8. take me home(1)
炎が氾濫し白亜の屋敷をドラゴンのように飲み込んでいく。
屋根伝いに飛ぶキーファの肩越しに、ルイーザの屋敷から上がる真っ赤な炎を見つめていた。
おばさまの怪我も、この火事も全部――――
(私のせいだ……)思わず心の中の凝りが口から零れ出た。
「アリューシャのせいじゃない」少し息を切らせながらキーファが呟く。
炎が見えなくなり、空に黒い雲だけがフリージャの町の大きな時計塔の向こう側に広がっているのが見えた。けたたましくカンカンカンカンと鳴っていた消防の鐘の音も、次第に小さくなっていく。
アリューシャはキーファの肩に力無く手を添えていた。
「アリューシャ……」
アリューシャの体の小さな震えがキーファにも伝わる。町や集落を避けてキーファは木々の間を跳び続けた。
2つ目の町を抜けた峠に小さな看板を下げた宿を見つけた。宿に入るとアリューシャをドアのすぐ側の椅子に下ろした。
「部屋は空いてるかい?」
「あいにく寝台が一つの部屋しか空いてませんね」
「そこでいい」
椅子の上でうなだれたアリューシャの側まで行くと、膝をついてキーファが声をかけた。
「アリューシャ? つかまれ」
「大丈夫です……」
アリューシャが椅子の背もたれを持って立ち上がるが、足に力が入らない。
見かねたキーファがまたすぐにアリューシャを抱え上げた。
「お客さん、奥さん具合でも悪いのかね? 医者を呼ぼうか?」
「いいえ……」ぎこちなく笑むキーファがさっと階段を上る。
店主の声が聞こえないのかアリューシャは微動だにせずうつむいたままだ。
「腹は減ってないか?」
「はい……」
「それならもう眠ったほうがいい」
「キーファさん……それ……?」
キーファのシャツの裾口からタラリとひと筋血が流れ落ちた。
「かすっただけだ」
「見せて下さい!」中のシャツの袖は赤く血に染まっている。
キーファが動きを止めながらゆっくりとシャツを脱ぐと鍛えられた上半身が露わになった。
その上腕部は血で赤く染まり、斜めのラインに皮膚がスッパリと切れている。
「ごめんなさい」
今までケガにまったく気づかなかった。
キーファにしがみついてただ震えていた自分が弱くて情けなくて、アリューシャは自分自身に嫌悪した。
涙をグッと噛んで堪えると、袋から縫合の針と包帯を出す。
「私気づかなくて……こんなに酷いケガなのに」
「俺だって言われるまで気づかなかったよ」
キーファが「ランナーズハイみたいなもんか?」と笑顔を浮かべる
涙で歪んでくる視界を瞬きで誤魔化し、炉の明かりを頼りに腕の傷を縫い上げる。
キーファは針が穿つ肌の痛みに静かに耐えていた。
「痛いですよね。もう少しですから……」
「やせ我慢してるから早く終わらせてくれよ」キーファが冗談めかす。
「終わりました」
「サンキュー。さすがに上手いな、医者の卵は」
「いえ……」
我慢していた涙がこみ上げてきて、視界がユラユラと揺れる。
ダメだ……もう泣きそう
鼻をズッと吸うと「片付けて来ます」と言ってアリューシャは立ち上がった。
「アリューシャ」
キーファがアリューシャの手を掴んだ。
「何も気にするなよ」
アリューシャは前を向いたまま立ち尽くす。キーファの顔を見ていられない。
手を下からキュッと引かれて思わずアリューシャは振り返った。
涙がぽろぽろ、ぽろぽろとこぼれ落ちていた。
今度は強くキーファが手を引いたので、アリューシャはその場によろっと膝をつく。
「泣いていいから……。一人になるなよ」
「ごめんなさい」
下を向いたアリューシャの涙がキーファの膝に落ちた。キーファは思わず指先を涙に濡れているアリューシャの頬にやる。しかし寸前でピタリと動きを止めた。握り拳を作るとその手を床に下ろした。
「ほら」側にあったガーゼを渡す。
アリューシャがそれを目元に当てると声を殺して泣き出した。
その夜、一つだけのベッドにアリューシャは横になっていた。
ケガをしているキーファにベッドを使うように話したのだが、それを聞き入れてはくれなかった。
床に革袋を置き、枕にしたキーファは泥のように眠り込んでいた。
占有者二人を相手に戦い、屋敷の人間を助け、ケガをしながら何キロもアリューシャを抱えて飛んだキーファはさすがに疲労困憊だった。
アリューシャは身を起こすと、自分のバッグを肩からかけた。
床鳴りがしないようにそっと歩いてドアを開ける。
宿から出ると、ひんやりとした空気にさらされ、アリューシャはストールを肩に巻いた。
夜明けまで、まだ遠い時間
全ての者が眠りについている。
もう誰も巻き込めない
あの日憐憫の目を向けたグラートの言葉を思い出す。
(自分という存在をひたすら隠せ。それがお前さんの生き残る道だよ……)
誰にも頼らず一人だけで逃げるべきだったのだ。
クラウゼンさんも
シルヴィオさんも
訪ねるべきじゃないし
ルカも
おばさまも
頼るべきじゃなかった
そしてキーファさんも――――
縫合の時、キーファが反射的に強ばらせた腕の感触を思い出した。これ以上彼が傷つくのを見たくは無い。胸がチリチリと、まだ消えない残り火のように焼けて疼く。
「アリューシャ」
その声に驚いて振り返ると、宿の扉のすぐ側にキーファが立っていた。
「一人になるなと昨日言っただろ?」キーファが笑顔を向けている。
「いいんです。ごめんなさい。私……もお」
大股で歩いてくるキーファが両手でアリューシャの頬を挟む。
「俺はこれが任務なんだよ。わかるか?」
「でも、みんなに迷惑かけちゃって」
「みんなそうしたくてしてるんだよ。勝手にやってんだ」
「だって」
「気にするんならもう止めない。このまま気にしてろよ。助けてくれたキーファさんの為に、これから先任務で怪我したらタダで診てくれ。ほら、これで利害一致だぞ?」
「それじゃ……」
「ああーもうそれ以上何か言うなら、このまま不細工にするからな?」
キーファが両手に力を入れるとアリューシャのほっぺが潰れて「うーん」と声を上げた。パッと手を離す。
「よし、わかったか?」
アリューシャが唇をキュッと結ぶとうつむいた。
また涙が落ちそうになる。
「わかったのか?」
顔をのぞき込むキーファの笑顔がアリューシャにはキラキラと眩しく映った。
「……はい」
「さ、戻ろう。このままじゃ無銭宿泊で役人呼ばれるぞ」