目になり壁にもたれながらずるずるとしゃがみ込んだ。
肉が裂け骨の見える腕がぶら下がる。
助けたい思いが一瞬にしてはじけ飛んだ。
自分が何をしたらいいのか、何もわからなくなった。
力が入らず震えている自分の両の手を眺めた。
こんなにみじめになったことは無い。
学術院の解剖学でもアリューシャは一度も恐れたことは無かった。バケツに吐き出す同級生を尻目に教授からは「ナイフさばきが素晴らしい」と褒められAの成績を納めていたのだ。
知ってる人だから……?
生まれて初めて恐ろしい事だと思った。
一刻の猶予も無い命がそこに横たわる。
血まみれの手がアリューシャに為す術も無くただぶら下がる。
ジャンの叫び声と真っ赤に染まったぶら下がる腕がアリューシャの思考を停止させた。
呆然とトイレのドアの前に座り込んでいた。




