2. country road(1)
春には黄緑色の房に花が咲き、夏には茂らせた葉っぱが心地の良い陰を作った。
秋にはドングリが落ち、冬には雪のオブジェに姿を変える――――
両親がこの家を買おうと決めたのはこの樫の大木があったからだと教えてくれた。
天上に向かって大きく枝葉を伸ばしたこの樫の木が、すっぽりと赤いとんがり屋根の家を包み込んでくれる。
部屋の窓から見える枝には、寒くなる頃にはツグミが渡ってきてチチチと高い音色で鳴いた。
麻の綱を太い枝に渡し、父がブランコを作った。それは寄宿舎に入るまで一番のお気に入りの場所になった。
日が暮れてもそこで体を揺らしていると、母が厨の窓からごはんよと声をかける。
それが日々の光景
母が亡くなった時も大きな幹の陰で、父の胸に抱かれてわんわんと泣いた。
◇ ◇ ◇ ◇
家を守るその大樹が鈍色に変わった大地に滑り込んだ。
側にあった赤いとんがり屋根も凄まじい音をたてて傾く。
駅から馬車に乗り、ようやく我が家を臨んだところで、アリューシャの足がピタリと歩みを止める。
両手で提げていたトランクを地面に落とした。
体中の毛穴が開き、大きく息を吸った瞬間、横にいたグラードがアリューシャの腕を掴んだ。
足元に落ちたアリューシャのトランクも掴み上げ、とって返すと、今しがた通り過ぎた教会の馬小屋に駆け戻る。
アリューシャは腕を引かれながら大きく傾いた栗の木の正面扉を振り返った。
父さん――――!
「グラート! 離してぇ!」
掴まれた腕をよじってグラートの手の中から逃れようとしたが、その手は年寄りの手とは思えないほど力強い。
「ダメだ、アリューシャ」
引っ張られるままに馬小屋の戸を潜り抜け、山積みにされた飼葉の側にしゃがみ込んだ。古びた板壁のすき間に顔を押し当て自分の家を見た。
玄関扉の前の、木製の階段が地面に飲まれる。
「とおさ――――」
思わず上げそうになった声をグラートのしわくちゃな手が包み込む。
「シー……」耳元でなだめるように声を出す。
言葉を押さえ込まれたアリューシャは、まだ家から目を離す事ができない。瞬きを忘れた瞳に涙がうるうると溜まっていく。滲む視界が鬱陶しくて目を瞑ると一筋涙が頬を伝った。
正面の扉が中から開かれた。
いつもは笑顔の優しい、目尻の下がった父親のヨルクが憤怒の形相で現れた。
ヨルクの向いた視線の先をアリューシャも見る。アリューシャから左側に見えるお隣の家の裏手に小山が見えた。
土くれでできていて家の一階よりも少し高い。
あんな小山はアリューシャの知る限りお隣の庭には存在しなかった。
その小山のてっぺんに小さな人影が見えた。
ツインテールにした金色の巻き髪が風に揺れている。
白いワンピースの裾がふわりと翻り、不気味な光景とは相対するような美しく可憐な少女がたたずむ。
少女がヨルクに向って何かを叫んだ。
それに呼応してヨルクも何かを叫んだ。
二人は大声で何かを話しているが建物の軋む音と大地から不気味に響く轟音が邪魔してよく聞き取れない。
その時大きくアリューシャの家が傾いた。
ヨルクがドアノブにしがみつくが上手く掴めず地面へと投げ出される。
アリューシャは悲鳴を上げた。
グラートが力を込め、両手でその口を抑え込んだので声にはならなかった。
スローモーションのようにゆっくりとヨルクが大地のうねりに巻き込まれて行く。
頭から土砂の大波を受け左腕だけが空中に見えた時、突然大地は沈黙した。とろけていた土はその水分を失い、波はそこで動きを止め大岩のように固まった。
樫の大樹もとんがり屋根の家も大きく傾き、三分の一ほどが地面に埋まっている。
ヒョオォォォ
乾いた土ぼこりを乗せて風が吹いた。辺りはシンと静まりかえる。
アリューシャの家の1階の角の柱がゴギンと音を立てて崩れた。
2階のバルコニーが階下へ落ちる。
轟音とともにくずれゆく家
うねる大地に捕らえられた白い腕
二人はそこから目を離せず、体も動かせず、時が止まったようにうずくまっていた。
あの少女の存在などもう頭の片隅にすら置かれていなかった。
轟音が止み、村にようやく静けさが戻ると、各々の家の中で恐怖に震えていた村人たちがポツリポツリと顔を覗かせた。
開いたドアの隙間からスルリと男の子が飛び出した。母親は驚いた顔を見せて男の子を追いかける。先ほどまで沼のように溶けていた大地が今は岩のようにカチカチと固まっている。
男の子は大地のせり上がりまで走ると泥の壁を見上げた。その顔はみるまに青ざめ、大声を上げると後ろから走ってきた母親の股座に潜り込んだ。
母親も大きな悲鳴を上げる。
グラートの両手は次から次に溢れてくる涙で濡れていた。
それでもグラートはアリューシャの口元から手を離さなかった。