14. 冷たい雨(5)
◇ ◇ ◇ ◇
「俺は今猛烈に落ち込んでいる」
忙しいと断ったのに押しかけてきたジャンがキーファのベッドを占領していた。
「はあ!?」
「今お前の顔がいっちばん見たくない」
矛盾した言動のジャンにうんざりしながらデスクにいたキーファが顔を向けた。
「じゃあ、俺の部屋に来るなよ」
「なんでお前なんだ!?」
キーファがそれに何の反応もしないのでジャンは一人話し始めた。
「夏に俺の実家に来た時食ったショコラタルト美味かっただろ?」
少し思い出すようにしながら「……ああ」とキーファが答えた。
「あれ作ったのニーナだよ。お前の好物だ。あいつお前のことめっちゃ気に入ってるから、『また連れて来て! お兄ちゃん』って帰省する度にうるさい」
「…………」
「だから、うちの妹やるから、アリューシャは俺にゆずれ!!」
「なんだそりゃ? アリューシャ何の関係も無いだろ?」
「お前はアリューシャとは何でも無いんだろ!? そうだろ!?」
「譲るとかそういう事じゃ無いって話だ」
「わかった。それならもう俺たちの邪魔だけは絶対すんなよ!?」
キーファの顔が険しくなる。
「アホか! 今日のはそういう事じゃないだろ!? 現に危なかっただろうが!」
「俺一人でも平気だった。アリューシャの身を守る事だけ考えればそんなの何の問題も無いね。だいたいお前がいなきゃアリューシャから目を離す事なんてこれっぽっちも無かったんだ」
苛立ったキーファがジャンに噛みつく。
「お前が俺に突っかかってきたんだろ!?」
「俺はアリューシャに惚れてんだよ! 邪魔すんじゃねえ! それともあれか? お前もアリューシャに気があんのか!?」
「いや。俺は別に……」
そのキーファの答えにジャンが目を剥き出しにする。
「気取りやがって! お前はアリューシャが他の野郎と二人でいるのがほんとの所気にくわないだけだ!」
「何とでも言ってろよ」
「バーカ、バーカ」
「お前はガキか?」
「俺はお前と違って素直さと純真さを売りにしてんだ」
体に反動をつけてジャンがキーファのベッドから跳び下りた。
「お前なんかにアリューシャはやらん!!」
捨て台詞を吐いたジャンが扉を力任せに閉めて出て行った。
「くそ、みんな好き勝手言いやがって」
とっくに集中力など切れていたのに、キーファは仕方なく机に向かい報告書と格闘していた。
苛立って握っていたペンを机に放り投げると、ベッドにゴロンと横になる。右腕を顔に乗せて目を瞑った。
涙を浮かべて縋り付くアリューシャの顔が頭から離れない。
彼女のアイスブルーの瞳が氷雨と混じる。
手を伸ばしたい衝動に駆られるのに、それと同時に触れるのが恐ろしくなる。
かけがえの無いものが自分の腕の中から滑り落ちてしまう。
暗闇の中、目を瞑っていたキーファの耳に優しい声が届いた。
『キーファ……眠ってるの?』
いつの間にか香ばしいチキンの焼ける匂いがキーファの周囲にも漂っていた。
『もう夕飯の時間だってよ』
クスクスと笑う声がする。
『キーファってばかくれんぼしてるのに寝ちゃうんだもん』
甲高い少女の声。
この声は……姉ちゃん?
それでも瞼が重くて目を開けられない。
クローゼットの中にしまわれた毛布に包まれて、抜け出せない暖かさが眠気を誘う。
『キーファは狭い所が大好きなのよね』
穏やかで優しい響きの声がする。
……母さん?
『ほら、風邪ひいちゃうわよ。こっちにおいで』
手を伸ばしたいのに毛布から手を出すことができない。
――――ガシャーン!!!
突如何かが砕ける大きな音がした。冷たい風が地を這うように顔に吹き付けてくる。
『――――大丈夫よ! キーファ! 今のうちに手を伸ばして!』
ああ……違うの
そっちに行っちゃダメなんだ
そっちには怖いのがいるんだ
いつの間にかキーファを包んでいたふかふかの毛布が消え、クローゼットに居たはずが、低いベッドの下に体が横たわっている。
ベッドのフレームギリギリに長時間押し付けられ、圧迫感で息が苦しくなる。
『……キーファ……』
蒼白になった手がキーファの顔の近くまで伸びている。
母さん
焦点の合わなくなる瞳がその目を閉じまいと必死にキーファを見つめる。
血の気を失った長い指が濡れて震えている小さな手に当たった。
『……シー……』息を吐くようにして言葉を伝える。
キーファがうんうんと口を押さえ漏れ出そうな泣き声を止めた。頷くと母親の白い唇の端が上がったように見えた。
ごめんなさい
何もできなくてごめんなさい
守れなくってごめんなさい
キーファ…………
――――『……キーファさん……』
声が聞こえたような気がしてキーファが寝返りを打つ。
深淵の森の中、パチパチと薪が燃える音がして、オレンジ色の暖かい光に包まれていた。
規則的な寝息が心地よく聞こえてくる。
こちらを向いて目を瞑るアリューシャの右手がキーファの鼻先へと伸びている。
白くて細い指先がほんのりと桃色をしていた。
ああ、そうだ……
よかった、無事だったんだ
キーファがその艶々としている爪先にそっと触れた。
アリューシャ……
目を覚ますと部屋のランプの油が底をついたのか、ジジジと光が揺れている。
夢を見ていた。
懐かしくて、恐ろしくて、あたたかくて、泣きたくなるような――――胸焦がす夢を
「クシャッ!」
体がブルッと震える。
夜の冷たい雨に長い時間打たれていたせいか、少し寒気がする。
キーファがぞくりとして腕をさすった。
「風邪でもひいたかな……」そのままランプの火を消すとキーファはベッドの中へと潜り込みすぐに微睡んだ。
今消えてしまった夢の跡を探る。
悲しくても怖くても、夢の中で蘇る思い出に触れたい。
何も無い闇に落ちるよりも――――それはきっと、ずっといい




